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ヘドバン贈与論 〜スレイヤーとベビーメタルに捧ぐ運動量〜

1. 楽曲に対する反応としてのダンス

自分が愛でる音楽が、大音量で流れている。爆音。あるいは轟音。それも目の前で、アーティスト自身が演奏している。あなたは興奮を抑えきれない。やがて体は少しずつ、勝手に動き出す。楽曲のテンポに合わせて、動き出す。あなたはどのような動きで、その興奮を表現するだろうか。あなたは頭を振るだろうか。それとも体を揺らすだろうか。

あなたのその動きを規定するものは何であるか。ここでは単純化して、第一にその楽曲のテンポ(以下「BPM」(Beat Per Minutes:一分毎に何拍か))、第二にその楽曲を奏でる楽器やPC含む機材から出力される音そのもの=「サウンド」、第三に歌物の場合はその歌詞=「物語」の三点であるとする。

ドゥルーズ=ガタリは『千のプラトー』の中の「リトルネロについて」の中で、「拍子」と「リズム」を区別し、「拍」とは「断定的」であるが、「リズム」は「批評的(クリティカル)」であり、「臨界的(クリティカル)」なものを結びつけると言っている。「拍」は「コード化」されている、つまりルールに縛られた分割にすぎないが、「リズム」は「常にコード変換の状態におかれ」ており、複数の軸を結ぶものである。この「批評的」な「リズム」とはたとえば、ファンクのグルーブにハネを感じ取るか、ジュークのリズムに32 分音符を感じるか、菊地成孔のdCprGの試みにポリリズムを感じるか、もっと言えば俳句の字余りや字足らずをどのように処理し得るかということだ。単なる「拍」に合わせた身体の運動に対し、これらの「リズム」が批評的な文脈を付加することで、アウトプットとしてのダンスは多くの微妙なニュアンスを含む豊穣なものとなるだろう。

同様に、楽器やPC含む機材から出力されるサウンド自体に応じて、ダンスの最も原初的な動きは決定されるだろう。しかし音楽のジャンル自体が楽曲の音像に影響を与え、それがジャンル毎のダンスに当然反映されることとなる。そして、楽曲の歌詞の内容は当然ダンスにも反映されるが、歌詞単体に加えてそのアーティストの立ち位置や思想、その楽曲が産まれた時代背景などがダンスに批評的文脈として現れる。

ここで留意しておきたいのは、「BPM」「サウンド」に批評性を添加する「リズム」「ジャンル」は一定の「経験」に基づいて認識されること、また「物語」も同様に「アーティスト」や「時代背景」について「頭」を通して言語で思考することでこの結果がダンスに反映される点である。つまり楽曲の表面的な「BPM」「サウンド」「歌詞(物語)」に対して脊髄反射的に産まれる動作を、諸々の批評的な文脈が下支えするのが、楽曲に対する反応としての「ダンス」である。

【図1】jpg

 

2. ダンスとしてのヘドバン

ヒップホップ、テクノ、ドラムンベースなどクラブミュージックを対象としたとき、BPMがジャンルの成立要件となり、それに伴いダンスのスタイルも規定されることとなる。他方でロックやメタルは、サブジャンルによって傾向はあるものの、BPMの縛りはなく、ドゥームメタル的な激遅パートであればBPM40ほど、ブラストビートであれば最速はBPM300まで楽曲展開に沿って次々とBPMが変化することも多い。メタルにおけるダンスはBPMに規定されるものではなく、幅広いBPMに対して対応できるステップが必要なのだ。その中で最も象徴的なのがヘッドバンギング、いわゆる「ヘドバン」である。ヘドバンは1970年のブラックサバスのライブで確認されており、彼らが創始者と言えるが、当時は「頭を振る」というより「髪の毛を浮かせる」ことが狙いであったとも言われている。ヘドバンは頭を振るダンスである。ダンスステップとしての頭の振り方、髪の毛の見せ方には当然美学がある。従って、頭の振り方によって従来の縦型、横型、V次型、O字型など様々な型が存在する。

もう一つの花形はハードコアパンクのライブに起源を持つ「モッシュ」と呼ばれる無秩序に体をぶつけ合い四肢を振り回す一種のダンスだが、欧米においてメタルの持つマッチョイズムを基盤とした価値観は根強く、ヘドバンやモッシュの在り方もこれらに強く規定されている。スリップノットのクリス・フェーンは、特にアメリカにおいてモッシュピット(モッシュが密集して起こる場)は体格の大きな者が弱いものを苛める場になっていると警鐘を鳴らしている。他方で日本においては、特に女性ファンが中心のヴィジュアル系(以下V系)の文化圏においては、従来のマッチョイズムを基盤としたヘドバンやモッシュの価値観はある意味で批判的に改変されてきた。ヘドバンが「横型」が主流となっているのは、ステージ上への視界をなるべく確保しようとするためであり、「省力」のため頭の代わりに手を上下に振るだけの「手バン」も開発された。土下座をしながらヘドバンする「土下バン」はGAZETTEにより広められたものであるし、腰から上を折り曲げてヘドバンする「折りたたみ」はマキシマムザホルモンがCMで披露したことでその布教に一役買った。

