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自動的に集音されるこの世界は現実か?それとも超現実か?

1. 音を集める器

1924年、アンドレ・ブルトンが28歳の年に『シュルレアリスム宣言』(以下、適宜『宣言』)は『溶ける魚』の序文として発表された。シュルレアリスムを「理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり」と定義している。この時点ではブルトンによる「自動記述」の発見と、仲間たちとのその実践により、シュルレアリスムという方法/運動は駆動されていたからだ。宣言中には自動記述の具体的な方法も記述される。

この定義に続いて、ブルトンとその仲間の代表的なシュルレアリスム実践者が列挙され、一方でサド、ポー、ボードレール、ランボー、マラルメ、ジャリなどの多くの詩人や作家たちは常にシュルレアリストであったわけではなかったことが言及される。その理由は、彼らは「特定の先入観」を持っており、その「先入観」の理由は「シュルレアリスムの声を聞き入れることがなかった」からであるとしている。

一方、それらの声を聞き入れる存在としてのブルトンたち自身を以下のように記述している。

けれども私たちは、どんな濾過作業にも身をゆだねることなく、私たち自身を、作品のなかにあまたの谺をとりいれる無響の集音器に、しかも、それぞれの谺のえがく意匠に心をうばわれたりはしない謙虚な記録装置にしたててきたからには、おそらくいまも、彼らよりいっそう高貴な動機に奉仕しているはずである。

(アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言』巖谷國士訳)

ここで注目したいのは、「集音器」という語である。「集音器」とは何だろう。文字通り音を集める機器であろうが、しかしその姿形を想像することはできるだろうか。調べてみると、現代の日本で言うところの「集音器」は、「補聴器」と同様に聴覚の衰えを支援する機器である。高価でチューニングの効く医療機器である「補聴器」と比較すると、より安価で一般的に利用されるのが「集音器」である。

しかしこれは勿論、あくまでも「訳者」(この場合は巖谷國士)が選択した「訳語」の問題にすぎない。原文のフランス語は「receptacle」である。これは14世紀後半の古〜中世フランス語の語彙であり、ラテン語の「receptaculum」(物を受け取って保存しておく場所)や「recipere」(英語のholdとcontainにあたる)を語源に持つ。英語で「container」にあたる「容器」「容れ物」転じて「ゴミ箱」を指す。つまり「receptacle」は音を集める容器であり、その限りではアナログな質感の「もの」が想像されるのだが、訳語としては「集音器」という、機械を想像させる語が選択されていることになる。なぜなのか。

 

2. 六人八様の格闘

ブルトンは自分自身を、「シュルレアリスムの声」を聞き入れる「集音器」や「記録装置」と記述している。そこに聞こえるもの全てを聞き取るという意味で、特定の部分を抽象する「濾過作業」をせず、また同様に自己の価値判断=先入観は持たないという意味で「意匠に心をうばわれたりはしない」としている。この「記録装置」は原語で「appareils enregistreurs」であり、「appareils」は機械的な装置を指しているため、「無響の集音器」=「謙虚な記録装置」という解釈をするならば、当然「集音器」の方も「記録装置」と同様に「機械」や「装置」を指すこととなる。

しかし理由はそれだけだろうか。『シュルレアリスム宣言』は複数の訳者により日本語版が出版されている。6人の訳者による当該箇所の訳を一覧にしたのが次の【表1】である。

