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シワとノイズにまみれる選択 〜EN Tokyoが掘り起こす「縁」〜

日々進化を続けるスマホ用アプリ。昨今、その中でも「自撮りアプリ」のニーズとそれに呼応した供給競争は目覚ましい。それは最早女性だけのものではなく、ネット上では男性利用者によるレビューも散見される。それらが提供する機能は実にシンプルだ。如何に肌のシワやくすみを除去して「美肌」を実現するか。要するに「ノイズ」を排除し、つるっとした肌の質感を「模範解答」として、そこにどこまで簡便な操作で近づけるかによってアプリは評価される。そのユーザが時に過度な修正をも辞さないのは、自身の理想の姿からはみ出すものは全て「ノイズ」と判断するからだ。これは「アンチエイジング」「プチ整形」「美魔女」といった言葉が日々を彩る今の日本にとっては特に驚くべきことではない。高須クリニックの高須院長は、小説家の阿部和重によるインタビューの中で、「シワ取り」などの「プチ整形」は「治療内容を説明して、どうなるかをシミュレーションし、やると決まればすぐに終わ」ると説明している。私たちはこれらのアプリを片手に日々、プチ整形後の「ノイズ」のない自身を「シミュレーション」しているに等しい。

このような「ノイズ」を排除し全てをコントロール下に置こうとする欲望は、それが可能となる技術の整備により喚起される。即ち「シワ」を除去可能なアプリが存在するからこそ、私たちは微細な「シワ」をも気にするようになり、それを除去可能なさらに高性能なアプリを欲望するようになる。無限に更新されるスパイラル。そして似たような事象は、全く異なる領域においても散見される。たとえばヒップホップにおけるビート制作の現場でも、同様の現象とそのことを危惧したアーティストによる対抗措置が講じられている。

 

1. EN Tokyo=「縁」東京

「EN Tokyo」と名付けられた参加型ビート制作イベントは、ビートメイカーのピジョンダストを中心に2014年初頭に立ち上げられた。この「EN」が意味するところは文字通り「縁」である。今の日本の若手ビートメイカーたちが、ビート制作にあたりYouTubeなどネット上のストリーミング音源をサンプリングしていることに大きな危機感を抱いたピジョンダストは、音源/レコードとの「縁」、イベントという場が担保するアーティスト同士の「縁」の復権のため、このイベントの企画を思い立ったという。

神保町を中心に開催されるこのイベントの参加者たちは20代を中心とした若手のビートメイカーたちである。イベント会場に集合後、まず神保町に散らばるレコード屋を廻り、銘々好みのレコードを購入する。そして、会場にレコードを持ち帰り、朝までの決められた制限時間の中でそれらのレコードをサンプリングし、ビート制作を行う。最後に完成したビートを発表し合い、その成果物が後日コンピレーションアルバムとしてリリースされる。

ピジョンダストがこのイベントを立ち上げるきっかけとなった危惧とは何であったのだろうか。1970年代後半のヒップホップ黎明期から黄金時代の90年代にかけて、サンプリングする対象となる楽曲は、CDやカセットテープではなく、レコード盤から選定された。これは単に80年代当時はレコードが市場に溢れていた時代背景があったこともあるが、90年代に 入りCDが普及した後はヒップホップのビート制作における美学として受け継がれた。

しかし周知のように、2000年代に入ると音楽のデジタルデータ化、ネット空間での共有化が加速する。その影響の範囲は当然ビート制作の現場にまで及ぶこととなる。もはやサンプリングのために労力とコストをかけてレコードを探し購入せずとも、ネット上、たとえばYouTubeにアップされている音源に次々とアクセスし、汗をかくことなく気に入った楽曲をサンプリングすれば良いのだ。かつては世界一のレコード街と呼ばれた渋谷の宇田川町界隈でも、レコード店が目立たなくなって久しい。

さらに、ビート制作方法についてもプロによる「模範解答」の動画がネット上にいくらでも転がっている。加えて楽曲制作のためのソフトウェアの進歩により、ビート制作自体が、過度にデータベース化された音源やフレーズを組み合わせれば良いだけのお手軽なものになっている。そして日々行われる種々の技術革新により、より少ない労力でよりセンスの良い「模範解答」通りのビート制作が可能となる。ソフトウェアや機材のベンダが際限のないユーザの欲望に「過保護に」応答することで、この効率化と簡便化は盲目的にエスカレートし続ける。ピジョンダストがその喪失を嘆いたのは、このような創作活動の効率化と簡便化により犠牲になる、アナログ的創作が孕むある種の豊穣さや余剰、即ち「ノイズ」ではなかったか。

 

