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わたくし歯、または世界

吾輩は歯である。名前はまだない。

ああ、人間でないモノが一人称で名乗る時についこんなことを言ってしまうようではいけない。出だしで、大いにネタかぶりする可能性がある。
しかし、たとえネタがかぶったって、こっちは”歯”なのだから、同じ種族で被ったネタでも、主体が別ならまぁいいのではないか。
猫同士でかぶったのなら、同じ猫界、もしくは猫壇では「極めて陳腐なパロディである」と言われるかもしれないが、歯でやったのは私が初めてのはずだ。いやしかし、一人称の問題というのは、そんな種族を超えて考察されるべき形而上の問題である可能性も考えられる。一人称で語り得る存在は全て一人称の問題を同じように受け止めなくてはならないのかもしれない。大変なことだ。”歯”をやっている間には、過去の考察を知る機会などなかなか持ちようがないのだから、なかなか酷な話である。

話が逸れてしまった。改めて、私は歯である。
先刻、名前はないと言ったが、種類としての命名はある。どうやら”奥歯”であるらしい。あるらしいというのは、どうにも自分には自分のことがわかりかねるからである。
なんせ、主体としての可能性がある歯として、この世界に生まれ落ちたのはどうやら自分が初めてではないかと思われ、それゆえ自分自身を知るために参照する方法も少ない。
客観的な事実についてはある程度のことまでなら観察と推察で知ることが出来る。これであとは検証まで行って、再現性まで確認出来ればいいのだが、なんせ歯の身には過分なことだ。

さて、自分が奥歯であることは間違いなさそうだが、人間の奥歯は12本ある。すなわち、上下左右の第一大臼歯、第二大臼歯、第三大臼歯である。第三大臼歯はいわゆる親不知であり、どうやら私は親不知なのかもしれない。それも本人が鏡で見て確認できる第三大臼歯となれば、これは可能性としてありうるのは下顎である。上の第三大臼歯を自分で見るためには、正面に映す鏡に加えて何か極めて小さな手鏡のような道具と口の中を適切に照らす照明が必要になるだろう。
ゆえに私は下顎第三大臼歯である。推測が出来る。しかし、左右に関してはわからない。上下に比べて左右の差は対称性が高い。もはやウヨクもサヨクもお互いの似姿でしかないように私が右なのか左なのか判別ができない。いや、これについても歯には少々僭越な比喩であった。

それにしても、私を歯としている持ち主は一体どういう了見なのだろうか。人体で一番硬く、また自身にとっては歯磨きしなくても虫歯にならないという体質のために最も自分の自己防衛の拠点としてふさわしかったということか。そのために痛みをすべて歯に閉じ込めるというイメージによって、様々な現実と夢想の齟齬で生じる痛みや具体的に肉体が感じる痛みからも逃避出来ていたということらしい。時にはそこに性的な感情移入さえ行われる。自我を持った歯の私としては、はなはだ勝手な行為と言えるが、それは持ち主にとって何とか精神の安定を保っていた日々であったのだろう。持ち主は言った。私は脳で考えるのではなく、歯で考えるのだと。なんとなれば、脳も歯も物質には変わりないのだから、「この私」をどこに置こうとも、それはまさに「私」の決定によるものであるはずだと。

彼女は25年間歯磨きをしなくても虫歯、専門用語でいうところの齲蝕にならなかったと言っていた。
齲蝕原因菌は子供の一定の期間に家族などから口移しで食べ物を与えられることで感染する。これを阻止することで口腔内に齲蝕原因菌が常在菌として存在しない状態を作り、齲蝕を根本的に予防するという方法も考案されている。もしかすると、私の持ち主も親から口移しで食事を与えられるという体験自体がまったくなかったのか。ありうることだ。それは想像力をたくましくすれば、食事を一般通念にあるようなやり方で両親から与えられることがなかった、つまりは親の愛を受けることがない家庭環境に育ったという背景があったのかもしれない。
すると、女児に永久歯が生えてこないと心配した母親が何度もその子を連れて歯科診療所に訪れる場面は、私の持ち主にとってまた別の痛みを生じさせるものだったのか。その痛みも彼女は親不知に押し込めていたのだろうか。そのことを彼女の親たちは知っていたのか。