このようにV 系の想像力が批評的(クリティカル)に機能し日本独特の「ヘドバン」が進化したわけだが、そもそも日本には独自のヘドバンの歴史があった。獅子物と呼ばれる歌舞伎の『連獅子』や『鏡獅子』には、白や赤の長髪を振り乱す「髪洗い」と呼ばれるV字型のヘドバンや「巴」と呼ばれるO字型のヘドバンが登場する。ジャン・コクトーはかつて六代目尾上菊五郎の舞台に感動して楽屋へまで押しかけたというが、その演目は『鏡獅子』であったことから、彼が打たれたのはヘドバンを含む激しさであったに違いない。

 

3. 贈与と返礼の運動量

激しいヘドバンを堪能できる例として、スレイヤーの『Angel of Death』(1986年)を取り上げよう。本曲は高速BPMが特徴的なスラッシュメタルを代表するスレイヤーの代表曲である。ベーシスト兼シンガーのトム・アラヤを中央に据え、左右に陣取る二人のギタリスト、ケリー・キングとジェフ・ハンネマン(2013年に死去)が曲中通してヘドバンを繰り出す。2005年のライブ映像を中心に、バンドのヘドバン中心のパフォーマンスおよび観衆の反応を、縦軸に運動量、横軸に楽曲の経過をプロットし、グラフと表に纏めた。

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バンド側のヘドバンについては1小節毎の回数をベースとしてその運動量を計り、トムの見せ場でのヘドバンおよびツインバスドラム(ツーバス)の16分音符での連打は数値を倍とし、最大値を10で計測している。対して観衆の反応についても同様、その運動量を最高値の「モッシュ」から最低値の「休息」までアクション毎に10段階で数値化している。グラフから見て取れるのは、楽曲全体を通してバンド側と観衆側の運動量がほぼ対照的である点だ。さらに最も盛り上がるべきラストでは観衆は「ガス欠」を起こす。このことは何を示しているだろう。

理由の一つは、楽曲リリースの1986年の段階では、まだメタルのライブでモッシュは行われていなかった点にある。ブレイクダウン(間奏)を挟み、ラスト前のギターソロパートで急にBPMが上がると、観衆のボルテージは最高潮に達するが、45小節に渡る高速モッシュで疲労のピークに達した観衆たちは、直後にやって来る最後のサビでは生ける屍と化し、精々拳を突き上げるのがやっとの状態に陥る。ここにバンド側が従来描いていた楽曲の盛り上がりと観衆の運動量との差異が生じる。

もう一つの理由は、そもそも観衆は何のためにヘドバンやモッシュをしているのかという問いに回帰する。本論では、ある楽曲の鑑賞時に、自発的に生成される身体の運動としてのダンスを考察している。観衆はバンドから発信されるパフォーマンスに反応して自発的に踊ると同時に、バンド側からの視線も意識している。ヘドバンや歓声、拳の突き上げ、シンガロング等は、バンド側からのパフォーマンスという「贈与」に対する「返礼」の意味を持っている。この「返礼」によりバンドは鼓舞され、パフォーマンスの質は一層向上することとなるため「好循環のスパイラル」が形成される。「贈与」や「返礼」のリソースとなるのはエネルギーであり、即ちヘドバンは、有限のエネルギーの表象なのである。ヘドバンにはヘドバンで応答する。ただし「返礼」である以上、受け取ったエネルギーを上回る量で返すことが期待される。

他方、モッシュについてはどうだろう。モッシュはエネルギーを過剰に消費する動作であり、ステージ上のバンドに完全にアドレスされるヘドバンや拳に比べると観衆側で完結する行為でもある。ヘドバンにはヘドバンで返す「贈与」「返礼」の関係と違い、ハードコアを起源とするモッシュは本来完全に観衆側からの自発的なものである。これはいわば『贈与論』を拡張したバタイユの用語で言えば「消尽」に当たる行為である。モッシュは直接的な「返礼」としてステージ上に届くことがなくとも、観衆たちは有り余る過剰なエネルギーをひたすらに「消尽」するのだ。「消尽」の行為において後々のことが合理的に考慮されることはない。よって「ガス欠」が誘起される。

【図3】jpg

 