2. 汗と手垢

このようなネット上の「デジタル」な楽曲制作と、実際に外に出る「アナログ」な楽曲制作の分水領はどこであろうか。モノとしてのレコードの溝をプレイヤーの針でサーチしながら、適切なサンプリングポイントを探すこと。一方で、ネット上、YouTubeのスライダーをマウスで操作しながら、同様にポイントを探すこと。両者の間に横たわる違いは何か。そしてその違いは、アウトプットにどのような影響を与えるだろう。

表面的にはフィジカルな世界とネット上の世界との差、アナログとデジタルの二元論のように見えてしまうが、そのような単純な構図に回収されてはならない。データとモノの違い。この場合のモノ、つまりレコードは基本的に中古であり、幾人かのオーナーの手を渡り歩いて来たモノである。以前のオーナーがDJであった場合、同じレコードを2枚使ったトリックプレイ(2枚使い)のためにマーキングのシールが貼ってあったり、あるいはテンポを表すBPMの数字がマジックで書き込まれていたりする。自分と同じような好事家が、自分と同じように汗をかきながらレコード屋を廻り、盤を掘り漁った手垢や痕跡が残っていること。そして自身も同じように未来のオーナーへ向けて手垢を付着させながら、最高のサンプリングポイントを探し続けること。

このような汗や垢を伴った労力を掛けて制作したトラックは、ネット上の素材だけで作ったそれよりも美しい、と無防備に信じたくなる。しかし私たちは、そのような単に懐古的な思考法からも慎重に距離を保たなければならない。単に古いやり方の復権を目指すだけではなく、用意される「過保護さ」に対して批判的な視線を投げかけること。たとえば「過保護に」容易になったゲームの難易度設定を前に、ゲーマーが自らを律する「シバり」プレイをするような態度が求められるのだ。

 

3. 偶然性というノイズ

黒光りする12インチのポリ塩化ビニール。丸いアナログ盤。エジソンによる円筒式蓄音機である「フォノグラフ」を経て、1887年にドイツ系アメリカ人のエミール・ベルリナーが発明した円盤式蓄音機の「グラモフォン」により、円盤型のメディアに掘られた溝によって、音楽がメディアに記録されることになる。

レコードのプレス過程には、カッティングという工程が存在する。レコードを複製する際に元となる原盤を作成する必要があるが、このラッカー盤の溝をカットする工程である。有名ジャズレーベルのブルーノート・レコードやインパルス!レコードの諸作品の裏方には、高名なカッティング/レコーディングエンジニアがいる。ルディ・ヴァン・ゲルダーその人である。そのイニシャルの「RVG」と刻印されたレコード盤はそれだけで最高の音質を約束されている。彼はジャズのレコーディングで特に重要なのは「ミュージシャンのパーソナリティやフィーリングを理解すること」であり、さもなければ「ただのハイファイ・サウンド」になってしまうという。つまり「ただのハイファイ・サウンド」とは演奏そのものを「写実」的に写し取った音であるのに対し、彼のカッティングする音はある種の「印象」を切り取っているのだ。ゲルダーはジャズの響きそのものの「印象」を作り上げた張本人なのだ。この切り取られた「印象」は、原音に忠実=写実であることを「模範解答」とする立場から見れば「ノイズ」にほかならない。しかしブルーノートやインパルスが生み出したRVGサウンドの豊穣さは、ジャズの正史として今も揺るがない。

カッティングはデジタル音源にはない工程である。つまりカッティングエンジニアが誰で、どのようなスタイルの仕事をするかによって当然出音が変わるわけであり、「偶然」の要素が一つ絡むことになる。デジタルデータに比べて、アナログレコードが孕む偶然の要素は数多い。そもそもレコード屋で盤を漁ることは「digging in the crates」(レコード箱を掘る)と言われる。文字通り一枚一枚レコードを箱から「掘り出す」わけだが、大抵ジャンルのみでしか分類されていない山の中からどの盤を掘り出すかは偶然性に大きく支配されている。また、CDと違って横向きに置いてインデックスのアーティスト名やタイトルを見てゆくことも出来ないため、端から端まで文字通り一枚ずつ掘り起こしながら気になる盤を探してゆくことになる。たった一枚のジョーカーを探してシャッフルされた何組ものトランプを一枚ずつ捲って行くように。「ジャケ買い」という言葉に象徴されているように、「このジャケットと目が合った」「盤に呼ばれる声を聞いた」などと、それらとの邂逅における偶然性が幾分レトリカルな表現で語られることも珍しくない。

レコードの盤面自体にも偶然性は宿っている。プレス時のプレスミスにおるノイズ、盤面の反り、経年劣化による音質の変化、盤面の傷によるスクラッチノイズ等々。その意味で全く同じ音の盤は二つとなく、特に個々のレコード盤に宿るノイズという偶然性は、サンプリングするフレーズに大きな影響を与える。たとえば盤面の深い傷により音量の大きな「プチッ」と鳴るノイズがあれば、そこを音符に嵌め込みリズムに乗せる形でサンプリングするケース。あるいは録音されている音量が非常に低いために、相対的にバックグラウンドで鳴るノイズが大音量となる場合、その箇所を好んでサンプリングするケースなどである。

