亡霊=ゴーストは未来から回帰する
たとえば、「ポップ文学の傑作」として吉本隆明の激賞を受けた『さようなら、ギャングたち』をはじめとする初期作品群で日本文学における「ポストモダン」を問い、近代日本文学史の解体・再構築を試みた『日本文学盛衰史』『官能小説家』においてテキストに侵入しその表面を横断するする「文学史」を問い、東日本大震災の後には『恋する原発』などの「震災文学」と呼ばれる作品群で小説に招致される「現実」を問いに付してきた小説家が、そのすべての問いを一つのテキストに集約したとしたら、いったいどの様な小説が生成されるだろうか?そのときにテキストはどのような精彩を帯び、そのテキストの表面を横切る<出来事>はいかなるものであろうか?そして、その問いが交差する<場所>はどのような光景となるのであろうか?そして、その境界画定においてはどのような「襞」が生成されたのだろうか?
「ポストモダン」と「文学史」と「現実」が交錯する<場所> - 高橋源一郎が「全て」をテキストに投入しようと試みたが失敗し、8年の「リハビリ期間」をおくことを余儀なくされてようやく完結した小説である『ゴーストバスターズ 冒険小説』(97年)がそれである。本論では、『ゴーストバスターズ 冒険小説』において「ポストモダン」「文学史」「現実」がテキスト上でどのような遭遇を果たし、その境界にどのような襞を生成するのか、これから可能な限り念入りに論じてみたいとおもう。
冒険小説、俳句、詩、漫画/アニメ、ポストモダン文学など様々なジャンルの意匠を横断しながら物語が進行していくかに見える一篇におき、その概要はおおよそ次のように約言することができる。様々な追っ手を振り切りながらアメリカ横断を続けるガンマンであるブッチ・キャシディとサンダンス・キッド、俳句を詠みながら世界各地を旅し「俳句鉄道888」に乗車する俳人のBA-SHOとSO-RA、ドン・キホーテの物語が完結した後の世界におけるドン・キホーテの姪とサンチョ・パンサ、現代を舞台とし作者と等身大の人物像を思わせる「正義の味方タカハシさん」、そして『ペンギン村に陽は落ちて』のパロディを舞台とした則巻博士とペンギン村の面々。それらの登場人物がゴーストを探し求め、あるいはゴーストと不意の遭遇を遂げることとなる。
「ポストモダン」と「文学史」と「現実」が交錯する<場所>とはどのようなものだろうか?たとえば一篇において、「正義の味方」がゴジラと戦うときにIS(イスラム国)を想起させる「イスラム教徒軍」をテキストに招致してしまうこと、小説のラスト間際の重要なシーンにおいて「俳句鉄道888」が燃え尽きて消滅しようとするときにお笑い芸人の芥川賞受賞作(近代文学を継承する作品?)のタイトルとなる「火花」を創り出してしまう感動的なシーンは、ゴーストが未来から回帰する不穏な事態として検討してみたくもなるのだが、この点については割愛する。ここではただ、『ゴーストバスターズ 冒険小説』における「ゴースト」とは「近代文学」のことであることを銘記すればよい。
『ゴーストバスターズ 冒険小説』の物語を貫く問いは「ゴーストとは何か?」というものである。小説中ではゴーストは「ものすごく手強く」「とってもやばい相手」であり、ゴーストには「奇妙な性質があり」「ひとりで立ち向かわなければならない」もので、ゴーストに近づきすぎると「ある世界へ行って別のあるだれかになり知らない経験をするというのとはもっとずっと違った大きな変化」を蒙り、ゴーストに触れると「夢と現実のような粗雑な区分は捨てなければならない」とされる。
作品の発表時から「ゴーストとは何か?」という問いにさまざまな回答が提示されたが、私見によれば「ゴースト」とは選択の余地なく「近代文学」のことであろう。「ある世界へ行って別のあるだれかになり知らない経験をする」というのが「物語」の世界を指すとすれば、近代文学とは個人の内面の発見、風景や国民といった概念の生成、近代的な主体の確立といった「もっとずっと違った大きな変化」をもたらすものである。
そして、『ゴーストバスターズ 冒険小説』では冒険小説、俳句、漫画など近代文学と境界を接する様々なジャンルを横断しながら物語が進行していく。そして、物語の中でゴーストについて語られるのと並行するように、そのテキストには内面描写や独白、風景描写、近代的主体が導入されるといった変化がみられる。それらはもちろん「近代文学」の特徴でもあるだろう。物語におけるゴーストの登場が、テキストにおける「近代文学」的なものの浸透を招くのである。
作品の前半部においてゴースト=近代文学がテキストに最も「浸透する」部分として注目に値するのは、ゴーストに追われて逃げるアメリカ東部の人々に取り残された「ゴーストの孤児」が突然一人称で語り始める箇所である。ゴーストに追われる大人や子供たちの「悲哀」を語ることにより、自分の内面を語ってしまう「ゴーストの孤児」 - ゴースト=近代文学の浸透が内面告白をテキストに呼び込み、その表面に鮮やかな切断を持ち込み、その<場所>の風景に後戻りできない傷を生み出すことは特筆すべき点である。さらに、この章に絶妙なのは、「ゴーストの孤児」が同じく馬車で逃げている孤児仲間である「天竺鼠」からゴーストに関するうわさ話を聞くくだりにみられる、テキストが呼び込む<出来事>である。
