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「逆」空耳アワーたる現象 〜桑田佳祐からセカオワに至る「誤読」の系譜〜

1. 「黒さ」に耽溺した「黒歴史」

高校一年生の自由発表課題。当時、パブリックエネミーやアイスキューブ、パリスといった政治的メッセージを伴ったヒップホップに心酔していた筆者は、1950~60年代のアメリカ黒人公民権運動を課題に選ぶ。そして発表の締めくくりには、持参したラジカセでパブリックエネミーの『Can’t Truss It』(1991年)のインストを再生し、暗記したラップを自信満々に披露した。チャックDの発音とフローを的確に模写できたものと信じて疑わなかった。そのときの教師や同級生の反応が幾分よそよそしかったのも、所詮彼らには理解できないからだと決めてかかっていた。

これは所謂「黒歴史」なのだろうか。次の年カセットMTRを手に入れて同曲を録音し、初めて自分がラップする声と英語の発音を聞いたときの衝撃を、いまもよく覚えている。客観的な視座を持たない16歳は、頭蓋の反響を通して聞く自らの声を、あきらかに「聞きちがえ」ていた。

だが、その「聞きちがい」があったからこそ遭遇した問題意識が、本稿をしたためる契機となっている。

 

2. 桑田佳祐が持ち込んだ「逆」空耳アワー

戦後の日本は、食生活、ファッションから音楽、映画、ディズニーランドなどに至るまで生活様式や娯楽の多くをアメリカから輸入してきた。日本語のポップス/ロックの歴史は、欧米産の英語で歌われるそれを絶対的な参照項とした、言語との戦いであった。本論は「聞きちがい/誤読」を鍵概念として、この戦いの系譜を辿るものである。この「聞きちがい/誤読」はふたつの意を含んでいる。第一に、音楽を始めとした表現において、参照する先行作品との距離を見誤る場合に起こる、表現者による「聞きちがい/誤読」。そして第二に、「空耳アワー」に象徴されるような、聴衆による英語と日本語の文字通りの「聞きちがい/誤読」である。前者の「誤読」の堆積や、それを回避しようとする試みこそが、個々の表現者、シーン、ひいてはジャンルの発展の原動力となるのだ。

起源となる問いはこうだ。果たして、日本語でロックができるのか。この問いは当時、所謂「日本語ロック論争」と呼ばれる議論となるが、はっぴいえんどを筆頭とし、1970年前後に日本語ロックは確立される。その後70年代終わりに、日本語を能動的に、英語に「聞きちがい」させようと試みたのが桑田佳祐その人である。

日本語と英語の違いを考える。その発音の根拠となるのは、子音と母音、そしてアクセントである。日本語はほとんどの音節が子音+母音の組み合わせとなる「開音節」の言語である。他方英語は、子音が単独で「無声音」として発音され、また「あいまい母音」と呼ばれるしっかり発音されない母音を持つ「閉音節」の言語であり、加えて強弱のアクセントを持つ。この違いこそが日本語の平坦な感覚、翻って英語のスピード感、リズム感の根拠となっている。つまり、日本語において全ての音節に付きまとう母音を意識的に排除することで、一音節一文字の原則から脱却を図ることは可能だ。10個の音符に15文字の歌詞を詰め込む感覚。かつ余分に詰め込まれた5文字はその他の10文字を修飾する子音の軽い響きであること。英語/日本語詞の差異は、たとえば『Let It Go~ありのままで~』のサビの音符数、文字数と意味内容の差を見れば明らかである。

桑田はその活動のごく初期の70年代後半から両者の差異に極めて意識的に向き合ってきた。例えば、「I might not」と「曖昧な」等の類似フレーズや、語句の頭の子音を合わせることで頭韻を踏むなど、かなり意図的に日英詞を混合して取り扱う術を模索している。そもそも日本語詞において「韻」は取りこぼされる傾向にあるが、アランがその芸術論で述べているように、私たちは、詩のなかに音楽が生きる証である、同じ母音による「韻」を無意識に期待しているのだ。一例として『漫画ドリーム』(1990年)を聞くと、時事ニュースの風刺然とした日本語詞を、あいまい母音や英語の子音の発音を多用することで英語に「聞きちがい」させる手つきで、多くの音節をリズミカルに詰め込むことに成功している。