 

4. あるいは他者性

EN Tokyoが実践しようとしているのは、単に古き良き方法の啓蒙活動ではない。このようなレコードの偶然性を再起動すること。そして彼らが射程に入れる偶然性はこれだけに留まらない。より広義の偶然性、つまりイベントという形で複数のクリエイターたちが同じ場所と時間を共有することで生まれる、「他者性」を引き受けた偶然性にも着目するのだ。ネット上でビート制作の「模範解答」を参考にするのとは違い、個々のクリエイターのそれぞれのやり方を隣で眺めること。彼らがどのような息づかいでサンプラーや機材を扱い、彼らの方法論がリアルタイムで自身のこれまでのやり方に如何に影響力の触手を伸ばすのかを観察すること。参加者は誰なのか。隣同士になるのは誰なのか。

哲学者の九鬼周造は、偶然の三つの性質として「何か有ることも無いこともできるようなもの」「何かと何かが遇うこと」「何か稀にしかないこと」を挙げている。二番目の「何かと何かが遇うこと」は、一番目を踏まえた「遇うことも遇わないこともあり得るような遇い方」でなくてはならないという。EN Tokyoがもたらす、場と時間と「遇うこと」、参加者と彼らの方法論と「遇うこと」、何よりもそこで遇うレコード盤が本来持っている、制作過程に現れるエンジニアと「遇うこと」。そして盤固有の諸々の特性と「遇うこと」。そこでのアウトプットは、ネット上の検索を起点に辿り着いた素材、方法論、環境で作られたものとは全く性質を異にするはずだ。

以上見てきたように「ノイズ」とは「偶然性」であり「他者性」である。En Tokyoのようなイベントに参加することは、思想家の東浩紀が『弱いつながり』で奨励しているような「偶然性」と出会う旅に出ることとも同意である。決して検索では出会うことの出来ない諸条件を総合した、「偶然性」がもたらす種々の「ノイズ」の上に成立するビートに「出遇うこと」。

 

5. あるいは受動性

デジタルによるモノ作りとは、換言すれば、アナログがもたらす「ノイズ」を取り除き、全てをコントロールすることである。全てを自分でコントロールすることへの欲望は、ジャズミュージシャンの菊地成孔も言うように非常に「幼児的」なものともいえる。

冒頭で見たように、「ノイズ」の排除に宿る「幼児性」は、たとえば「自撮りアプリ」に象徴されている。ここでは文字通り「アンチエイジングの欲望」がそのまま「幼児性」に符号する。加工を繰り返した肌の質感は、「模範解答」のように均一化し、皆似たような顔つきに帰着する。高須院長によれば、医者の側から見ても機械のテクノロジーは進歩したが「同じ機械を使うから技術は画一化されて」おり、「たいていのことがどの医者でもでき」るという。このことはネット上の「模範解答」を過剰に参照して制作されたビートが、クオリティは高いが「没個性的」なことの変奏でもある。あるいはピッチ修正を過度に施したボーカルトラックの聞き触りが似通っていることなども、同様の事象の発露といえよう。

そうではなく、敢えて「シワ」=「年輪」を刻まれる通りに受容すること、「年輪」が刻まれたレコードの「溝」と「ノイズ」をそのままサンプリングすること。コントロール不可能な「ノイズ」あるいは「他者性」を創作の現場に取り込むこと。しかしながら事態はそこまで単純ではないだろう。ベタに往路を戻れば解決につながる地点から、私たちは些か遠くへ来すぎている。

EN Tokyoが無意識に提案する処方箋はむしろ、レコードからのサンプリングではなく、菊地成孔らの生演奏をその場でサンプリングすることをルールに据えた、2014年4月のイレギュラー回にこそあったのではあるまいか。つまりレコード盤のサンプリングソースを掘ることで「能動的」に偶然性を取り込むのではなく、むしろ目の前に立ち現れる他者の即興演奏を浴びることで「受動的」に偶然性に対峙すること。あるいはEN Tokyoに自ら手を挙げて参加するのではなく、友人に連れられて参加すること。「能動的」なコミットメントは、無意識に結果を求めてしまう。アクチュアリティに著しく欠けるとの批判を承知の上で敢えていうならば、そのような性急に是非を問われるような振る舞いから、敢えて距離を取ること。「受動的」な在り方が孕む豊穣さが再起動するのを、「受動的」に待ち受けること。そのような佇まいにこそ、創作に開かれた豊穣な「ノイズ」との「縁」が、生まれるのではないだろうか。

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