4. ベビメタと振り付け

次に見るのはアイドルグループさくら学院出身のボーカル/ダンス担当のSU-METAL、スクリーム/ダンス担当のYUIMETALMOAMETALにより「アイドルとメタルの融合」を標榜し2010年に結成された、ベビーメタル、通称「ベビメタ」である。「メタル復権」をかけて戦う彼女たちは、現在破竹の勢いで国内のみならず海外でもツアーを行い歓待され、その勢いは止まることを知らない。

スレイヤーと同様、ベビメタの代表曲『ヘドバンギャー!!』におけるパフォーマンスと観衆の応答による運動量をグラフと表に纏めた。PVではSU-METALの装着する「コルセット」がヘドバンの持つ激しさと痛みを象徴している同曲において、スレイヤーの例との差異は、ベビメタと観衆の間の運動量の推移に致命的なズレはない点だ。これは何を示しているのか。

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従来のハードコアやメタルが「自閉的な祝祭」を立ち上げるのに対し、ベビメタは全く異なる価値を孕んでいる。彼女たちはメタルにとっては他者であり外部であるのだ。メタルファンから見てアイドルとは最も遠方の外部であると共に、そうであるからこそ自身の孤独な承認欲求を最も満たし得る存在ではなかったか。そのような決して交わることのない彼岸の存在である彼女たちが、もし自分たちを統べる王妃となったら。そのような妄想が、ベビメタの降臨によってある日突然現実となったのだ。しかも彼女たちは同時に、国内のメタルファンや世界という強大な敵に立ち向かっており、観衆たちの支援を必要としている。

彼女たちはアイドルでもある。当然メタルプロパーではなく、ある意味祭り上げられた存在だ。観衆はその神輿を率先して担ぐ。この神輿はプロデューサーであるKOBAMETALによって「演出」されている。そしてダンスはPurfumeの振り付けも手掛けるMIKOKOMETALに「振り付け」されている。両名の存在により、ベビメタはメタル界「内部」の一員として「外部」からメタルを「承認」すると同時に「批評」する者でもある。ベビメタと観衆がライブで向き合うとき、両者の間には様々な二項対立が絡み合う。

ベビメタのライブではMCは稀で、曲間にはストーリー仕立ての映像が挿入されるが、頻繁に引き合いに出されるのがウォールオブデス(以下WoD、観衆が二つの壁に分かれて激しくぶつかり合うこと)である。ベビメタの全力投球に観衆もやはり全力で応答するとき、両者の関係は本来観衆同士で行われるWoDに例えられ得る。WoDの左右に分かれた2枚の壁はベビメタと観衆の二項対立を象徴するものだが、それらはやがて回転する一つの大きなサークルピット(円を描いて走り回る)に回収される。そこで描かれる円弧は、錬金術において相反する二要素の融合のシンボルとされている二匹のウロボロスの蛇に擬えられ、二項対立は解消されて全ては一つの熱いうねりと化すのだ。

ここでは「贈与」に対する「返礼」との間にズレは発生しない。なぜか。ベビメタのライブはメタルのそれを基盤としている。しかし繰り返すが、彼女たちはアイドルでもある。そのダンスはMIKIKOMETALに「振り付け」られており、ライブ映像はDVD化されている。観衆たちの大部分は細部に渡るまで全ての「振り付け」を習得している。ベビメタと観衆たちはMIKIKOMETALによる「振り付け」を媒介にし、全てのステップ毎に同じタイミングで同じように身体を酷使する。あるいはベビメタのステップに対し、観衆が完全なシンクロ性を担保した動作で応えることで、同じ運動量を共有することになるのだ。

図5:ベビメタと観衆の関係性

 

5. 供儀への共感

伝説の黒髪を華麗に乱し 狂い咲くこの華は はかなく消える

ベビーメタル/『ヘドバンギャ―!!』)

 

供犠において、供犠を執行する者は、死にみまわれる動物と自己同一化する。そのようにして彼は、自分が死ぬのを眺めながら、死んでゆくのだ。それも、いわば自分自身の意志で、供犠の凶器に共感を覚えつつ。

(ジョルジュ・バタイユ/『ヘーゲル、死と供儀』)

 

アイドルの旬は短い。破竹の勢いのベビメタにも、いつ終焉の時が訪れるのかは誰にも分からない。しかしこの時限性こそが、刹那の美学を打ち出す彼女たちの世界観に説得力を付与する。そして「振り付け」を媒介に同じ瞬間を共有する観衆たちの想いを、一層強固なものとするのだ。同時に「メタル復権」のストーリーを付与され、祭り上げられた彼女たちの生もまた時限性に追われている。観衆たちは、私たちは、メタル復権のために供儀に付される彼女たちを見殺しにしてはいまいか。神輿を担ぐこと自体が供儀に加担することともなってしまう罪悪感を和らげるために、私たちは「振り付け」という凶器を通して、あるいは自らも「コルセット」を纏うことで、彼女たちの身体に宿る痛みに、共感しようとしているのではあるまいか。

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