 

3. ポスト桑田世代の本格派たち

この能動的な「聞きちがい」により日本語詞は独自の進化を遂げてきたといえる。この流れは桑田以降、どのような変遷を辿ったのだろうか。海外からの帰国子女としてネイティブの発音を手に入れたポスト桑田世代のアーティストたちの存在がある。宇多田ヒカル、LOVE PSYCHEDELICOやBUDDHA BRAND(特にNIPPS)などである。彼らの特徴は、桑田が日本語の発音を意図的に操作して英語に「誤読」させようとしたのに対して、単純にネイティブ発音の英語と日本語を並置した点にある。発音を崩し両者の境界を曖昧にするのではなく、むしろ単語レベルの並置による両者の細かな往復により、聴衆は今どちらの言語で歌われているのかさえ見失いかねない。

彼らはネイティブの発音を手に入れたことで、もはや日本語を英語らしい発音で「誤読」させる必要がない。日本語、英語、それぞれ本来の発音で使い分ければ良いのだ。柄谷行人は『文字論』の中で、日本語の特性として、ある単語が「片仮名で表記されるとき、外来的なものの外来性が保存される」点を挙げている。ネイティブな発音を手に入れた彼らは、「外来性が保存」された「フレンド」と「外来のまま」の「Friend」を使い分ける。言葉を乗せるリズムや韻を踏む語に応じて、日英の境界を自由に行き来するのだ。

 

4. 英語/日本語の境界を無化する才能

更に次の世代においては二つの潮流が観測できる。第一に前述の流れを引き継いだONE OK ROCKやKOJOEなど。彼らはネイティブ並みの英語を武器にしているが、前述の宇多田らと異なるのは、意外にも彼らが所謂帰国子女ではないことだ。KOJOEは17歳でニューヨークに渡ったがネイティブ並みの発音を手に入れるにはかなり厳しい年齢であるし、ONE OK ROCKのボーカルのTakaに到っては留学経験もなく、英語力は日本で英会話教室に通って培ったものだ。それでも彼らがネイティブ並みの発音を獲得できたのは、「聞きちがい」を前提とした英語訛りの日本語詞が、彼らの世代に蓄積されている点が挙げられよう。

そして第二にLOW HIGH WHO?レーベル所属のJinmenusagiやKuroyagiの試み(例えば2012年の共作曲『Rotten Soy』)に言及しておきたい。前述の桑田や多くの日本語ラップの試みは、日本語に積極的に英語を挿入しその境界を取り払おうとするものだが、彼らは英単語を原則使わずに純粋に日本語(片仮名含む)だけの歌詞を前提とし、あいまい母音や英語的な子音を導入することで日本語の発音を脱臼する。ドゥルーズ=ガタリは『カフカ マイナー文学のために』の中で、自分の言語の中においての他言語的な使用や「マイナーな使用」について言及しているが、これはまさに日本語を使って日本語からはみ出すものを追う、換言すれば日本語を脱領土化しようとする彼らの態度と共鳴する。

括弧でくくられた「マイナーラップ」の探求は、英語/日本語の境界を根幹から覆し得る。私たちが欧米産ラップの意味内容を捨象し、その音声面のみを聴くことが成立するのは、それらが高度に音楽的なリズム/音韻から構成されるからである。彼らはそれらと同様の水準の、しかし日本語のみで構築されたフローを、日本語の意味内容を関知しない世界に届けられる可能性を秘めている。つまり彼らは先行作品を参照しながらも、そこからあえて距離を取る戦略により「誤読」を回避している。一方でここには歌詞の持つ意味内容を届けるという概念は最早存在しないが、それとは逆に、日本の内外に物語を纏った意味内容を届けようと試みているのが、SEKAI NO OWARIである。

 