東の方に、石炭ではなく「ほうしゃのう」というものを使って電気という雷のようなものをつくり出す場所があり、そこである時「メルト・ダウン」が起こって「ほうしゃのう」がいっせいに外へ飛びだした。(略)ゴーストはその消え去った「ほうしゃのう」によって姿を変えられえた怪物であり、(略) (『ゴーストバスターズ 冒険小説』)
ここで、「ゴーストの孤児」の告白において、ゴースト=近代文学がテキストに「津波」のように押し寄せることによって、「ゴーストの孤児」が不意に「メルト・ダウン」という言葉を漏らしてしまうことを銘記すればよいだろう。テキストの表面に到来する「近代文学」という大津波が「物語」という小説の原動力(=原子力発電所?)を飲み込んで冒険小説のメルト・ダウンを引き起こし、テキストに「メルト・ダウン」という言葉が書き記されてしまうこと。物語内容において「近代文学」という隠喩に触れることにより、テキストの表層においてに「震災」を引き受けてしまうことを確認すればよい。
さらに、作品の後半部においてゴースト=近代文学が最も強力に憑依してしまうのは「ペンギン村に陽は落ちて」の章である。宇宙船からニコチャン大王が降り立ったことをきっかけとして、ペンギン村の村民はこれまでに経験のない「死」に襲われる。ペンギン村の村民であるパーザンやはるばあさんが死を受け入れることによる「悲哀」が語られる一方、則巻博士はその「死」の謎に取り組み、「死」の解明のためにこれまでの発明品を集積した(原子力発電所を思わせる)機械をつくり出そうとする。最終的に則巻博士の努力もむなしく、ペンギン村は消滅してしまうのであるが。
ここでもまた、ペンギン村という世界に近代文学=ゴーストが浸透することで、放射能が拡散するかのように「死(=詩)」や「悲哀」や「内面告白」が物語に振り撒かれてしまい、ペンギン村という寓話的な物語世界の消滅を招くことを確認すればよい。≪ペンギン村≫という名の原子力発電所の≪火が落ちて≫しまうこと。
そして、「ペンギン村に陽は落ちて」の章を読む者は、中上健次『地の果て 至上の時』を想起する誘惑を避けられまい。ゴースト=近代文学による物語世界の消滅を描く小説と、近代文学の特権的な世界(=路地)の消滅を描く小説。日本近代文学の正当な継承者であると目される中上健次が、その臨界点を刻み付けたことで名高い『地の果て 至上の時』は、中上文学の特権的な<場所>であった路地が解体される様を描く。中上初期三部作の舞台である路地は近代文学が染み込んだ場所であり、中上作品の特権的な登場人物である秋幸の生まれ育った土地でもある。一篇では、その路地を秋幸の父である浜村龍三が解体していく様子が描かれるのであるが、秋幸はその浜村龍三に対する「父殺し」を果たせずに浜村龍三の自死を目撃してしまい、ただ一つの言葉を叫ぶ。ゴースト=亡霊=近代文学の自死を見たかのような叫びを
自分は一体、その影の何なのか、その影は自分の何なのか?と思った。一瞬、声が出た。秋幸は叫んだ。その声が出たのと、影がのびあがり宙に浮いたように激しく揺れ、椅子が音を立てて倒れたのが同時だった。「違う」秋幸は一つの言葉しか知らないように叫んだ。(『地の果て 至上の時』)
もとより、近代文学の風土になじまない『ゴーストバスターズ 冒険小説』においては、ペンギン村の消滅を目撃する則巻博士も秋幸と同じ身振りを反復する誘惑を振り払い、ぎりぎりのところでただ一つの言葉を叫ぶことを踏みとどまることになる。
「博士」は微笑もうとした。「違うぞ」といおうとさえした。そしてすべてが完全に終わった。
(『ゴーストバスターズ 冒険小説』)
高橋源一郎の小説における登場人物が、「違う」という言葉を発する所作を回避することにより、『ゴーストバスターズ 冒険小説』はここで、真に「ポストモダン」文学と化すのだと断じてよければ、この場面の切々たる緊迫感はつまり、「ポストモダン」と「文学史」を一挙に貫く現実的な境界線=襞が生成する場所であると同時に、その襞はテキストを真に「現実」に向けて開く<場所>にほかならない。
則巻博士が近代文学の臨界点である<場所>である秋幸に同一化することを極限で回避すること。それは『日本文学盛衰史』や『官能小説家』によって近代文学を脱構築するよりもはるか前により高度に達成されたポストモダン作家による「近代文学」「文学史」への抵抗であろう。
われわれは『ゴーストバスターズ 冒険小説』の作者が立った、「ポストモダン」「文学史」「現実」が交錯する<場所>について論じてきた。「ポストモダン」の意匠を纏った小説形式を採用し、ゴーストという形象によって「文学史」を物語に浸透させ、そのテキストに未来の震災の回帰を想起する「現実」を刻み付けること。『ゴーストバスターズ 冒険小説』以降の高橋源一郎の作品がその<場所>をより深化させているのかという問いはここでは措く。ただ、1997年に発表されたテキストが2016年の現在においても蔓延するゴースト=亡霊を集積し、「核爆発」を引き起こすまでの強度にまで圧縮したことを確認すればよい。
(*)本論考は渡部直己氏のテキストの「型」および「語彙」を参考にしていることをここに記す。
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