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遠ざかる「死者たち」と近づく「鋼鉄の処女」〜スネアと木魚のディシプリン〜

この論考では「言葉と直に格闘」することが要請されている。

したがって、私たちの言葉の紡ぎ方は此れまでとは装いを変えるだろう。それらが少しずつ私たちの歩速を追い抜くのを、そして決してこちらを振り返ることのないその背中を、黙して見つめなければならない。それらがやがて自律する地平を目指しつつ、最終的に「自らにとってのかたち」を成すのを見届けなければならない。あるいは、それらが自壊する場面に立ち会うことになっても、後ろから、何もできずに佇んでいなければならない。そのような言葉の立ち現れ方に、自らを開かなければならない。依拠できるのは、自らの「経験」と歴史的な「事実」のみである。後者について、他者がどう考えたのかについては不問としなければならない。

論考を起動するにあたり、差し当たっての手掛かりは、あまり用意されていない。分かっていることは、この論考には、場所とその空気の記憶が刻まれることだ。それはまず、鎌倉から始まる。

 

1. 鎌倉、隣接し合う空間

扇ガ谷に鎌倉唯一の尼寺、英勝寺がある。開基の英勝院尼は太田道灌の子孫であり、お勝の方と呼ばれた徳川家康の側室であった。敷地内の目立たない場所にひっそりと佇んでいるのが、彼女が毎日何時間も籠っていたという修行用の穴倉だ。真夏の日差しが照りつける中、穴に降りてゆくと、人がひとり屈みながら中に入ることができるぎりぎりの広さだ。ひんやりと、凛とした空気を感じるが、始めは真暗で何も見えず、その狭さに俄かに窮屈さを感じ直ぐにでも外に出たい気にもなるのだが、もう少しだけ耐えてみよう何せ修行の場なのだから、そうでもしなければ何も分からないのではあるまいかと思い直すと、やがて目が慣れ、それまでその存在に全く気が付いていなかったものが、輪郭を露わにする。高さ20センチほどの一体の仏像である。暗闇に忽然と現れたその表情のなんと豊かなことか。この柔らかな視線に包含される己のまた内側に意識を集中すると、ほどなく狭い穴倉で身を屈めていることは、さしたる問題ではなくなった。

人間の諸感覚はいつも互いの顔色を窺っている。視覚や聴覚や嗅覚は、互いに一番目立ってしまうことを避けている。しかしひとたび闇の中で視界が奪われると、他の知覚器官に注意が集中する。結果、盲目の音楽家に顕著なように、聴覚が鋭敏になる。たとえば目を瞑って、琵琶法師の聴覚の鋭敏さを想像すること。穴倉と地上の狭間の僅かな隙間、裂け目から聞こえてくるのは、蝉の声と、一定のリズムを刻む木魚の音色であった。木魚の音色は、どこまでも丸っこかったのを、覚えている。

鎌倉は、三つの空間が共存する、特殊な街である。居住のための空間、死者のための空間、そして観光のための空間。一本の路地を境にそれぞれの空間は複雑に絡み合い、斑模様の迷宮を描く。

一般に、近代を通して、墓地/死者は、生者から遠くなってゆく。それ以前の平安時代末期から鎌倉時代にかけて、浄土思想の影響に基づき死者の供養や遺体が尊重されるようになると、墓地は一旦、居住空間のなかに組み込まれるようになる。しかし明治維新以降、公衆衛生や都市計画の観点から、墓は居住空間から分離される。換言すれば、近代とは、いわば国の施策が伝統的価値観に先んずることで、死者との距離が遠くなる時代なのだ。そして言うまでもなくそれは近代以降さらに加速する。

しかしここ鎌倉においては、居住空間の隣に墓地が存在し、観光客が迷い込む。ソフトクリームを舐めながら少し奥まった場所を散策していると、突然、北条政子の横穴墓と邂逅を果たすような場所なのだ。鎌倉を観光することは、葬られた都の墓参りをすることである。過去の都を偲び、参拝すること。このとき、墓地はいわば「半透明さ」を湛えて、鎮座している。「半透明」と呼ぶ根拠はふたつの視点から求められる。まず居住空間に属す視点から見れば、物理的に身近に存在するが故に特別視しなくなるためだ。これは逆説的に、無意識的な死者たちの忌避にも接続されるだろう。また観光空間の視点から見れば、観光の文脈に括られ一過性の風景として過ぎ去ってしまうためである。ここでは、死者たちは確かにそこにいるのだが、過剰に意識されることのない存在なのだ。近現代が失った共存の記憶を、この場所が担保している。

