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母音を飼い慣らす 〜ビョークとFKAツイッグスのうたと身体〜

1. Five Vowels In The Ocean

ビョークは行き先を見失っているのだろうか。そのフォトジェニックなルックスと高度な芸術性を備えた楽曲を産み出すシンガーソングライターであることから「新世代のビョーク」と形容されることもあるFKAツイッグス(以下、FKA)の突然の登場。ビョークの株を奪うような、アーティスティックで衝撃的なMVやライブでの佇まいはその音楽性と共に高く評価されている。ビョークは2015年リリースの最新作『Vulnicura』において、FKAの楽曲制作面でのメインパートナーである今や最も注目されている新進気鋭のプロデューサー、アルカを起用しているが、これは一見するとFKAの成功の後追いであるようにも捉えられかねない。これはビョークの焦りを示しているのだろうか。

ビョークのアクチュアリティを考えるのに、ぼくたちは、まずは彼女の「うた」そのものにもう一度目を向けてみよう。本論で「うた」と呼ぶのは、いわゆる楽曲のことではなく、歌い手の発声/発音により聞き取ることのできる、メロディを伴う「音の連なり」そのもののことである。ビョークの『Oceania』は2004年にリリースされた彼女の6枚目のアルバム『Medulla』の代表曲であり、アテネオリンピックの開会式でも披露された曲だ。本アルバムはいくつかの例外を除き、基本的に「声」のみで制作されたある種のコンセプトアルバムである。『Oceania』も、「声」のみで制作された楽曲である。この曲を取り上げる理由はこの点にある。彼女の歌声に直接向き合うには、声だけで制作され、パート数もわずか4つと少ないため非常に適しているからだ。ビョークが歌うメロディに、ロンドン合唱団によるコーラスが加工された形で度々現れ、複数の声が重ねられたコードと、Shlomoによるヒューマンビートボックス(ボイスパーカッション)が全編に渡って通底する。

歌詞の面から見れば、オリンピックの開会式で披露されるのに相応しい、国や人種の違いを超えるような楽曲が求められたわけだ。しかし彼女は単にそれに従うだけではなく、「母なる海」に歌い手の目線を設定し、大陸、海岸、砂浜の砂、そして数々の生き物たちを「息子」「娘」と呼ぶことで、ぼくたちの視座を所謂人間の社会から遊離させ、国境というしがらみを無効化する楽曲を作り上げたのだ。

しかしここでは、その歌詞の内容は一旦脇に置く。ビョークの歌声の手触りにだけに耳を済ましてみると、一体何が聞こえるだろう。アイスランド語が母国語であるビョークは、外国語である英語で『Oceania』を歌っている。そして英語は勿論、ぼくたちにとっても外国語なのだから、歌詞の意味を排して音そのものに向き合う環境は整っているといえる。意味を捨象すると現れる、母音と子音の組み合わせによる、音としての言葉。そして母音は声帯を震わせる有声音として、メロディを構成する要素となる。ビョークの、そしてこの歌における母音の用いられ方には何か特徴があるのだろうか。

冒頭。彼女の丸くすぼめられ、閉ざされた口唇が開く。”One”、片仮名で表現するならば「ゥワン」と発音されるその音はしかし、「ゥワ」「(ァ)ン」の二つに分裂するかのように、前半と後半で表情に「揺らぎ」が生じている。この「揺らぎ」は彼女が抑え気味な音量で、しかし感情を伴う行を歌う際に特に目立つものである。たった一組の母音と子音から成る一音節の語に対してのアプローチを見ただけでも、彼女の「うた」に対する自覚的/無自覚的な方法論と、その成果が見て取れる。

下記の【図1】は横軸に楽曲の経過時間を取り、メロディとして伸ばされ強調される母音(原則2小節毎のフレーズ末尾の母音、1分25秒付近などフレーズ頭にアクセントがあるものは例外、かつ複合母音は目立つ一音を選択)をピックアップし、5段階で発声の強さ/大きさについて抽出したものである。日本語の母音が「あいうえお」の5種類なのに対して、英語の母音は二重母音などを排した単体のものだけで16種類存在する。しかし、音を伸ばす母音である「長母音」を省くと、短母音は9つしかない。内訳は、「あいうえお」の5つに加え、「あ」「い」に近いものが2種類ずつあり、「あ」と「え」の中間が1つ、あいまい母音が2つで、合計9となる。ビョークはイギリス英語に依拠しているため「あ」と「え」の中間の発音は稀である。また、楽曲で伸ばされメロディとなる母音は強アクセントが置かれる母音のみのため、あいまい母音は存在しない。よって、本論では日本語の「あ」「い」「う」「え」「お」に近い[a] [i] [u] [e] [o]の5種類の母音を選択した。

