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構造は、あなたを何度裏切るか?

いま、批評と呼ばれ得る営み/試みは何処にあるのか。この問いを無効化する強力な批評の書き手を育成すべく、批評家の佐々木敦と、同じく批評家の東浩紀が代表を務めるゲンロンの共催による「批評再生塾」が2015年6月よりスタートした。塾生の吉田雅史は、映画/映像の営みを巡って次のような問いを掲げ、論考を記している。まずはその冒頭部を引用する。

いま、映画と呼ばれ得る営み/試みは何処にあるのか。ギー・ドゥボールは1952年の自身の第一作の上映にあたり、舞台上で「映画は死んだ」と述べているが、少なくとも、現時点で映画と呼ばれる営みが死んでいるようには見えない。映画館で上映する映画という狭義の意味においても、今のところ生きている。では、現在進行形の「映画と呼ばれ得る」「営み/試み」とは何を指すのか。

 

吉田は「映画と呼ばれ得る営み/試み」について様々な観点から検討するが、その過程で「映画と呼ばれ得る営み/試み」を成立たらしめているのは「誰か」という根源的な問いが浮かび上がる。映画や映像作品は一体「誰のもの」か。この問いに答えるため吉田は、従来の映画ではなく「ミュージックビデオ」を巡る考察に漂着する。なぜなら、「ミュージックビデオ」においては音楽作家/アーティストがその所有者候補として存在する点が特異であり、前述の問いを考察する上で新しい視座を提出しているからである。以下、少し長いが引用する。

「ミュー ジックビデオ」は誰のものか。これは、映像の著作権が誰に付与されるのかといったアクチュアルな問いではなく、直観的かつ原理的な問いである。私たちはこれらの映像を視聴するとき、意識的/無意識的にそれが一体誰のものであると認識しているのか。誰がその映像の「支配者」なのか。まず第一に、ミュージック「ビデオ」の作家。映画における映画作家のプレゼンスと同様、映像作家を映像作品の所有者と見做すのは極めて自然なことだろう。第二に、音楽作家/アーティストである。「ミュージック」ビデオにおいて、その中心に据えられるのはあくまでも音楽である。ミュージックビデオはプロモーションビデオとも呼ばれるように、音楽作品の宣伝がその第一義的な存在理由なのであるから、その所有権は音楽アーティスト自身に帰属するものと理解可能だ。

具体的な作品を取り上げて、映像作家と音楽作家がどのような関係を切り結んでいるか見てみよう。参照するのはUNKLEの『Rabbit In Your Headlights』(監督:ジョナサン・グレイザー/1998年)である。

ひとりの男が、トンネルの中を黙々と歩いている。その姿勢は『ザ・ウォーカー』(2010年)のデンゼル・ワシントンのように、あくまでもひたむきで、何かに取り憑かれているようだ。彼はぶつぶつと何やらつぶやいているが、その内容は計り知れない。明らかに精神に異常をきたしている者のふるまいだ。トンネル内は二車線で車が行き来している。やがて、突然、後方から走ってくる一台の車のミラーが彼に激突し、彼は地面に倒れる。ヒッチコックは自身の映画作りにおいて「サプライズ」よりも「サスペンス」を重視したが、これは突然の「サプライズ」の経験として描かれている。男は何事も無かったように立ち上がりまた歩き続けるが、そのことによって彼の異常さは一層際立ち、観衆は、いつまた悲劇が襲い来るやも知れぬ状況を前に持続する緊張感、つまり「サスペンス」の感覚に捕われる。それと同時に、また車にひかれても彼は「不死」であり何も起こらない可能性が仄めかされている。つまり観衆は「緊張」と「弛緩」の混在した状況下に置かれることとなる。

男は中盤以降、次々と車にひかれることになる。立ち上がってはひかれ、また立ち上がっては別の車に撥ねられる。終わりのない反復。ジョルジュ・アガンベンは反復とは何か考察するにあたり、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガー、そしてドゥルーズという四人の反復の哲学者の系譜を紐解いている。彼ら四人に共通する主張として「反復とは同一的なものの回帰ではない」ことを挙げ、「これこれのものを反復する」とは「それを新たに可能なものにする」ことであり、その意味で「反復」と「記憶」は似ているという。なぜなら「かつてあったものをかつてあったままに」私たちに取り戻すことはできないからである。アガンベンは、もしそのようなことができた場合、それは「地獄」であるとまで言っている。

何の躊躇もなく彼をひくドライバーたち。相当に異様な状況である。彼はつい数秒前に自分が車に撥ねられた「記憶」を失っているように見える。彼が置かれている場所は、数秒前の自身の出来事をそのままの形で取り戻し、反復し続ける「地獄」ではないのだろうか。始めは彼を避けたり、彼に視線を向けていたドライバーたちも、やがて彼のことを路上に転がるゴミか何かのように扱うようになる。中盤で一台の車が彼と並走し、そのドライバーが「どこへ行くのか」と質問を投げる。その車に乗車する三人のうち二人は、UNKLEのメンバーであるが、男は一切耳を貸さない。やがて男は自ら上半身裸になり、突然何かの啓示を受けたかのように立ち止まり微笑を浮かべる。「終わりのない反復」は「停止」され、十字架のポーズを取る男と車の力関係は逆転する。「車は男に撥ねられ」物語は終わる。

