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あなたが見ているその「  」は、聞こえますか? ~ギャングスタ―と高柳重信の響きかた~

1.「  」の音響 〜紙の上の空白を聴くこと〜

紙の上に印刷された文字を読む。紙は本来、真っ白な「空白」ともいえる。その空白に印刷された文字を私たちは読む。このとき、頭の中でそれを読む声が聞こえているだろうか。普段この声を意識することはなくとも、文章が手紙であったり、映画のスクリーンプレイであったりする場合は、その言葉の持ち主の声で再生されよう。であるならば、頭の中の音読を抑えることが条件となる速読を除けば、誰しも一文字ずつ文字を認識しているわけであり、この文字列を読み上げる声は潜在的に聞こえていると言えよう。

このように頭の中で「響く」声について考察すると、ある疑問に突き当たる。文字のない部分、つまり冒頭で言及した「空白」にはどのような「響き」が宿るのか、という疑問である。空白が表象するのは単なる沈黙であり、いかなる音も響かない場なのだろうか。それともなんらかの「沈黙の音」が響いている場なのだろうか。言うまでもなく、この疑問は「4分33秒」に目配せしている。つまり、文字のないページ上の「空白」を前に、頭の中の読み手が「4分33秒」間の沈黙を守るとき、私たちはその沈黙の響きに耳を澄ませることができるのだろうか。

本論では、この疑問についての考察にあたり、まず音楽に挿入される「空白」(=無音/沈黙)とは何であるか見直す。その後、空白が顕在化するテクスト、つまり視覚的/空間的に文字と空白のせめぎ合いが前提となる、詩歌の諸作品を例示しながら当該疑問点について考えたい。

音楽における「空白」(=無音/沈黙)とは何か。ここでは、無音/沈黙との対峙がそもそもの前提となるような現代音楽からの考察ではなく、「突然」訪れる「空白」を、反復をその軸に据える所謂クラブミュージックの文脈に見出したい。私たちが最終的に検討するのは「テクストの空白」の「響き」であり、そのためにはこれまで「4分33秒」が招致してきた議論の射程から、一旦身を剥がす必要があるからだ。

 

2.メロディーの反復と時間 〜過去が未来へ延伸する〜

ベルクソンは、知覚され体験される時間を「内的持続」と呼ぶ。これは、視覚を基準にするとそこに「空間」の概念が入り込んでしまうからという理由で、聴覚をベースに考えられている。つまり音楽を聴いているとき、私たちは時間の流れを感じる。フッサールも人間の内部にある時間意識、つまり「内的時間意識」に焦点を当てている。ひとつながりのメロディーを聴くときそこに継続関係があることは疑えず、そのことを意識経過の内在的時間の根拠としている。また、ヒュームが「未来は過去に似ている」というとき、それは私たちが未来を過去に似たものとしてしか考えられないことを指す。「過去の記憶」が未来に映し出されるのである。つまり、ある楽曲を聴く経験において、これから訪れる「直近の未来」に聴かれる未聴の部分は、「直近の過去」に既に聴かれた部分を元に想像される。

ポピュラーミュージックはその構造を反復と差異に依拠している。これは反復の色が濃いテクノやヒップホップなどのクラブミュージックにおいて特に顕著である。これまで繰り返し積み上げられてきたメロディーとビートが、いくらかの差異と共にその形を変容させながらも、次の瞬間にも反復されることが予期されるのだ。

このとき、過去の記憶は二種類あることに留意したい。ひとつめは短期記憶であり、直近の過去のループが既に持続的に反復を積み重ねているため、直近の未来にも反復が続くという見通しにつながる。これはフッサールの「過去把持」に対応する。他方、比較的長期の記憶、つまり過去に反復する楽曲の構成に慣れ親しんでいることも、今聴いている楽曲の直近の未来の展開を想像させる根拠となる。

 

3.反復がもたらすカタルシスと裏切り ~ギャングスタ― vs. オウテカ~

いずれにしても、音楽を聴くという経験は否応なしに、直近の過去を少しだけ未来に延伸する経験であり、その延伸された過去が裏切られるとき、私たちはある種の快楽を得る。つまり、延伸された未来に聴こえる「はず」だったメロディーやビートが「空白」に置換され、無音/沈黙が挿入される瞬間に、それまで蓄積された反復が多ければ多いほど、私たちはある種のカタルシスを得るのだ。

