何らかの理論家・思想家、哲学者のテクストにおいて、それの大きな(基本的な)議論の図式のなかにうまく収めることが難しい、何らかの「イディオム」(固有語法)を発見し、論じなさい。

以上のようなテクストの「イディオム」というのは、おそらく一般的な理解ではなく、僕がしばしば自分の仕事において意識していることです。イディオムを探せ——これは、僕が学部から修士にかけて師事した中国哲学研究者の中島隆博先生の指導であり、記憶が正しければ、中島先生は文字通り「イディオムを探せ」と、何度かおっしゃった。まさしく「イディオムを探せ」というこのセリフ自体が、中島先生のイディオムであるとも言える(彼に独特の意味で言っていますからね)。さて、もう少し説明するなら、イディオムとはたとえば、僕がドゥルーズのテクストにおいて注目した「動きすぎてはいけない」のようなもののことです。さらに絞って言えば、「すぎない」という〈過剰を抑制する表現〉に僕は注目したのでした。このちょっとした表現を、どうやってドゥルーズのシステムのなかに位置づけたらいいのか。なかなか説明しづらいものなのです。イディオムとは、曖昧であり、境界的であり、「ゆるい」表現であり、個人的な色合いを感じさせるものです。あるいは、不埒なものです。
理論的なものの読解において何よりおもしろいのは、テクストの「裏」を垣間見させるようなイディオムの発見であると、僕はずっとそう考えてきました。これは宝探しであって、いっぱしの研究者になろうとしたら、大学院時代のすべてを賭けて、何か一個のイディオムにたどり着こうとするものです。たとえば、哲学者のカトリーヌ・マラブーは、ヘーゲルのテクストにおいて従来注目されてこなかった「プラスティッシュ」(可塑的)という言葉=イディオムに注目することで、ヘーゲル読解の刷新を企てたのでした。それ以来、「可塑性」の概念は、マラブーさんのトレードマークとなった。ですから、わずかな期間の宿題として「イディオムを探せ」というのは、無理があるかもしれません。とはいえ、皆さんがこれまでに親しんだテクストのなかで、「そういえばあれって変な箇所じゃない?」と気になっているところがあったりしませんか。そういうところを掘ってみると、イディオムは、秋の茸のように見つかるかもしれません。
要は、テクストにおける変なところです。鋭敏であるはずの書き手が、もしかしたら書き手自身うまくコントロールできていないかもしれないような、そういう単語やフレーズを書いている場合がある。それは、大きな議論の図式のなかに解消可能かもしれないが、別の観点からすればそれは、棘や痼りのようなものとして残り続けるかもしれない……どちらの観点を採るか? この二者択一に面したときに「あえて」後者を採ってみること、そのことならではの楽しみは、実に贅沢であると言えるでしょう(これに比して前者の選択肢は、賢さの誇示としてはいいでしょうが、贅沢ではない……まあ、これは僕の価値観ですが)。
では、イディオムを探してきてください。

付言しておけば、こうした方法は、テーマ主義(テマティスム)的であるとも言えるし、脱構築的であるとも言えます。

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