扇ガ谷から南西、由比ヶ浜の海浜公園に歩を進める。地元の子供たちが集まるこの心落ち着く場所には、意外なエピソードがある。この公園の地下には、広大な駐車場が広がっているのだが、その建設工事中に約4000体の人骨が見つかったのだ。その他にも同様の遺跡は数多く見つかっており、由比ヶ浜全体が鎌倉時代の集団墓地であったと見られるが、そのうちに人口増加により、墓地の上にも住居が建てられるようになり、現在に至る。墓地を上書きすること。これは時代を問わず普遍のタブーに相違ない。その住人たちがしかし、身体中の凡ゆる骨の中で「頭蓋骨」だけ特別視して供養していたのも、罪の意識の表れだろう。

当時の遺骨信仰においては、穢れが宿るとされる遺骸に対し、「頭蓋骨」には浄められた祖霊が宿ると信じられていた。鎌倉時代には、この髑髏骨を通常の仏教の御衣木として本尊を作る、立川流と呼ばれる密教が開かれている。男女の性愛行為そのものを秘儀とし、邪教と異端視されたこの真言密教は、一時は後醍醐天皇が帰依するほどまでに大成するが、江戸時代に至り弾圧される。近代を前にして、非理性的な思想がもたらす多様性やある種の豊饒さは、失われてゆく。

 

2. スネアドラム、律するビート

近代の到来を待たずして失われたもの。逆に明治維新を境に立ち現れてくるもの。

近代史とは、私たちが如何にして西欧の思想や文化を「翻訳」して来たかの歴史でもある。幕末に欧米列強からまさに面と向かってアプローチを受けていた状況下において、中でも早急な西欧化が求められたのは、言うまでもなく、軍隊である。西欧風の制服に身を包み、西欧風の行進曲に合わせ、西欧風の規律に従い行動する。そしてこの和洋折衷の行進曲については、洋楽が受容され「翻訳」された最古の例の一つであろう。

戊辰戦争時の山国隊に、興味深い例が見られる。メロディを奏でるのは、従来の篠笛なのだが、リズムにはスネアドラムやバスドラムが用いられていたのだ。スネアドラムは、その底面に響き線(スナッピー)と呼ばれる金属線を接触させることにより、その打音に独特の響きを添加する。この響き線をミュートすることも可能だが、両者を比較するとその違いは明白である。響き線を用いることで派手な音、高音のノイズを強調した音となるのだ。日本の和太鼓も従来合戦において兵士を鼓舞するために利用されてきたが、スネアはより大音量で可能な限り多くの兵士に音声による指示を与えるという目的に適しており、兵士の鼓舞のためにもアタック音は強ければ強いほど望ましい。

最初にスネアドラムを取り入れ、篠笛で奏でられるメロディと調和を取れたこと。日本人は、諸外国の文化や技術を模写し、それらを取り入れることに長けているといわれる。しかしその理由を、私たちの特性であるからと単純化できるだろうか。何かを「模写する」というとき、対象をそのまま持って来れば良いのではなく、その対象と接する既存の外部と接合する技術、その対象を破綻なく接受するに至る先行研究が必要である。たとえば種々の問題を含みつつも西洋哲学を翻訳し輸入できたのは、東洋の哲学を私たち自身が吟味し、充分な先行研究と共にそれらを取り込む素地があったからである。これは単に「西洋の模倣が得意」などと、ときに蔑視のニュアンスが含まれ得る表現からは、滑り落ちがちな本質ではなかろうか。

現にスネアドラムの場合、楽器としてはそのまま用いられたが、その演奏方法、即ち楽譜については口唱歌と呼ばれる形式で、口頭で演奏者から別の演奏者に伝えられた。これは十分な口頭での伝達ノウハウが既に整備されていたからに他ならない。口頭による身体性を巻き込んだ伝達には、五線譜からは零れ落ちる豊穣なグルーブが息づいていた違いない。ほかにもたとえば西欧の十二音階を受け入れる際に、一旦クッションの役割を担った、長音階からファとソを除いた「ヨナ抜き音階」の活用にも、日本人の柔軟な感性が見て取れる。

このようにして、今から約150年前、西欧のドラム演奏を私たちは受け入れ、自らのものとした。スネアの一音一音が、行軍する兵士の歩くペースを規定する。ディシプリンとしてのスネアドラム。これらの反復される音の群、ビートに律されるのは、兵士だけだろうか。