【図1】『Oceania』における母音抽出
【図1】『Oceania』における母音抽出

 

 

2. Shouted “A” And Trilled “R”

『Oceania』で強調される母音を追ってゆくと、特徴的な点がある。歌詞には記載のない母音[a]の音の「叫び」が前半(1分10秒付近)と後半(2分13秒付近)でそれぞれ一度ずつ登場するのである(【図1】の赤色箇所)。

「母音[a]の叫び」は、高いCの音で、その音色には多分にノイズが含まれている。また、歌詞の一部をなぞっているのではなく、歌詞と歌詞の隙間に挿入されている。闖入し屹立する異物はしかし、最も耳を引く強度に満ちているのだ。この「うた」というよりも原初的な咆哮は、たとえば小鳥の「さえずり=歌」に対する「地鳴き」に例えられよう。「さえずり」は「様々なパターンを描く複数の音節からなる」まさに「うた」と呼べるものだが、一方の「地鳴き」は、「たいてい一音節」で、その音自体が空腹、警戒や求愛などを示すものである(※1)。

ビョークが「地鳴き」を披露する様子は、『Oceania』のレコーディング風景の動画が収録された『Medulla: Coffret』(2005年)で確認できる。もともと母音[a]の発音時には全ての母音のうちで最も喉が開くが、獣のように大きく開いた口腔に目一杯開いた喉を接続し、肺から押し出された空気の塊が「叫び」となる様は、管楽器、たとえばテナーサックスでノイジーなハイトーンを絞り出す際の手つきにも似ている。獣性が表出するとは、人間の言葉を失うことに等しい。母音[a]の音は、世界中の「すべての自然言語に現れ、また失語症患者がもっとも最後まで発音できる音である」(※2)のだ。

さらにこの「叫び」が終わると、一度目は軽く、二度目は大げさに「舌舐めずり」をしている。この曲のレコーディング動画を通して、舌を出して唇を舐めるのはこの2回のみである。無意識的な獣性の表出。このことは、「地鳴き」をビョーク自身も意識的にコントロールできていないことを示してはいないか。ビョークは他の楽曲やライブでもこの「地鳴き」を披露(『Pagan’s Poetry』(2001年)の3分39秒付近や、『Vertebrae By Vertebrae』(2007年)の1分48秒付近など)している。彼女は2012年にその数年前から「うた」に起因するポリープが声帯にあることを発表し、レーザ治療の後にしばらく休養しているが、「地鳴き」による喉の酷使がその原因となっていることは想像に難くない。

このように「地鳴き」は、元来コントロール不能でときに発信者をも傷つけるものである。よって普段は人として身につける言語によってこれを抑圧する。ビョークの場合ならば「母国語」であるアイスランド語は彼女の「身体」そのものであるかのように血肉化されている。身体としての母国語は、理性的な人間に相応しくない獣性が表出する契機を押さえ込み管理するが、さらに彼女の場合は「外国語」である英語を身体に引き寄せ血肉化しながら「うた」を産み出している。その格闘の痕跡は、アイスランド語では「強い巻き舌」で発音される「r」の音に対する振る舞いを注意深く聞けば良く分かる。

たとえば『Oceania』の冒頭5秒目に登場する”from mother Oceania”の”from”と”mother”の「r」の音。舌の先端が必要以上に後方に向かおうとするのを意識的に抑えている。巻き舌の欲望。その抑圧。一方、2台のピアノをバックにアイスランド語で歌われるバージョンの『Oceania』を聞くと、冒頭の同箇所の「巻き舌」は見事に開放されている(TVショウ「Átta Raddir」より)。

それを示したのが下記の【図2】である。換言すればビョークは、「外国語」を身体化することに意識的に取り組んできたこと、そして「地鳴き」を抑圧する必要性と向き合ってきたことの2点により、一つ一つの母音や子音に対して極めて意識的で繊細なボイスコントロールを獲得したのである。

【図2】ビョークのうたにおける言語の身体性
【図2】ビョークのうたにおける言語の身体性

 

 

3. Two Dancers In The Dark

一方のFKAツイッグスの「うた」は特徴的なウィスパーボイスに象徴されるように、極めて抑制的であり、「地鳴き」が顔を出すこともない。また、母国語の英語で歌っているため、ビョークが対面してきた問題意識とも無縁であるように見える。寧ろ彼女を際立たせている要素の一つは、ダンサーとしての出自である。8歳の頃からバレエとジャズダンスを学んだ彼女は、10代でプロのダンサーとしての活動を始めている。しかしジャマイカとスペインのハーフである彼女は「バレエダンサーの体型をしておらず」「つま先立ちも素晴らしいものでなかった」ため、バレエダンサーの道は諦めざるを得なかったとインタビューで語っている。MVやライブはダンサーとしての資質が十二分に活かされたシアトリカルなものとなっているが、外国語と向き合ってきたビョークと同様、バレエへの葛藤と対峙してきた者ならではの、極めて自覚的な視点を持ち合わせているのだ。

