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山尾悠子『傅説』を読む ―絵画と《思え》と正三角形による犯行―


謎は、私の身体が見る者であると同時に見えるものでもあるという点にある。

(モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』)


1.
装置の来歴

山尾悠子が言葉で世界を編み始めたのは彼女が若干18歳、1973年のことだった。そして実質的な処女作『夢の棲む街』(1976年)において、現実の世界に対する「言葉でできている世界」を掲示した。これは幻想小説の世界における一つの事件であり、幾多の事件を誘発する起点でもあった。

山尾の「言葉」がつくる「世界」は、「絵画的」イメージが溢れる世界である。実際に山尾は『夢の棲む街/遠近法』の後記で「絵画から小説のイメージを得るケースは割合多い」と述べており、具体的な画家としてモンス・デジデリオ、ピラネージ、デルヴォー、キリコの名を挙げている。また『夢の棲む街/遠近法』の単行本表紙にはヒエロニムス・ボッシュの『快楽の園』が、『ラピスラズリ』(2003年)にはジョージ・フレデリック・ワッツの『希望』が、初期作品集である『夢の遠近法』(2010年)にはデジデリオの『バベルの塔』がそれぞれ使われている。

山尾の1982年の作品『傅説』は4371文字からなる短編である。その構成成分は山尾自らも語っている通り、高橋睦郎『第九の欠落を含む十の詩篇』の言語感覚に、J・G・バラード『時間の庭』から群衆のイメージを混合し、ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』の第一楽章の半音階進行を後景に据えて累々と破滅へと進行する世界への航路を見出している。そして俯瞰の構図、尖塔や宮殿の描写、罌粟粒のような人々、仔細に見れば幽霊や骸骨の様な多くの人影など、デジデリオの絵画からの影響も強く感じさせる。

『傅説』には全部で145 の動詞が使われているが、周知の通り、冒頭を始めとして合計22回に渡り出現する「〜と思え」の言い回しは夏目漱石『幻影の盾』から拝借されたものだ。


……盾の話しはこの憲法の盛に行われた時代に起った事と思え。(中略)……盾の話しはこの時代の事と思え。

                       (夏目漱石『幻影の盾』)

江藤淳は岩波文庫版の解説で、アーサー王伝説や『ニーベルンゲンの歌』などの叙事詩を下敷きにした『幻影の盾』は、叙事詩であるが故「構成要素を何一つ勝手に変えることができず」未来へ抜け出す道は閉ざされているという。当時の「小説の時間」は新聞や週刊誌での連載の時間、即ち「来週になれば何が起こるかわからない時間」である。これらの叙事詩的な世界を少しでも小説らしく見せるため、過去形ではなく現在形を用いることにより、「リアルタイムで進行する物語」として読者に体感させようとしたのだと江藤は見ている。

上記引用部で二度繰り返される《思え》についても、この物語に読者を没入させるための装置といえよう。まず、冒頭において読者を過去の時点に誘引し、そこから「現在形」の語りによる、「来週には何が起こるか分からない」「現在進行形」の物語が展開する感覚を読者に刷り込むのだ。


2.
ひとつ目の図形

憂愁の世界の涯ての涯てまで、累々と滅びた石の都の廃墟で埋まっている。まずはそう思え。

     (山尾悠子『傅説』)

この冒頭部を初めとし『傅説』全編を通し《思え》は22回姿を現すが、先ほどの『幻影の盾』においては上記で引用したわずか2回である。《思え》の数がこれほど多いのは、単純に考えれば山尾の「絵画的世界」に読者を没入させるためであろう。江藤も『幻影の盾』へのラファエル前派の絵画の影響を認め、絵画的な「時間の止まった世界に読者を誘うためにはこのような手段が有効である」と述べている。しかし本当にそうだろうか。

「思え」と言われると、逆に「思えなく」なる者もいるだろう。何の疑問も抱かず没入できる読者層だけを想定するわけにもいくまい。そうでない読者にとって《思え》は寧ろ山尾の描く世界と、読者との間に横たわる隔たりを最大化する装置として機能してしまわないか。つまり、ここで《思え》がもたらす効果は、以下のような二面性を含んでいるのだ。

① 表層的な効果:山尾の描く世界へ読者を誘引する「引力/囮」

② 隠蔽された効果:山尾の描く世界から一歩距離を置くことを余儀なくさせる「斥力/監視カメラ」

素直に「引力/囮」に吸い寄せられ拉致される読者は良いとして、そうでない場合、逆に世界への侵入を阻害する要因、即ち「斥力/監視カメラ」となりかねない。《思え》は小説の世界を文字で追う読者にとっての彼岸、言語化された絵画的イメージからのメタメッセージなのだ。この《思え》は「読者のメタ意識」に働きかけ、これを受け取った「読者のメタ意識」は「読者」自身に目を向ける。山尾が差し向けた《思え》に誘起される形で、ここに「読者」「読者のメタ意識」「言語化された絵画的イメージ」による正三角形が浮かび上がるのだ。これを順序立てて記述すれば以下のようになろう。