【表1】
【表1】

まずは先ほどの問い。「receptacle」は単に「容器」に過ぎないにも関わらず、稲田、生田、森本の三人は収集「装置」と、いかにも「機械」を思わせる訳語を選択したのだろうか。稲田がまず「自動記録装置」に合わせて「収集装置」としたのを見て、生田と森本はその後を追ったのか。また、生田の訳には「sourds」にあたる箇所が取りこぼされているように見える。なぜ彼はこの部分の訳を捨象したのか。そもそも、反響を収集/集音する装置が、巖谷や森本の訳語である、「無響/無音である」とは一体どういうことか。この場合の「無響/無音」とは、音を出さないという意味ではなく、音を受け取らない、それ自体には音が響かないということである。「sourds」は英語で言えば「deaf」に相当する「耳が聞こえない」という意味なのだから、これをそのまま訳語とした稲田の訳が理解し易い。同様に「耳が聞こえない」という意味を採用した江原は「耳を聾する」と訳出しているが、数々の反響は私たちの「耳を聾する」ものなのだろうか、それとも集音器が私たちの「耳を聾する」ものなのだろうか。しかし何れにしても「シュルレアリスムの声」はあくまでも「内的な」響きであって実際の音声ではないのだから、ブルトンはこの「sourds」を選択したに違いない。秋山は稲田と同様に「耳が聞こえない」と訳語を与えているが、彼が訳したのは『超現実主義とは何か』というブルトンの講演録であり、その中に引用された『宣言』に該当箇所が含まれているのだ。秋山はあとがきで、『宣言』の訳文は、多少異なるところがあるものの、稲田の了解を得て使用させてもらったと言っている。なるほど「les sourds receptacles de tant d’echos」の訳はピタリと一致する。しかしながら「les modestes appareils enregistreurs」への訳にあたって「地味な」を「謙遜な」に修正しているのはなぜか。巖谷は1974年の初稿を、1992年に思い切って改訳しているが、前者のあとがきで生田耕作の訳を「積極的に参照」したと述べて氏に感謝の意を表している。確かに「録音器」は生田の訳を参照したものであろうが、1992年の版では「記録装置」に改訳しているのは、結局は他人の褌では納得行かなくなったということだろうか。森本も巖谷と同じように生田の訳文に賛辞を送りながら、巖谷にも目配せしている。江原も、生田と森本の訳を参照したことをあとがきで言及している。稲田と巖谷の訳は読む機会がなかったと述べているが、読もうと思えば読めただろうがそうしなかったのはなぜか。生田が1994年の改訳で「録音器」を括弧書きから傍点に変えているのはなぜか。原語で斜字体になっているにも関わらず、そのことを明示しているのが生田と巖谷だけなのはなぜか……

以上のような、訳語の選択を巡る格闘が指しているものは一体何なのか。絶え間なく現れる疑問に対してそれぞれの解答は明示され得ない。これは「情報」を伝達するための翻訳ではないからだ。ある言語で書かれた文学的なテクストを別の言語に翻訳することは、このような営みである。特にフランス語と日本語のように文字も文法も何もかもが異なる、即ち距離の遠い言語間の翻訳においては尚更困難さが際立つ。「集音器」という語への引っかかりは、ブルトンの原語に対する訳者たちの葛藤の痕跡であったのだ。

 

3. 翻訳が扱う果実

新聞や広告など、ある事実や製品の特徴などを正確に記述した文章を別の言語に翻訳するとき、何よりもその情報を正確に伝えることが求められる。一方、文学作品の翻訳においては、情報を正確に伝えるだけには留まらない。今回取り上げている『シュルレアリスム宣言』は単なる新聞/広告的情報から最も距離を置いたテクストの一つであろう。ブルトンのテクストを「翻訳する」とき、それは原語テクストに含まれている一定の情報を伝達することでは必要十分でない。原語の文学作品や詩が含む「捉えがたいもの」を、翻訳対象とする言語を使って再構築しなければならないのだ。

ヴァルター・ベンヤミンは翻訳者としても仕事を残しているが、ボードレール訳詩集の序文となった『翻訳者の課題』(1921年)と題されたエッセイを記している。

しかし、文学作品はいったい何を<語る>のか?何を伝達するのか?それはそれを理解するひとには、きわめて僅かなことしか語らない。それの本質的なものは、伝達でもなく、発言でもない。 (中略) だが、伝達とは別に文学作品に内在するもの—そしてそれこそ本質的なものだと、悪い翻訳者でさえが認めるもの—は、捉えがたいもの、秘密めいたもの、「詩的なもの」である、と見なされるのが通例だろう。

(ヴァルター・ベンヤミン『翻訳者の課題』)

このようにベンヤミンは文学作品の翻訳においては、情報の伝達という考え方は捨て去るべきだと言っている。湯浅博雄は2012年の著書『翻訳のボイエーシス』における『翻訳者の課題』の読解の中で、ベンヤミンの果実の比喩に言及している。

人々が詩的なものとか文学性と呼んできたなにかは、そういうものである。(中略)それはなにかある特有な言い方、独特の語法、固有な言い回し(つまりイディオム的な表現形態)によってしか語りようのないものであり、外皮(かたち=フォルムの面、シニフィアン的側面)を切り分けて、内側の実(意味された内容・概念の面、シニフィエ的側面)をそれだけで取り出すことはできないものである。

(湯浅博雄『翻訳のポイエーシス』)

文学的な「捉えがたいもの」は、内側の実と外皮がしっかりと一体化している果実である。「集音器」で言えば、6人の訳者たちは原語であるフランス語の「receptacle」という「外皮」が示す「内側の実」を取り出し、日本語という別の言語による「外皮」を与えようとしたのだ。本来剥がれないその外皮を無理矢理引き剥がし、別の外皮で置き換えること。「伝達」を捨ててまで対峙しなければならないその困難さは、既に見た格闘の模様に現れていた。

