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感情は外部から到来し、物語は感情を転送する

【課題1】

manga

【課題2】
私たちの日常は朝目覚め、食事をとり、仕事に行き、本を読み、眠るという単純な反復から成り立っている。そしてその日常は喜び、悲しみ、怒りなどの単純とは言えない感情に支配されているように見える。私たちの日常の行動を縛り、心の内面に突然生起するように見える「感情」とは、いったいどこからやってくるのだろうか。感情はどのようにして私たちに到来し、いつ去っていくのだろうか。

「感情」とは私たちの心=内面に生まれるものであり、私=「主体」の内部に閉じた世界における出来事であり、内向的な気持ちの運動であるという見方が一般的であろう。しかし私たちを衝動的に突き動かし、主体なるものをバラバラに解体し、その後の生き方にまで影響するような感情が体験されることもまた事実である。そこに生起する感情とは決して内面に閉じた内向的なものではなく、私たちが主体と呼ぶ場所を遥かに超えた「外部」からもたらされるものではないだろうか。それは「情動」とも呼ばれるものであろう。私たちが思考すべき感情とは「外部」から到来し、主体を貫くものである。

漫画におけるキャラクターの感情はどの様に生起するのだろうか。漫画のキャラクターの内面=感情をいかに描くかについて、日本の漫画文化は技術的な進化/深化の膨大な歴史を蓄積しており、世界に類のない達成を成し遂げた。そこにはコマ割り、キャラクターの描線、フキダシの形状に至るまで、小説や映画では表現できない、感情の可視化のために技術の集積が存在する。 一方でそこに描かれる感情の多くはキャラクター=主体の内部から生み出される内向的なものに特化しており、その技術はキャラクターの中心にあると想定される共感可能な「気持ち」を描くことに奉仕することを目的としたものであるだろう。
漫画における見えない「感情」を見いだすこと。どのようにしたら可視的で共感可能な気持ちを吹き飛ばすような「感情」=「情動」を漫画に持ち込むことができるのだろうか。 その方法とは見えない力によりキャラクターを揺さぶる「外部」を物語に招き入れることである。漫画における「外部」とは例えばテキスト外の「現実」であり「歴史」であったりするだろうが、本論では「他者の物語」という特権的な「外部」に接続した作品、「他者の物語」から感情を転送/転移することで「外部」に触れえた作品を召喚し、詳細に論じてみることにする。

藤子・F・不二雄の「老雄大いに語る」と「コロリころげた木の根っ子」は奇妙な作品である。両作とも夫婦間の強い否定的な「感情」を描くことに成功しており、内向する感情が爆発/発現するシーンはスリリングでもあり、短い作品で屈折した感情の襞に迫ることに成功している。それに加え両作は内向的な感情表現を超え、「外部」に開かれた何とも言えない剰余を感じさせる作品でもある。

両作品のストーリーはおおよそ次の通りとなろう。
「老雄大いに語る」は合衆国宇宙局長であるサミュエル・クリンゲラインがロケットの搭乗員となる異例の決断をすることで始まる。サミュエルの妻であるアグネスはいつも夫の言動に対して口うるさく小言を言っているが、それに対してサミュエルは無言を貫く。そしてサミュエルがロケットによる冥王星への着陸に成功した後、地球から5時間20分の時間をかけて届く妻の静止画に対して、ここぞとばかりに悪罵を投げかけることで物語の幕を閉じる。
「コロリころげた木の根っ子」は結婚して1年の新人編集者である西村が、大物小説家である大和の原稿を取りに行くシーンから始まる。大和は妻に対して横暴にふるまい理不尽な理由で暴力を振るう。一見、大和の暴力に耐えているように見える妻であるが、事故死の新聞記事の切り抜きを集めるという奇妙な姿を西村に見られてしまう。そして大和の妻の不自然な言動から、西村が大和に対する妻の殺意を確信するという結末に至る。

ここでは2つの作品を「同時に」論じることになるのであるが、まずは両作品が感情を描くことに関して、極めて強い主題論的な共鳴が見られることを銘記しておく。両作品の夫婦間に存在する否定的な感情表現も共通しているように見えるが、主題論的な観点から見ると「垂直運動により感情が加速する」という共通項を持っている点を指摘すべきであろう。「老雄大いに語る」では宇宙飛行におけるロケットの上昇という「垂直運動」がサミュエルの感情をより増幅し、最後のコマの感情の爆発を導いている。一方の「コロリころげた木の根っ子」においては、最後のコマで西村が大和の妻を見上げるという視線の「垂直運動」により、大和の妻の感情が強く打ち出されることになる。
感情を重力に逆らった「垂直運動」によって変形し、増幅させ、爆発させること。これが私たちが「老雄大いに語る」と「コロリころげた木の根っ子」を同時に語り、そして2つの物語を接続させる原動力となる。

ここから両作品における「外部」への抜け道、物語を接続する鍵穴を見出していく作業となるのであるが、それは一見すると物語における謎に見えるところに表れる。一つの作品のみを単独で見ていると謎に見えるものが、2つの物語を接続することで別の感情を招致するのである。

一つ目の謎は「老雄大いに語る」において、サミュエルがタバスコを野菜ジュースに大量に入れ、妻であるアグネスに飲ませるという奇妙な身振りである。これがアグネスの怒りを買うことになるのであるが、サミュエルのこの唐突な動作はいかにして引き起こされたのだろうか。 私たちは同じようなシーンを「コロリころげた木の根っ子」に見出すことができる。大和の妻が「マグロ」と「アジ」を夫に食べさせ続ける身振りである。サミュエルの大量のタバスコ入り野菜ジュースは大和の妻の切り抜いた「新聞記事」に記載されていたものなのである。この読解はサミュエルと大和の妻が物語を超えて不可視の強い愛情で結ばれていると仮定することで成り立つものであるが、一方では「新聞記事」を媒介とした物語のあいだの感情の転送でもあり、そこには内向的な感情を超えた「外部」からもたらされる強い感情を見出すことが可能である。漫画の読みを幾重にも重ね合わせ、見えない感情を見ること。

そしてもう一つの謎は「コロリころげた木の根っ子」において西村の妻である優子からのものと思われる電話が突然、大和の家にかかってくることである。西村から優子へ電話を掛けたあとしばらく時間をおいて、何故か大和の家に電話がかかってくるのである。 実は西村から電話した直後に折り返しの電話があったと仮定してみる。そこに地球・冥王星間で電波が到達する時間である5時間20分の時差が挟まれていたとしたらどうだろうか。もしかしたら電話の主は優子ではなく、サミュエルの妻であるアグネスだったという可能世界が紛れ込んでくるのではないか。西村とアグネスが強い愛情で結ばれていると仮定すること。そこにはもう一つの物語という外部からの不可視で強い感情の転送を見出すことができる。

本論で示してきた読解は表面的な可視の感情としては憎悪に見満ちたものであるが、「他の物語」=「外部」から転送される不可視の愛情により物語を豊饒化する試みである。テキストを超えた接続を試みることで、過剰に可視化された漫画のキャラクターに不可視の感情を読み取ることができるのである。それは単なる二次創作に堕してしまう読解でもあろうが、無限の不可視の感情を重ね合わせることで物語を接続し続ける作業が、漫画の読解の可能性を大きく拡げることとなるのである。

文字数:3090

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