①「読者」→<見る>→「言語化された絵画的イメージ=小説」

②「言語化された絵画的イメージ=小説」→《思え》→「読者のメタ意識」

③「読者のメタ意識」→<見る>→「読者」

これはメルロ=ポンティが『眼と精神』で「私の身体はあらゆる物を眺めるが、自分もまた眺めることができる」と述べているパラドックスと呼応する。このとき「読者」が見るのはあくまでも絵画的「イメージ」であるが、ここではメルロ=ポンティの言う「心象」を見る「第三の目」を前提とする。何れにしても、私たちは小説を読む、つまり「言語化された絵画的イメージ」を「見る」と同時に、この《思え》に促され、半ば強制的に、小説を読む「私たち自身」を「見る」ことになるのだ。後に見ていくように、勿論山尾はこのような《思え》の二重の効果に無自覚なわけでなく、寧ろ積極的にこの効果を妄用する。


3.
ふたつ目の図形

続いて《思え》の効果の詳細な検証のため、読者にイメージさせようとする対象を具体的に見てみよう。これらは大別して三つのグループに分類される。

まずは22のうち7つ分を要しているのが、この沈黙の世界に突如現れ、ひたすら歩き続ける一組の男女、「愛人達」の記述である。彼らは「西の地平」に現れ「東の地平」へ「幾日もの日数」をかけて達し、夜になれば彼らの周囲だけが「赤々と」「暗い焔に包まれ」、彼らの「愛の名に於て」世界の呻きは無視され、しかし彼らの周囲を「変化」が「徐々に蝕んで」いき、彼らの「頰の皮膚」も「周囲の地面も建物」も「烈々と燃えさかる火の色に染まって」おり、二人の間の「言葉と視線の谺」は「無限に、永劫に!」「反復する」のだ。赤々と染まる愛に呪縛された二人。

次に、22のうち7つの《思え》を費やしているのが、ひたすら歩き続ける二人を追いかけ、かなり遠方から監視する「群衆」の記述だ。彼らの「昼夜を休まぬ行軍」は愛人達に追いついていき、愛人達を「偸み見る群の数」は「日毎増し続け」、擁きあう愛人達を囲む「四五百の群」があり、やがて「地表を埋めつく」す「人の貌と貌と貌」となり、「滅びた神々のように超然」として「駆け抜ける暗赤色の光芒に曝された」「彼らの姿で世界の全部が埋ま」り、「死の行軍」の「大群衆」は「朽ちた耳で」「大編成の混声合唱」を聞き、最終的に「死の行軍」が「岸を埋めつくし」「水面下へ」沈んだか、「海底をまだ進んでいく」かは「誰にも判らなかった」のだ。世界を埋め尽くす貌、貌、貌の群は、世界それ自体の手触りでもある。

最後に、22のうち残りの8つが割り当てられているのが、「愛人達」と「群衆」の舞台となる「憂愁の世界」それ自身。《思え》が換気するのは具体的には「世界の涯て」まで埋めつくす「石の廃墟」や「不吉な静寂」、「石の寺院に神殿」や「尖塔に橋」、「暴風雨の前」に「地平をめぐる低い空」を彩る「凶兆の西の残照」、「世界の存在」たちが挙げる「声のない呻き」、「静まりかえった水平線」や「むごい暁の色」を増す「夜明けの気配」である。地平線を分割線とし天と地/海からなる世界の構成部品の鳥瞰図。

以上のように、145の動詞のうちの一つである《思え》の22回に渡る行使は、「群衆」(=見る者)「愛人達」(=見られる者)「憂愁の世界」(=その舞台)の3つに均等(「憂愁の世界」にはほぼ同文に2つが当てられており、これを重複と考えると丁度同数)に割り振られ、これらもまた先ほどと同様に正三角形を形作っている。

「憂愁の世界」という舞台の中心に位置する「愛人達」とそれを取り囲む「群衆」の正三角形の構図。これは例えば山尾の別の短編、『夢の棲む街』における「漏斗型の街」の舞台上で「薔薇色の足」を囲む「観客」や、『遠近法』における「腸詰宇宙」で「太陽と月」を見守る「人々」の関係とも見事な相似形を成す。