 

4. 悪夢とテクノロジーを貫く統計

ブルトンは1933年の『自動記述的託宣』の中で、聴覚イメージの視覚イメージに対する優位性に言及している。シュルレアリスティックなイメージは常に聴覚的な文言から生起するのだ。先ほどの「録音器」や「記録装置」が録音したり記録するのは「 声」である。ブルトンが『シュルレアリスム宣言』の1924年当時念頭に置いていた装置/器械は、1920〜30年代にかけて利用された、会話の口述筆記目的で録音と再生が可能な「ディクタフォン」と呼ばれる機器であろう。これはエジソンが発明した蝋管レコードの応用で、円盤ではなく筒状のレコードメディアに音声の溝を刻み、針で再生する仕組みだ。

このようなテクノロジーにブルトンが目配せしていたことは、シュルレアリスム研究者の齊藤哲也が『零度のシュルレアリスム』(2011年)でも指摘しているように、ブルトンの他のテクストからも明らかである。たとえば『宣言』と同じ1924年に発表された『現実僅少論序説』で、ブルトンは「無線」について「現代の夢が多分に託されている」と言及し、「人間による発明と発見」が「人々が以前はまったく考えもつかなかった事柄を認識」させると同時に「途方もなく戸惑わせる」と述べている。

その「人間による発明と発見」に非常に意識的であったブルトンは、同時代のテクノロジーに常に目配せを欠かさず、それらの中にもシュルレアリスムの生を探していたように見える。そのような彼の身振りを思い起こさせるような出来事を、私たちは目撃したばかりだった。Googleが開発した人工知能が見る悪夢「Deep Dream」である。何かしらの画像をこの人工知能に提示すると、これまで学習した膨大な画像の中から近似する「パターン」を検出し、それをフィードバックするという仕組みである。人工知能が排出する画像はまさに悪夢のように幻想的であり、アウトサイダーアートやシュルレアリスム絵画との類似性を指摘する声も多かった。ネット上には、ダリの絵画を提示してアウトプットを得た例もあった。

これは謂わば、人工知能による視覚的イメージの「翻訳」である。人工知能は過去に学習した膨大な画像から一定の「パターン」を抽出、収集し、その「パターン」に基づいてオリジナルを「再構成」するのだ。しかしそもそもGoogleは、これと同じことを言語の領域でも行ってきた。無料オンライン翻訳サービスの「Google翻訳」だ。このサービスは「統計的自然言語処理」を核とした、機械翻訳エンジンによる翻訳を実現している。つまり言語の文法や意味構造は参照せず、実際に書かれて翻訳された膨大な量のテクストの「パターン」を解析し、最も確率の高いものを当てはめているのだ。2015年の時点で90の言語を実装しており、毎日2億人以上の人々にサービスを提供しているという。エンジンが参照しているのは、たとえば200億程度の語から成る国連の文書であり、国連が採用している6ヶ国語による対訳コーパスである。

これらの世界において鍵を握っているのは「統計」であるが、先ほどの『シュルレアリスム宣言』を巡る8つの翻訳文において、6人の群像劇の後景に鎮座していた前提とは何だったか。争点となるのは、後年の訳者がそれまでの先行訳を「統計」的に参照しつつ、自らの訳語を選択しているかどうかである。答えは否だ。たとえば「記録装置」は「録音器」に置き換えられ消え去るかと見えて、後年再び現れている。「集音器」も突然発生的に現れている。ここには勿論新聞/広告的な情報には回収不可能なものが渦巻いているのだから、数の論理に従わないのも当然のことと思える。前述の各訳者の格闘と逡巡こそがそれぞれの訳語を選びとって来たのだから。

Google翻訳の世界は文法を捨象し、謂わば膨大な「統計」により「規律」を転覆させようとする試みだが、ベンヤミンは先で引用した『翻訳者の課題』の中で繰り返し、シンタクスつまり文法を逐語的に訳出することの重要性を説いている。そのことによって犠牲になる「意味」については「極度に度外視」すべきで、そもそも翻訳の「何かを伝達するという意図」は捨て去るべきと述べていたのは先ほどの通りだ。

これを踏まえてブルトンの『宣言』の先述の引用箇所に立ち帰れば、世界を「シンタクスを重視し逐語訳」したのが「超現実」であると言えないか。ここでは意味は犠牲になり文言そのものが屹立する。一方で「意味を重視」して、世界を「濾過作業」=「意訳」する、つまり「特定の先入観」を持って眺めたのが「現実」ではないか。「現実」においては「意訳」により捨象される「シュルレアリスムの声」は届かない。

