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境界画定の批評、批評の境界画定

「なにもないものをかたちにする それだけの話」
(KOHH『BE ME』)

1.境界画定の批評  

佐々木敦は「批評再生塾」の開講宣言において「批評とは本来、外の言葉である」と宣言し、あるべき批評の姿を次のように語る。

 たとえ或る領域の内部にあるとしても、絶えず外部の視線を導入して考え、語ることにより、その領域を構成する者たちと共振し恊働し共闘し、遂には領域自体の変化と進化を促すこと。

佐々木は、批評とは批評対象領域の内部に自閉するのではなく、「外の言葉」「外部の視線」が必要であり、一方では「外部」に立ってただ客観的に観察するだけではなく、外部を導入して批評対象の領域自体を内部から変化させる必要があると論じる。

批評にとって「外部」とは何だろうか。そしてどうやって「外部」を確保できるのだろうか。

我々が批評の歴史で繰り返し見させられてきたのは、ただ内部の言葉を洗練することに終始した内輪のおしゃべりであり、「外部」を確保したつもりがいつの間にかその外部が内部に回収されてしまう光景=メタレベルの不可能性の証言であった。

外部を確保するのは困難であるが、外部が内部に取り込まれてしまうのは必然であり、逆に内部に回収されない超越的な外部を保持しても、それは批評文としては無意味なのだ。

内部に完全に取り込まれず、かつ内部の変化を促すような外部について思考すること。批評における問いとは外部と内部の≪境界≫を定義することであるのだ。内部に回収されない=破棄されない≪境界≫を保持すること。そして批評の対象領域の≪境界≫を進化させること、複数の対象領域の≪境界≫を変化させること。

ここで「批評とは境界画定である」「批評とは境界を描く行為の別名である」と仮定して本論を進める。そして本論の問いを「批評はどのような境界を描くべきなのか?」というものに移行させることとする。

 

ここで哲学者のジル・ドゥルーズと、ドゥルーズの影響を受けた人類学者ヴィヴェイロス・デ・カストロの言葉を導入して議論を進めよう。

ドゥルーズは『フーコー』においてサルトルの現象学に触れ、「(サルトルの思考は)存在の襞に到達することなく、存在者のなかに《窪み》を作ることで満足した」とのサルトル批判を展開した。存在=外部、存在者=内部と読み替えることにより、これは批評の在り方に対する指針と解釈することができる。批評は外部と内部を接触させてその境界に《窪み》を作るだけではなく、その境界に襞》を見いだし、その境界=襞を思考しなければならないのだ。

一方でカストロは『食人の形而上学』において、境界=襞を画定する身振りについて、「問題は境界を破棄することではなく、あらゆる分割線をかぎりなく複雑な曲線にねじ曲げ、それらを折り畳んで稠密化し、虹色にして輝かせ回折させなければならない」と論じる。

批評とは外部と内部の境界に襞を生成し、それを緻密化し、虹色に輝かせる行為であるべきなのだ。批評における境界画定とは境界を単なる直線・断面とすることではなく、外部が内部に折り畳まれた襞を見出す行為であり、その襞を思考することにおいてのみ批評は他者・出来事を思考することができるのである。境界を襞として思考することで、批評は内部の圏域に囚われないことが可能となる。そして内部と外部の境界=襞において見いだされる行為とは「翻訳」であり、翻訳の不可能性を経験することが襞を豊饒化することであろう。

 

本論に課された問いは「批評再生塾第1期を総括せよ」というものであった。ここまでの議論を受けて、その問い自体を次のようにスライドすることができる。

≪批評再生塾第1期は批評対象の境界に襞を見いだし、それを稠密化し、虹色にして輝かせることに成功したのだろうか?それとも批評対象に窪みを作ることで満足しただけだろうか?≫

まずは、第1期総代である吉田雅史の論文である「漏出するリアル 〜KOHHのオントロジー〜」においてこの問いを検証する。

 

2.「漏出するリアル」における境界確定

「漏出するリアル」の前半部で、吉田雅史は日本語ラップの歴史をきわめてクリアに記述する。そこでは様々な境界画定の身振りが繰り返されている。まずはその手つきを見てみよう。

まず1980年代にヒップホップが米国から輸入されて日本語ラップが誕生した経緯が語られる。吉田は米国のヒップホップが境界を越え、日本に持ち込まれた場面を次のように語る。

 ことヒップホップに関しては、米国産のオリジナルに忠実な翻訳は必要なかったことが、次第に明らかとなった。何故なら、ヒップホップが掲げる重要な理念には、オリジナリティを保つこと、そしてそのような自己の独自性を「レペゼンする」=「代表として誇る」ことが標榜されているからだ。

吉田は米国のヒップホップと日本語ラップの境界では「忠実な翻訳は必要なかった」と語り、その境界を描く行為を放棄してしまう。その直後に「現代詩とラップを分かつもの、それは縦書きと横書きの世界観の違いに帰結する。」という極めて重要な指摘があるにもかかわらず、独自性=レペゼンがヒップホップの理念であるという理由で、「ローカライズ」の内容はまったく問われない。