この「憂愁の世界」それ自体の広大さ、そしてその中での「愛人達」の小ささ、そして彼らと変わらぬ小さい人間が蟻のように大量に群れる「群衆」の様子。そして「絵画」においてこの三角形を司るものはなにか。それは言うまでもなく、奇しくも山尾が代表作のタイトルに冠した「遠近法」である。

整理しよう。《思え》が山尾の小説に埋め込まれた、「言葉で作られた世界」と「読者」の距離を相対化させる装置だとすれば、幻想絵画に埋め込まれた、「絵画内の世界」と「鑑賞者」の距離を相対化させる装置こそが、「遠近法」であるのだ。つまり、《思え》の持つ二つの側面と同様に、「遠近法」は、現実を写し取って、現実のように見せることで絵画の世界に没入させようとする。ところが絵画が平面であることが意識された途端、そこに描かれるのは単なる「歪み」以外の何者でもなくなる。なるほど、『傅説』のイメージが色濃いデジデリオだけでなく、山尾が触れているピラネージ、デルヴォー、キリコのいずれも遠近法の存在感が際立つ作品が散見される。


4.
手口とその先

「遠近法」が司る、小説内の「愛人達」「群衆」「憂愁の世界」が織り成す正三角形。そしてその外側における「読者」「読者のメタ意識」「言語化された絵画的イメージ」の正三角形。前者は後者の「言語化された絵画的イメージ」内部の入れ子構造となってもいるのだが、小説内/外のこれら2つの三角形の関係性は如何なるものだろうか。

結論からいえば、この両者の二組の頂点たちは、驚くべきことに、互いに蜜月の仲にあったのだ。

「読者」が「言語化された絵画的イメージ」を見るように、「群衆」は「愛人達」を存在しえない幻想のように見ている。「絵画的イメージ」が「読者のメタ意識」に《思え》を投擲するように、「愛人達」は「憂愁の世界」へ自分たちを容認するようメッセージを送信する。「赤々」と発光する彼らは、「憂愁の世界」を照らし出す「舞台の一点に絞られた光源」なのである。そして「読者のメタ意識」が「読者」自身の存在を認めるのと同様、「憂愁の世界」は「愛人達」に促される形で、まさに自身の一部としての「群衆」見出すに至る。このやり取りは一周すると反復され、次のように示される。

①「読者」→「言語化された絵画的イメージ」→「読者のメタ意識」→「読者」→「言語化…

②「群衆」→「愛人達」→「憂愁の世界」→「群衆」→「愛人…

ここに、山尾による、三角形を利用した犯行手口が明るみとなる。読者はいまや、二重の三角形の一つの頂点として、無限反復内に拐引されているのだ。①が《思え》に小突かれながら22回の「反復」を繰り返す間に、②の「愛人達」は「赤々と」した光源となり、照らされた「憂愁の世界」もまた「紅く」染まることで応答する。「赤」「紅」「血のいろ」といった「あか」で形容される対象もまた、合計22回現れることはもはや偶然ではあるまい。監視カメラに追跡されながらも、私たちがここで現場検証のために不法侵入しているのは、山尾の幻想世界なのだから。


幻想とは、したがって、既知の秩序からの断絶のことであり、日常的な不変恒常性の只中へ、容認しがたきものが闖入することである。ひたすらに奇蹟的な世界でもって、この現実をそっくり置きかえようとするがごときたくらみのことではないのだ。

(ロジェ・カイヨワ『幻想のさなかに』)

今や私たちがカイヨワの言葉から汲み取るのは、ジャンル小説としての幻想小説の定義に留まらない。寧ろ日常生活の中で幻想小説に出会うことで、その中に描かれる世界を「見てしまう」こと自体が彼のいう「幻想」なのである。遠近法すら届かない「ひたすら奇蹟的な世界」の涯ての涯てまで到達するため、私たちは先述の犯行例を踏まえ、巧妙にメタ意識から身を隠さなければならない。


誰かが私に言ったのだ

世界は言葉でできていると

(山尾悠子『遠近法・補遺』)

山尾は「言葉でできている世界」を掲示しようとする。一方、山尾による「言語化された絵画的イメージ」と、山尾の頭の中にある「絵画」の間には「余白」が生じる。これは言語の再現力の不完全性によるものである。この「余白」を埋める、あるいは「余白」を彩色するのが読者の想像力であろう。その読者の想像力を焚きつけるのは、山尾からの視線であり、群衆からの視線ではあるまいか。即ち、世界の中へ没入し切るよりも、一定の距離を保ちながら「余白」をも視野に入れること。「愛人達」や「群衆」を目の前に立ち現れる像として見るのではなく、遠近法に彩られた大俯瞰の構図で捉えること。山尾の代表作全般に「絵画という凶器」が据えられている事由は、事件が明るみになる遥か以前、初めから、明らかであったのだ。

文字数:5510

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