だとすれば、Google翻訳の「統計」は「シュルレアリスムの声」を包含しているのであろうか。以下、先述の6人の訳者の訳語の違いを検討したテクストのGoogle翻訳による訳語である。

【表2】
【表2】

注目すべきは「les modestes appareils enregistreurs」が含まれる文全体を訳した際の結果(【表2】の上の行)と単独で訳した際の結果(同じく下の行)の結果が異なる点である。フレーズ単独では「ささやかなレコーダーデバイス」がアウトプットであり、私たちが注目した6人の訳とは異なるニュアンスを持つ記述だが、一方の「控えめな記録装置」はどうか。江原や1992年の巖谷の訳に類似してはいまいか。もしこれを単なる偶然と捉えてしまうならば、それは単に「特定の先入観」に絡め取られてしまっていることを示してはいまいか。

Google翻訳の「統計」の背後にあるのは先ほど言及したように、たとえば膨大なコーパスであり、国連の訳者により訳出されたテクスト群である。国連の文書が選択されたのは、その正確さと予め6ヶ国語を含む対訳コーパスとなっているからであり、この6ヶ国語に日本語は含まれていない。Google翻訳の機械翻訳エンジンの作者であるエンジニアのフランツ・ジョセフ・オックは「ロサンゼルス・タイムズ」のインタビューに応え、6ヶ国語以外の言語についても膨大なデータが必要であるため、精度の差はあるもののウェブから翻訳テクストを収集しており、「書物」の取り込みも始めていると述べている。『シュルレアリスム宣言』のような書物、そして諸々の作品中の「シュルレアリスムの声」がその中に取り込まれ、エンジンの教材となっている可能性も、決して否定できないのだ。

【表3】
【表3】

上記の【表3】は、冒頭の引用文の原文をGoogle翻訳にかけて日本語に翻訳し、フランス語に戻し、また日本語に、という作業を繰り返したものである。41回目以降はパターンが収束し、何度繰り返しても同じ文章しか生まれない結果となった。このシンタクスの崩壊に、自動記述的な様相を重ね合わせるのは余りに安易であろう。ここで言いたいのはもっと別のことだ。昨日も、そして3日前にも実験を行ったが、結果はまるで異なっていた。パターンが収束するまでの日数は、昨日はわずか10回を数えないほどであったのだ。当然辿った訳文のヴァリアントたちの道筋も異なることになる。オックの生み出したエンジンは日夜訳文を喰らい、うねり続け、自動的に学習し成長し続けるのだ。世界中のテクストが「集音器」に沈み込むその日まで。

 

5. 謙虚な翻訳エンジン

そのくせこのうしろめたさをごまかすために定義や方式を武器にして抒情性に挑戦してみたり(ダダの風潮が生まれるのはそれほど先のことではない)、広告ビラのうちに詩の応用分野を探るふりをしてみたりして(世界は一冊の美しい書物に尽きるのではない、(中略)地獄かそれとも天国のための一枚の広告ビラに尽きる、などと放言して)。

(アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言』生田耕作訳)

ブルトンが広告の文言の中に詩を探すとき、従来の新聞や広告的な「情報」と小説や詩の持つ「捉えがたいもの」の二項対立はかき消される。これらの声をも「集音」するのが「シュルレアリスムの声」を取り逃がさない態度であるとき、「集音器」が立脚するのはいまや膨大なデータを収集する技術が前提となる世界である。私たちが生きているのは、このような「テクノロジー」と「文学性」そして「超現実」が互いに排他し合う世界ではないことを、ブルトンの「集音器」という語は示してくれた。

「集音器」は世界の「声」=「テクスト」をひたすら収集し、その暴力的なまでのデータ量で世界を翻訳しようとする。それらのテクストを教材として取り込む翻訳エンジンは、取り込んだテクスト自体をも新たに翻訳する。そしてエンジンが吐き出す翻訳テクストは世界に投げ込まれ、再び「集音器」に収集される。今やその自動的なやり取りを傍観する人間たちはしかし、現実を形作る「先入観」を捨て去ることができない。

一方で「先入観」を持たない「謙虚な」翻訳エンジンは、そのような「情報」と「捉えがたいもの」に分かたれた人間の世界において、「情報=広告」と「捉えがたいもの=詩的なもの」を同一平面で扱うシュルレアリスト然としてはいまいか。

集音器と世界によるテクスト交換の無限ループを前に、私たちは、固定的な訳語の定まらない地平に浮遊している。だとすれば、私たちは最早正解となる訳語を待つ必要はない。本稿で「receptacle」の、そして「集音器」の思いがけない訳語を見つけたように。

文字数:7828

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