たとえば、ヒップホップやテクノにおいて反復が続くビートに一瞬挿入される「ヌキ」がこのカタルシスを体現している。グールーとDJプレミアによるヒップホップユニット、ギャングスタ―の「Code of The Street」(1994年)を見てみよう。基本となる2小節のループが34回反復され蓄積された後、楽曲終盤の35回目の2小節、すなわち2分50秒から当該ループの2小節目の終わりでサンプリングされたストリングスの「ヌキ」を含んだシーケンスが現れ、そのカタルシスは3分05秒から訪れる2小節において最大化する。そしてこの快楽の源泉となっているのは、この瞬間まで反復されてきたビートが、次の瞬間も反復されると「予期」され、その「予期」が「裏切られる」ことである。この「予期」とは、換言すれば、私たちは直近の未来の音をいわば「先取り」して想像しており、それらが頭の中で潜在的に「響いている」ことにほかならない。

さらにこの反復と「ヌキ」による未来の「先取り」とは対極の手法で、同様の「響き」をもたらす例としてオウテカの「Ae Systems Mono Version」(1999年)を挙げておきたい。彼ら自身で音を組み上げるパッチから制作している本作において、先ほどとは逆に、純粋な反復は存在しない。小節毎に非常に細かい符割で差異が提示され、精緻な手付きで「ヌキ」が至る所に挿し込まれる。ここには反復される原型となるビートのイデアは存在せず、それは7分16秒の楽曲中で常に自己更新され続ける。しかしながら、一定のテンポは保たれ、ビートのひとまとまりの単位を意識させる程度の反復は続く。そのため聴衆は、結局、従来のループミュージックの文法を参照し、直近の過去から未来を「先取り」する聴取態度に落ち着くことになる。だが「先取り」の要求の都度、返信されるのは微細な差異であり、絶え間ないズレの感覚であり、「裏切り」である。と同時にそれは快楽を伴う「ヌキ」でもあるのだ。ここで私たちが発見するのは、前述の例のような「反復の果てに待ち受けるヌキ」(=カタルシス)に対する、いわば「常にもたらされるヌキ」(=絶え間ないズレ=逆説的な裏切りの快楽)なのである。

一点補足しておくならば、オウテカは1994年にイギリスで制定された、レイブを弾圧する目的のクリミナルジャスティス法に抗い、反復するビートを「含まない」楽曲である「Flutter」(1994年)を発表している。彼らは、同曲で見せた反復を発生させないパッチの手法を、「Ae Systems Mono Version」でも披露している。

以上のように、時間軸に沿って鑑賞される音楽において、私たちは直近の過去までの音の並びから、直近の未来の音を無意識に予期している。「無音/沈黙」の容器の中で「響く」のは「未来に延伸された過去の音」であり、私たちの無意識は「実際には鳴っていない音」を頭の中で鳴らしているのだ。

 

4.テクストの地平へ ~視覚詩の可能性~

続いて、視線を音楽からテクストへ移そう。これから私たちが具体的に考察するテクストは、ふたつの条件を満たす必要がある。ひとつ目は「空白」を保持しつつ、その意味について自覚的であること。ふたつ目は、音楽の例で見たように、過去を未来へ延伸できるような、直近の未来を「先取り」できるようなものであること。

ひとつ目の条件を満たすのは、紙面一杯に文字が配置された、所謂一般的な散文ではなく、空間的/視覚的な目配せを含んでいるテスクト群、つまり詩歌である。勿論一概に詩歌といっても多種多様であるが、空間的/視覚的な捉え方に最も自覚的である形式に、「視覚詩」がある。

マラルメの『骰子一擲』(1897年)に端を発し、アポリネールがエッフェル塔や時計、女性などを文字で描いた『カリグラム』(1918年)、ダダイズムのコラージュ詩、パウンドの詩作品などには視覚性が認められるため「視覚詩」と呼ばれる。日本ではモダニズム詩人の北園克衛が、『白のアルバム』(1929年)に収められた文字や記号で描いた図形がそのまま詩となっている「図形説」、あるいは『黒い火』(1951年)で実践されている一行が1〜3字ほどの横に長く伸びる詩行などで、良く知られている。

ふたつ目の条件を満たすのは、過去から未来を先取りできるようなものでなければならない。音楽の例においては、その構造が反復と差異からなるという「定型」の存在が、未来に来るべきメロディーやビートを予期させた。これをテクストに敷衍するならば、それは「定型」詩となろう。俳句や短歌における五・七音の反復は、潜在的なリズムであり、未来に来るべき音律を「予期」させる。

以上のふたつの条件を併せ持つ作品例から「響き」を考察するにあたり、まずは前衛俳句の旗手である高柳重信の多行形式の俳句を取り上げたい。高柳の展開した多行俳句は、定型に沿った俳句であると同時に、優れて視覚詩としての特徴を備えているからである。

 

5.多行形式の響き 〜高柳重信と無限の空白〜

 

身をそらす虹の
絶巓
    処刑台

 