鋭いアタック音を伴うスネアドラムとは対極にある、丸っこく柔らかい音色を持つ木魚。同様に、兵士とは対極に位置する僧侶が木魚を利用するのは、自らを律するためではなかったか。兵士の歩く速度に符号するがごとく、読経が規則正しく連なるように、その速度を規定する。ときに永遠に似た時間感覚の中で、木魚が眠気を抹殺するその様は、長い行軍で疲労した兵士たちを鼓舞するスネアの役割にも擬えることができる。

西欧の翻訳をひたすら進めた私たちの近代は、続く時代にその命題を様々な理由で補強され、現代に至るまでその体質は変わっていないように思える。当時兵士を律したディシプリンは、スネアドラムのエッジに宿っていたわけであるが、このエッジを今も浴びることが可能な場が存在する。

 

3. ふたつの、来日公演

2006年10月25日、武道館。満員の客席。同年に通算14枚目のアルバムとなる『A Matter Of Life And Death〜戦記』(以下『戦記』)をリリースしたアイアンメイデン(和名は「鋼鉄の処女」)の2年半ぶりの来日公演。寝不足と諸々の疲労で倦怠感の中、オープニングを待つ。やはり体調を鑑みて今日のところはチケットを別のファンに譲り帰路につくのが得策であったか、否、彼らの音楽を生で味わえる機会は数年に一度しかないのだから、この判断は正しいに違いないのだ、などと頭の中の葛藤を反映するように武道館の空気は淀んでいる。しかし何の躊躇もなく、荘厳さを湛えたショーの幕は開く。なんということか、彼らは全10曲、71分53秒に渡る『戦記』の完全再現を決行する。ときには雷鳴のようであり、ときには風に吹かれる湖面のようにロールするニコ・マクブレインによるスネアドラムは、PAシステムを通し極端にエンパワーされたディシプリンとして、1万人以上の聴衆のペースを規定する。爆音に合わせて自然と頭が前後に振れる。その振り幅は徐々に徐々に大きくなり、声にならない叫びが脳天から飛び出すほどにひたすらに、ただひたすらに、首を振り頭蓋骨を揺らす一兵卒としての自我に目覚める。ふと顔を上げると、武道館を埋め尽くす我が同胞たちも、規律を掲げるビートに対して一糸乱れぬヘッドバンギングで応答し、指揮官たるボーカルのブルース・ディッキソンの指令に従いコーラスパートを詠唱している。

聴衆はバンドと一体となってビートに合わせ行進する。クリミア戦争について歌っている『Trooper』やバトルオブブリテンについての『Aces High』などは彼らの代表曲であり、『戦記』に至ってはその名の通りアルバム全体が戦争を題材としている。彼らはもちろん争いの犠牲者である「死者たち=骨」への目配せも忘れてはいない。アイアンメイデンの全ての作品のジャケットに登場する彼らのマスコットキャラクターである「エディ」はゾンビだが、『戦記』のジャケットを飾るのは「骸骨化」した「エディ」の群である。 ショーの終盤では、「巨大な戦車」から、ヘルメットを被った「頭蓋骨」を誇示する「エディ」がステージ上に現れ、聴衆のボルテージは頂点に達する。ここでは、「エディ」や「骨」によってアイコン化された死者たちの象徴に、武道館という場所が、逆に「観光される」のだ。鋼鉄の音楽は、いつも「半透明」の死者たちと連れ立っている。

近代を通して益々鋭利になる西欧輸入の感性により、遠ざかり続ける死者たちとの距離に批判的な楔を打ち込む、西洋文学やオペラなどのコンテンツが流入した。結果、「鋼鉄の処女」に象徴されるような、その距離を跳び越えられるような文化の多様性を、私たちは獲得したのだ。

このように、近代を経て、その出口で、私たちは西欧鋼鉄音楽をも愛でている。ところで、その入口の様子は如何なるものであったか。私たちが体験した最初の「来日公演」の記憶の一つ、ペリーが1854年に黒船に乗り、黒人に扮した彼らによるエンターテイメントであるミンストレルショーの前身のツアーに訪れた際、そのバンド編成はギター、バンジョー、ヴァイオリンの弦楽隊に、タンバリン、獣骨製のボーン・カスタネットのリズム隊がビートを刻んだ。ショーのセットリストには、「頭蓋骨」の特徴からその人間の性格を言い当てる「骨相学」の講演も含まれていた。当時の日本の観衆たちは、英語で行われたユーモア溢れるこの講演をも、その研ぎ澄まされた感性で言葉に拠らずに「翻訳」し、笑い転げたに違いあるまい。

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