5. セカオワが手引きする「世界の終わらせかた」

SEKAI NO OWARIは、EDMプロデューサーのニッキー・ロメロと組んだ『Dragon Night』(2014年)、映画版『進撃の巨人』の主題歌である『ANTI-HERO』(2015年)で全編英語詞に挑戦している。彼らがディズニーランドの手法を高く評価しているのを見ても分かるように、独特のファンタジーの世界観を中心に据えたイメージ展開は極めて戦略的なものである。では全編英語詞の楽曲に託した戦略とは何なのか。

ボーカルのFukaseは「オーディエンスへサプライズを提供したい」と述べているが、May J.との英語インタビューの中で「日本の音楽が世界に通用することを証明したい」とも語るその身ぶりは、些か無防備なものに映らないだろうか。英語詞の戦略的な導入においては、高いクオリティの担保が前提となる。冒頭で触れたように高校一年生の自意識は、高クオリティの英語ラップを披露したと自らを「誤読」したわけだが、多くのファンを獲得している彼らがあえてネイティブ発音無くして全編英語詞採用に踏み切るには、ある意味で自意識を、この距離感を麻痺させる「仕掛け」が要請されることとなる。

自身の音楽の多様性を獲得するため、彼らは、様々な楽器を、様々な衣装を、様々な舞台装置を導入し自らをファンタジックに彩る。その「仕掛け」の一つに「Auto-Tune」がある。本来はボーカルのピッチのずれを補正するソフトだが、音程の強制操作によりロボットの発声のようなエフェクトが得られる。彼らはこれを多用しており、前述の『Dragon Night』のサビでもその効果を確認できる。「Auto-Tune」を通した声はロボットボイスに加工され、日本語/英語的な発音の違いは無化される。これはつまり、DJ LOVEの衣装が象徴するような「マスク/着ぐるみ」を纏っていることに他ならない。勿論、参照元はディズニーランドである。それらを纏っている間は、日本と世界を分かつ境界はファンタジーの世界に回収される。福島亮大が『復興文化論』で指摘したように、「自然否定」の思想を持つウォルトディズニーの視線のもと、日本人としての言語感覚、身体感覚といった「自然的条件」は削除される。アメリカ産のファンタジックな世界にこそ、まさにアメリカ的なものに捉われ続ける彼らの、そして私たちの条件を変容させる鍵が内包されていたのだ。

最新作の『ANTI-HERO』ではヒップホッププロデューサーのダン・ジ・オートメーターを迎えたばかりか、そのビートとサビはエミネムの2ndアルバムを想起させる。しかしながら「Auto-Tune」の効果は聞こえてこない。だとすれば『Dragon Night』と同様に全編英語詞の同曲において、彼らは日英の差異を無化する「マスク/着ぐるみ」の役割をどこに求めたのか。全編英語詞のボーカル録音は、スパルタ指導で有名なエンジニアの発音指導により、800テイクも録音したという。つまり800ものテイクを重ねることで、頭蓋の反響を通して聞く自らの声と、録音物との間の距離の「誤読」を人力で埋めようと試みたのだ。

1970年にはっぴい『えんど』が、ロックがアメリカ/英語圏のものであるという戦後日本の前提を終わらせ、それから35年後のいま、SEKAI NO 『OWARI』は、アメリカを過剰に参照することで羨望と萎縮の狭間に生きる日本人的感覚の世界を終わらせようとしている。マスク/着ぐるみやロボットボイスで自意識を匿名化/脱領土化する私たちは、アメリカ的なものへの憧れとコンプレックスの混合物を無化できる。一方で、無防備に参照項との距離を「誤読」する表現者の自意識と、それをさらに加速させる装置は音楽以外の分野でも散見される。それらへの警鐘の意も込めて、本論で辿ったような、ジャンル固有の歴史的文脈への目配せを忘れてはならない。

世界のどこへ行こうとも、時代がどれだけ移ろうとも、表現の、もっといえば文化形成の前提となる「誤読」から逃れることはできない。しかし、いま私たちは、自らの居場所が世界と地続きだと無邪気に「誤読」できてしまう、危うくも様々な可能性を孕んだ時代の只中に生きている。

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