高柳重信の第一句集『蕗子』(1950年)に収められた句である。「絶巓(ぜってん)」とは「絶頂」に近いが、山頂のさらに高く、隔絶された地点をイメージされたい。本論では横書きのため、途方も無い垂直性を感じることができない点を留意しておこう。師でもある富沢赤黄男の「一字空白」の技法を乗り越えるべく、高柳は「多行形式」の実験に取り組む。つまり、句の途中に「一文字分の空白」を挿し入れるのではなく、改行することにより、改行された句の下には、俳人の高原耕治が『絶巓のアポリア』(2013年)で分析するように「無限空白」を開くことになる。次のように改行せずに一行で著した場合との違いは明白である。

 

身をそらす虹の絶巓処刑台

 

従来の一行形式の俳句を読むとき、五・七・五の合計十七音の響きは予定調和的な「定型」として私たちの頭の中で響く。もし俳句に触れた経験がなくとも、私たちは日常に溢れる五・七音の音律の記憶を無意識に参照し、直近の未来、最初の五音に続くのは七音であると「先取り」するだろう。しかしこの句においては「身をそらす」「虹の」の後の改行により「無限空白」が挿入されることで未来の「先取り」は限りなく先送りされ、その残滓だけが頭の中の「響き」となる。前述の音楽の例と同じように。

 

6.五と七の音韻を越えて ~中澤系の響き~

 

ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ

 

続いて見るのは、中澤系の唯一の歌集『uta 0001.txt』(2004年)に収められた作品である。宮台真司が自身の鬱を患った時期を重ねあわせたこの歌は、初句、二句で五・七の音律に乗りながら同じフレーズを繰り返し、三周目に入ったところで結句の「ぼくたちはこわ」を最後に、断絶がやってくる。ループミュージックのように繰り返される五・七音は突然断絶されるが、潜在的にはその後の無限空白に繰り返し響く。このことこそが逆に、断絶を絶対的なものたらしめている。無限空白に浮かぶ半透明の「れてしまった」に続く無限反復は、来るはずが来なかった訪問者であり、亡霊のように着いて回る。この亡霊/ゴーストこそ実際には鳴っていない「響き」にほかならない。

中澤系の歌集からもう一首みてみよう。

 

想定としての特異の点(点はひろがりのない存在である)

 

五・七音に沿い読み進めると、「想定と」「しての特異の」と続き、次の「点」の後、私たちの頭の中で潜在的に刻まれる音韻のリズムは、高柳が改行により断絶を呼び込んだように、括弧書きにより断絶される。この括弧に括られることで、「空白」ではなくいわば「半透明化」し五・七のリズムから断絶された後半は、前半と位相を異にする。「点はひろがりのない存在である」とは超越的な視点からの声であり、また前半最後の「点」に回収される説明文でもある。この歌集では一ページに三首が収録されているが、空白のページに縦書きで三本の線のように置かれたこれらの歌を、視点を90度、書物の上方、つまり先頭の「想」の遥か上方に変えて、紙の上から離れ立体的に俯瞰するとき、目に映るのは文字通り厚みのない直線上に刻印された「点」であるだろう。

整理しよう。私たちは、「空白にはどのような響きが宿るのか」という疑問に対し、高柳の句や中澤の歌が、音楽の例をなぞらえるが如く、紙の上の「空白」に「響き」を宿す様を見てきた。それらを一文字ずつ読むとき、鑑賞者の中に俳句や短歌が持つ五・七音のリズム感覚が前もって備わっているために、そこから外れると「突然の断絶」を感じるためである。そのとき、本来あった筈の、鑑賞者が予期し「先取り」していた直近の未来の音が、「ゴーストノート」のように鑑賞者の「頭の中」で「響く」わけだ。

ここで一つの疑問が生じる。鑑賞者が俳句や短歌を「一文字ずつ」読むというが、それは本当だろうか。実際には「一文字ずつ」読む前に、当該ページを開いた時点で、その「全体像」が目に入ってしまうのではないだろうか。

 

7.かたちとしての認識 〜ページを繰った瞬間の一瞥〜

高柳の俳句や中澤の短歌を、紙の上の活字として鑑賞する際のプロセスを考えてみよう。

(0)ページを繰り、該当ページを開く
(1)まず一瞥により、全体像を直観的に把握「してしまう」(かたちの把握)
(2)対象の句/歌を頭から一文字ずつ読み、意味内容を鑑賞する(意味内容の鑑賞)
(3)やがて改行や断絶がやって来て、「響き」が産まれる(空白の鑑賞)

肝要なのは、断絶を含めた句/歌の全体像は予め該当のページをめくった時点で見えてしまっている点である。然るに一度きりの、純粋な初見の経験は不可能に見える。

これは、メディアに起因する問題である。書物というメディアの、紙の上に印刷された文字で作品を鑑賞する前提では、一ページに印刷されるおおよその文字数は予め決定されている。この制約により、俳句や短歌などの一ページに収まるものについては特に、一文字単位で読む以前に全体像がかたちとして認識されることになる。そしてまた自明なのは、広義の視覚詩という試みは逆に、書物というメディアでこそ成立するものである点だ。私たちは紙の上でまずかたちを認識し、次いで一文字ずつ「黙読」をする。