その後の日本語ラップの歴史に関しても、吉田の筆は境界を一筆書きで描くように進行していく。「さんぴんCAMP」に代表されるハードコア・ラップによるJ-RAPの駆逐、帝国=東京のヒップホップシーンに対する亜周辺=地方のヒップホップの反撃が語られるが、それらの境界について深く思考されることはない。

「反撃」「抵抗」というのが「漏出するリアル」において重要な概念であるはずであるが、「ハードコア・ラップ」「亜周辺」による反撃の内実は全く語られない。「ハードコア・ラップ」と「J-RAP」、「東京のヒップホップ」と「地方のヒップホップ」の境界画定を行いながら、その境界の描写は省略されてしまう。その境界はツルツルの直線のまま放置され、そこに襞を見いだす思考は最後まで避けられるのである。

その身振りは「漏出するリアル」のテーマである昭和/平成の議論でも繰り返される。KOHH/志人に独特の「私性」を見出すことを通じ、KOO/志人以前の日本語ラップの歴史は平成の裏面である昭和の歴史であったが、KOHHと志人により平成への展開が起きたと結論付けられる。

しかし昭和と平成の内実、境界についてはほとんど論じられない。その境界もまたツルツルした断面のままであり、その断面を滑るように論考は終了してしまう。

この境界画定の身振りは、ある意味では単なる形式的な問題であるのかもしれない。論文の内容・内実は別のところにあり、そこには形式は関係がないという反論もあるだろう。そこで次章では、その境界画定という形式的な問題が、論文の内容自体に深刻な問題を引き起こしている点を検証する。

 

3.「漏出するリアル」における内容の問題  

吉田雅史は日本語ラップの歴史を概観し、「悲哀」と「反撃」の有無を論じることでその特徴を記述する。米国のヒップホップ、そしてその源流のブルースには悲哀と反撃があった。そしてそれを輸入した日本語ラップの起源であるいとうせいこうにも、バブル景気の享楽のなかでの「内面における悲哀」があったことを指摘する。

ヒップホップは、享楽の音楽ではない。それはいつも、悲哀を我が身に、反撃を叫ぶ者に寄り添って来た。それはラップという言葉による、悲哀を生み出した状況に対する反撃でもあり、悲哀を感じる自身を鼓舞するための自己への反撃でもある。

その後の日本語ラップの歴史におけるハードコア・ラップによるJ-RAPへの反撃、地方による東京への抵抗においては、根源に悲哀はなかった。そしてその後に現れたKOHHが、その独自のリアルにより日本語ラップに「悲哀」を取り戻したというのが吉田による日本語ラップ史の見取り図だ。

ここで「悲哀」について考えてみる 。またしてもドゥルーズの概念を思考の導きの糸としてみよう。ドゥルーズは『千のプラトー』において「情動」と「武器」という概念を導入して次のように語る。

 情動は感動の素早い放出であり、反撃であるのに対し、感情はつねに移動し、遅延し、抵抗する感動である。情動は武器と同様に投射されるものであるのに対し、感情は道具のように内向的なものである。・・・武器は情動であり、情動は武器である。・・・そのためそれはまた宙吊り状態と不動状態の技術でもある。情動はこれらの両極端のあいだを動き回るのである。

吉田がいとうせいこう、そして日本語ラップに見る「悲哀」とは主体と客体、自己と他者を明確に分離してはじめて自己の内面に見いだされる内向的なものであり、ドゥルーズの言う「感情」に相当するものであろう。

一方で米国のヒップホップの歴史に見いだされるとされた「悲哀」とは、実はドゥルーズの言う「情動」であったはずである。米国のヒップホップにおける「情動」は黒人の歴史を貫き外へ放たれるものであり、外部や他者へと主体を開くものであろう。決して内面的、内向的なものではなかったはずである。日本語ラップの「悲哀」と米国のヒップホップにおける「情動」は同じ言葉で語って良いものではないのだ。

「漏出するリアル」の論考において、米国のヒップホップと日本語ラップの境界画定に失敗したことが、「悲哀」と「情動」の差異を見誤ることに繋がり、吉田の議論の中核である「悲哀」という概念の稠密化に失敗する原因となったのだ。

 

4.批評の境界画定

東浩紀は『ゲンロン1』の巻頭言において、「まじめとふまじめの境界が揺らぐ経験、それこそがソクラテスの実践であり、バフチンがポリフォニーと呼んだものであり、デリダが脱構築と呼んだものだ。」「まじめとふまじめの境界を揺るがして思考する」「国境を越え、本物と偽物の境界を抹消するものについて考える」と語る。

ここで本論の最初の仮定であった「批評とは境界画定である」「批評とは境界を描く行為の別名である」という定義に言葉を足す必要があるだろう。

《批評とは批評対象の境界画定であり、かつ批評自身の境界画定である。そしてその境界に外部を折り畳んだ襞を生成し、それを稠密化し、虹色にして輝かせる行為である》

『思想地図』という名称は、正に批評における境界画定という行為を体現するものであった。そして『ゲンロン』において進行中の「現在日本の批評」とは批評自身に対する境界画定の行為である。そこには襞の稠密化があるのだろうか。将来の批評家を目指す批評再生塾2期生にはその作業の一端が課せられている。

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