彼女は抑制的なバレエの所作を、「うた」におけるボイスコントロールにも応用しているわけだが、この抑制に裂け目が口を開ける瞬間がある。たとえば『Pendulum』(2014年)のMVでは、彼女が鍛錬を積んだ「身体のディシプリン」としてのバレエを貫通して表出する「痙攣」が散見される。縄で縛られ様々なショッキングなポーズを取る彼女は、抑圧をさらに加速させる縄の合間を縫うように、意識とは無関係な様子で「痙攣」を繰り返す。このFKAとダンスの関係性に先ほどの図を当て嵌めると以下の【図3】のようになろう。

【図3】FKAツイッグスのダンスにおける型の身体性
【図3】FKAツイッグスのダンスにおける型の身体性

 

他方でビョークは、ミュージカル映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000年)周辺の活動を除き、通常のライブやMVにおいてはFKAのように予め振り付けられたプロフェッショナルなダンスを披露することはない。ヒールの高いブーツを履いていることの多いFKAとは対称的に、ビョークはライブにおいては常に裸足である。官能性をストレートに押し出す妖艶なFKAに比べ、ビョークがその小柄な身体を天真爛漫に音楽に合わせて揺らしたり飛んだりする様は、しばしば妖精に喩えられることもある。先ほどの言語感覚が対照的であったのと同様に、ダンスの身体化においても両者の対照性が際立っているのだ。表層的なイメージだけを切り取ってFKAをビョークの後継者に見立てるとき、その裏側では、決して重なり合うことのない互いの鏡像が宙吊りになっている。

ビョークは「うた」において「外国語の身体化」の過程での格闘があり、FKAツイッグスは「ダンス」において「バレエの身体化」に際しての葛藤があった。この対照的な二つの経験が彼女たちの「うた」と「ダンス」に対する類稀なコントロール感覚を熟成させ、そのことがシンガーソングライターでありパフォーマーでもある彼女たちの核となっているのだ。

 

4. I Am Why

FKAツイッグス。ダンス。うた。言語。楽曲制作。そして身体。これらが錯綜する海図を広げたいま、ぼくたちはもう一度『Oceania』のおけるビョークの「うた」に、そしてそれを発信する「身体」に舞い戻ろう。

彼女が一つ一つの音素に与える百花繚乱の如き表情に注目しながら改めて動画を確認すると、とある事実に気付くだろう。これほどまでに声色に繊細な彩色を施しながら、彼女の身体は「あっけらかん」としているのだ。どういうことか。

微細な感情の色を調整する絞り。高分解度のグラデーションがかかった息遣い。これらを意のままにコントロールするには、相応の集中力とエモーションの集約が必要であり、それがたとえば顔の表情にも現れるに違いない。しかしレコーディング中のビョークの表情には、意外にも張り詰めた緊迫感や迫真性は認められないのだ。頻繁に横目で歌詞のメモ書きを確認しながら、寧ろひょうひょうと「うた」を紡ぎ出す。

本人が意図していない、微細なニュアンスがひとりでに「うた」に現れること。ここで起きているのは、「うた」の「身体」に対する「裏切り」である。もっと正確にいえば、「身体」は持ち主の「意識」を「裏切る」のだ。つまりビョークの「身体」は彼女の「意識」に管理されることに抵抗し、意識を「裏切る」。そして「身体」に対してその「裏切り」を要請しているのは、「身体」から離れ自立を志向する「うた」そのものなのだ。

彼女のステージ上での無邪気さ、妖精とも小動物ともつかない「ひょこひょこ」としたユーモラスな動きは、しばしば楽曲の持つ重さや過度のエモーションを「裏切る」ように見えないか。他方、FKAのダンスはどこまでもコントロールされ、身体は常に、楽曲のエモーションや官能性に寄り添っている。たとえばMOBO Awardで披露された『Figure8』と『In Time』のパフォーマンスは、レディーガガのようなスキャンダラスな衣装に身を包み完成されたダンスにより演出され、上質なエンターテイメント然とした相貌を備えている。