しかし、歯というものは歯周組織とセットなのだ。歯の神経はもともと痛みしか伝えない。そういう意味で歯が感じる感覚には痛いか痛くないかしかない。その他の機械的刺激や温度感覚は歯周組織によるものだ。歯周組織は4種、歯肉、歯根膜、セメント質、歯槽骨である。歯肉はいわゆる歯茎である。歯根膜とセメント質は聞きなれないだろうが、どちらも歯を歯槽骨に固定しているものである。歯根膜は主な構成が線維組織で多少のクッション性があり、また様々な感覚受容器が存在することから、歯に伝わる圧力などを絶妙に伝えていると考えられてきたが、歯槽骨に直接金属を埋め込み何の遊びもなくぎっちりと固定するインプラントであっても、咬合の感覚に大きな差異が生じないことによって、歯根膜感覚については疑問視する声もある。歯槽骨は平たく言えば歯の周囲の顎骨である。いずれにせよ、歯そのものは痛いか痛くないかしか感じないため、これをシャットアウトしてしまえばいいのかもしれないが、歯周組織は多様な感覚を伝える。そして、この歯周組織が病気になるのが歯周病である。

たとえ歯が無事であっても、歯の周辺を支える組織、特に歯槽骨が溶けてしまうことで歯を支えきれなくなって、歯が動揺し、ついには抜けてしまう。歯磨きしなくても齲蝕にならないと言う者に限ってこちらが原因で噛めなくなるというのはよく言われる話だ。徐々に進行するために歯周病が本当に問題になり始めるのは20代ではない、年を取ってからである。30~50代の歯周病罹患率は8割、60代で9割という大袈裟な資料もある。自慢の丈夫な歯に閉じこもってみても、歯磨きのような基本的な身嗜みを怠っていれば、いずれは問題になるのである。むしろ歯周組織こそが痛みを伝えていたのかもしれない。それは私の持ち主に例えるならば勤め先の女性見習い歯科医師のような存在にあたるだろう。

そして、「この私」の齟齬によって生じる痛みを歯に集約させて逃避していた私の持ち主は同様に過剰な感情移入を寄せていた対象についてもついに対面を強いられることになった。そうだろう。「この私」の向かう先を歯などに求めていたつけがあらわになったのだ。歯は彼女にとって「私」ではない。歯の私にとってだけが、私なのであるから。

どうやら彼女は私との決別を決めたようだ。親不知として生まれた私にとって彼女と共に過ごした時間は他の歯牙に比べれば短いものであったが、これも彼女の決定であり、私を自我の防衛拠点とするような無理筋でこれからも過ごしていくよりは、いくらかまともな人生と言えるのではないか。正常に生えず不要むしろ害になるものとして抜かれる親不知も多いと聞いている。そう思えば、ここで私が彼女の決断と共に抜歯されることを歓迎したいと思う。ましてや彼女は麻酔なしでその痛みをどこまでも甘受すると言っているのだ。歯の私も覚悟を決めるべきであろう。

ああ、そうか。私は今から抜かれるのか。ついに行く 道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを・・・。いや、待て。抜かれるとなれば、私は抜かれない方の第三大臼歯ではない。そうだ、私はこちら側だ。左右は問題でない。まさしく、今から失われる私こそが私だ。そうだ、いいぞ。私は私だ。痛い。生まれて初めて感じる痛みだ。この痛みを彼女も悼んでいる。ああ、この私は反対側の第三大臼歯ではない。ましてや、左右の第三大臼歯が生む対幻想であったり、奥歯という集合体がカチカチ咬み合うことで生み出される共同幻想などではない。私は、今、ここで抜かれる、死に直面することで自分自身をアイデンティファイすることが可能な私なのだ。
ああ、揺れてきた。そうだ、抜け。私を抜いて、先に進むのだ。私は満足な死を

(本稿は川上三映子『わたくし率 イン 歯ー、または世界』に登場する奥歯の一人称を略奪して書かれた)

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