 

8.空白は頭の中で響く 〜近代詩と近代小節の黙読性〜

「空白」がもたらす、頭の中の響きを考えることは、「黙読」することを前提としている。本論は高柳や中澤の作品を「黙読」する際の現象をトレースしてきたが、時代を遡ると、人々の前で披露することが前提の和歌、複数人で句をつなぐ連歌や連句において、詩歌は声に出され、詠まれるものであった。「日本近代詩の父」と呼ばれる荻原朔太郎も、詩集『氷島』(1934年)の自序においてすべての詩篇は「朗吟」であり、読者は「声に出して読むべき」であって「黙読すべきでない」と述べている。

一方、経済学者で歌人でもある大熊信行はその著書『芸術経済学』(1974年)の中で、「近代小説」は「黙読するために書かれた特殊な文章」であり、音読には向いておらず「詩歌と対立する散文芸術の本領は、この黙読性にあった」と述べている。つまり、荻原の思いも空しく、近代小説の受容と共に、近代詩についても「印刷された文字」の「黙読」が前提となるのだ。日本近代文学研究者の坪井秀人が『声の祝祭』(1997年)で分析するように、前述の北園克衛などによる視覚詩の試みは、「活字印刷の複製技術と黙読性を外しては成り立たない」のである。

視覚詩や、本論で見た高柳の句や中澤の歌を「音読」することで生じる可能性については本論で触れる余裕はない。しかしながら「音読」について考えるとき、その起源に遡ると口承文学や旧約聖書などにおける口伝の物語に辿り着く。

さらなる議論のため、この「聖書」や「口伝の物語」をキーワードとする、一本の映画を参照したい。『ザ・ウォーカー』(2010年)はデンゼル・ワシントンが扮する旅人イーライが、「本を西へ運べ」との声に従い、荒廃したアメリカを30年間も西へ旅し続ける物語である。この本とは「聖書」であり、実は盲目のイーライは「点字」で書かれた聖書を西の世界の果てへ届けようとしている。終盤で悪の勢力にこの「聖書」は奪われるが、彼らは「点字」を解さないため読むことができない。書物は奪われるものの全ての内容を暗記していたイーライは、やがて西の世界の果ての街に辿り着き、そこで待ち受けていた人々に内容を「口伝」することになる。「点字」の「聖書」を巡る物語。

 

9. 触覚に「響き」は宿るか 〜結びにかえて〜

『ザ・ウォーカー』を参照することで最後に見ておきたいのは、「点字」の響きについてである。

本論で見てきた「響き」は、音楽における突然の「沈黙」や詩歌における突然の「空白」に生じるものであった。これに「点字」の概念を加え整理すると以下のようになろう。

「響き」が生じるのは次の事象に遭遇したときである
①聴覚における突然の沈黙=①’反復音楽におけるヌキ
②視覚における突然の空白=②’多行俳句における改行
③触覚における突然の平面=③’「  」

③で「響き」が生じうるか考察するために、③’の「  」に「多行俳句における改行」を代入し、点字で読む手続きを検討しよう。ページを繰った時点で最初に視覚が果たす、俳句の全体像を「かたち」として一度に認識「してしまう」事態は、触覚においては起こらない。紙の上の点字の位置である程度予測可能とはいえ、寧ろ始めに「かたち」の認識がないことで、一度きりの、より純粋な初見の経験が可能と言えよう。そして点字を一文字ずつ追いかけ、改行により突然の断絶に出会う過程は、②の視覚の場合と同様であろう。①〜③の何れにしても、聴覚/視覚/触覚で対峙した出来事をもとに、頭の中で音/文字/点字の突起が「ないこと」を認識するからである。つまり、点字で読む「空白=平面」にも「響き」は宿るわけである。

そもそも、点字を読む触覚とは、視覚や聴覚と比較してどのような位置付けをされているのだろうか。ミシェル・セールはその著書『五感』(1985年)の中で、五感の感覚器官はもともと「皮膚が特殊な形に変化したもの」であり、その皮膚を「共通感覚」と呼んだうえで「諸感覚の背景をなす布地」であると述べている。触覚は五感の中でも特権的な地位を有しているのだ。

晩年失明したボルヘスは、決して点字を学ぶことはなかったという。自らも俳句を詠んでいた彼が、もし点字での読みにも「平面の響き」が宿ることを知っていたなら、あるいは触覚の世界に身を委ねていたのではなかろうか。

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