自立した「うた」が「裏切る」のはステージ上での「身体」だけではない。ビョークのMVの中には生身のビョークが登場しないものもあるし、あるいは『Hunter』(1997年)や『All Is Full of Love』(1997年)のように、熊やロボットなど、別の何者かにより「歌い手」が代行されるものがある。通常MVにおいてはあたかも歌い手が「うた」を歌っているようにリップシンク、つまり口パクが行われる。FKAの『Pendulum』のMVに至っては、縄で縛られ宙吊りになりながらも「リップシンク」をキープしている。ビョークの「うた」は、「歌い手」を振り返らない。振り返った先にいるのは代行者である。唇という身体は「裏切られ」、「リップ」の持つ肉感や官能性は、獣の体毛やロボットの冷たい金属面に代行される。正確に言えば、取って代わられる。そのことが逆説的に「うた」の肉感や官能性を伴う自立性を担保する根拠となっているのだ。

「うた」の微細なニュアンスを表出する「身体」や「リップ」のコントロール能力が卓越しているというより、寧ろそれらの持つ「裏切り」の力を飼い慣らしていること。自分を置き去りにする「うた」に自由に振舞わせ、「うた」がこちらを振り返るときも、その自立を尊重する眼差しを注ぐこと。そして、どこか「あっけらかん」としていること。最新作『Vulnicura』(2015年)のライブでは、頭部に「たんぽぽの綿毛」のような衣装を纏い、もはや「うた」は歌い手を振り返ろうにも、その顔も、口元も窺い知れない。彼女は自身の身体を、声の容れ物として客体視し、「あっけらかん」としているのだ。

『Oceania』の後半、2分24秒辺りから、ビョークは「I am why(私は謎である)」という母音[a]で構成されたフレーズを繰り返している(【図1】の黒色箇所)。それぞれが一音節でしかない音たちには、強弱だけではない様々な性格が与えられ、「揺らぎ」が繰り返し現れる。なぜビョークにだけこのようなことが可能なのだろうか。そんなことを考えながら曲の最後を飾る、声が奏でるコード音が終わる。置き去りにされる謎。

こうは考えられないだろうか。『Oceania』において2度だけ姿を現していた「地鳴き」が、実は曲中の全編に渡り、半分その姿を現していたとしたら。飼い慣らされたペットのような獣性として。即ち、子音は人間性。母音は獣性。「うた」の大部分を構成するのは、子音と母音が組み合わされた音であり、それはペット化した獣を引き連れた人間性である。『Oceania』 の冒頭の如き分裂したような「揺らぎ」=「豊饒さ」が現れるのは、人間性と獣性を往復する「揺らぎ」であり、獣に「裏切られる」人間であり、人間に「裏切られる」ペットとしての獣なのだ。

 

5. Sailing With Strings

ビョークの最新作『Vulnicura』は「離別」がテーマのアルバムである。長年の伴侶であった美術家のマシュー・バーニーとの離別。長年、楽曲制作やライブパフォーマンスのパートナーであったマーク・ベルとの死別。彼女を苦しめたポリープとの離別。そしてもう一つの離別があった。即ち「獣性」との離別。なぜそう言えるのか。このアルバムにおいて、「母音[a]の叫び」は一度も登場しないからだ。ペット化されていない、飼い慣らされていない「獣性」は、振り返ることなく、彼女のもとから旅立ってしまったのだ。

プロデューサーであるアルカの色は、時折現れるエッジの効いたビートなどに垣間見られるが、全編を貫いているのはストリングスの調べである。しかしビョークとストリングスの組み合わせには、強い既視感がある。彼女の代表曲の一つである『Joga』(1997年)や、『Vespertine』(2001年)のライブなど、彼女の中期の作品群で既に確立された方法論だからだ。聴衆は彼女に、常に「エッジ」=「極北」に屹立することを期待してきた。様々なものとの「離別」が彼女を後退させてしまったのだろうか。

彼女にとって『Oceania』における獣性の発露、「母音[a]の叫び」は一つの「極北」の象徴であり、その離別は、大きな転換であった。それは彼女の選択であり、そこに迷いは見られない。今や大きな転換を経た彼女は、中期のトレードマークであるストリングスを再び身に纏い、いわば過去方向に舵を取り、復路を「前進」している。その行き先は、キャリアの原風景、即ち如何なるアーティストイメージも纏っていなかった、作曲を始めたばかりの幼少時代ではないだろうか。しかし往路と復路は、真っ直ぐに伸ばすことのできる一本の紐のようなものではないか。出発地点=原風景は、最終目的地でもある。原風景が目的地と重なり合う地点、「極北」へ向けて、彼女の航海はまさにこの瞬間も、続いているのだ。

 

 

※1 岡ノ谷一夫(2010年)『さえずり言語起源論』

※2 窪薗晴夫(1998年)『音声学・音韻論』

文字数:7693

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