この映像は確かに『Rabbit In Your Headlights』の「プロモーション」ビデオであり、その意味では音楽アーティストであるUNKLEを全面にフィーチャーするのが本来の在り方だ。しかしここでは全編に渡りトンネルを歩く男に焦点が当たり、さらに彼の物語に付随する音声が、楽曲のそれよりも前景化している。楽曲はもはや限りなく後方に遠ざかり、これがUNKLEのプロモーションビデオであることは忘却の淵に沈む。そのことに警鐘を鳴らすように終盤でUNKLE自身が登場するが、彼らの意向空しく、この映像の帰属先は明らかに映像内の物語を駆動する男であり、結果的にはその背後に存在する「映像作家」であることが逆に強調されてしまっている。

それにしても、彼はどこから来たのか。そしてどこへ向かっているのか。鍵となるのは、彼のつぶやきだ。彼はなにやら意味不明な言葉をつぶやいているが、辛うじて「アラー」の名や、三世紀の伝説的なキリスト教の聖人である「クリストフォロス(Saint Cristopher)」の名が聞き取れる。ジャン=リュック・ナンシーはその著書『神的な様々の場』の中で、「Saint」は文字通り「どうしようもないくらい聖なる語」であり、「神を名指す言葉は常に、神からその栄光の何らかの外観(仮象)を借りようとしている」と述べている。動画の最後で男が取る十字架に擬えたポーズは、彼が「神の仮象」を借り受けていることを意味しているのであろうか。彼は路上のゴミから、崇高な神の仮象に擬態して、人間には理解不可能な「神の言語」をつぶやいているのであろうか。

「神の言語」とは何か。そのような問いを前に、自己を見失った男たちがいた。もし人間が生まれたときから、他の人間に接することがなく、「人間の言語」を覚える環境を与えられなかった場合、彼は「神の言語」を話し始めるのではないか。生まれたばかりの赤ん坊を、他の人間から隔離し、暗い部屋で、食べ物だけ与えて育てるといった、極めて悪趣味な人体実験。エジプト王のプサンメティコスや神聖ローマ皇帝のフリードリヒ二世など、人類の歴史上、複数回に渡ってこのような実験が行われていたことが記録されている。

ポール・オースターの小説『ガラスの街』は、このような妄想に取り憑かれた男と、その息子であり、人体実験の犠牲者となったピーター・スティルマンを巡る物語である。ピーターが二歳のとき、父親の狂った実験が開始され、彼は九年間アパートの一室で暗闇の中で過ごす。やがて彼は独自の言語を編み出し、自分自身と対話を始める。アパートの火事をきっかけに彼は「外の世界」へ救出され、人間の言語を取り戻すが、「神の言語」が彼の中から失われることはない。小説中、主人公のクィンとピーターの対話において、ピーターの口から「神の言語」の一部と思われる「クラック、クラック、ビドラック」「ウィンブル、クリック」等のフレーズが滑り出す。これは、『Rabbit In Your Headlights』の男がつぶやく音節と酷似している。であるならば、このトンネルは、ピーター・スティルマンの世界と接続されているのではないか。もっと言ってしまえば、この男は小説から数年後のピーター・スティルマンその人自身なのではなかろうか。

以上の議論が示唆しているのは、このような転

(ここまででテクストは中断されている)

 

以上をもって原稿は中途で放棄され、周知のように吉田は失踪した。彼は「神の言語とはなにか」を問うあまり、己を見失ってしまったのだろうか。あまり個人的な感情を吐露するのも如何なものかと思うが、筆者は少なくとも、残されたふたりの幼い彼の子供たちをいまだ直視できず、彼に対して怒りと哀しみの入り交じった複雑な感情を抱いている。しかし、いま彼の動機を突き詰めても何ら解決には結び付かない。その試みについては別の機会に譲りたい。本稿の目的は、彼の意志を受け継ぐ形で、再度「ミュージックビデオは誰のものか」についての考察を駆動させることである。

ここで筆者が新たに参照するミュージックビデオは、先ほどの『Rabbit In Your Headlights』と同じ年に発表された、God Lives Underwaterによる『From Your Mouth』(監督:ロマン・コッポラ/1998年)である。

白いシャツを着た男のバストショット。男は口をモグモグさせ何かを食べているようだ。次の瞬間、吉田と同様ヒッチコックに例えるなら、「サプライズ」と同時に「クライマックス」が訪れる。この男の口元から、突然「つるつるの卵」が現れるのだ。何となく口の動きが不自然だと思っていたが、そういうことだったのだ。そう、この映像は「逆再生」されたものだったのだ。その後、男の口からは様々な食べ物が現れ、テーブルの上の食器に「戻されて」行く。終盤に差し掛かると徐々にカメラは引いて行き、男が淡々と食事をする部屋がある種の「セット」であることが判明する。そしてその「セット」の外側には、吉田が参照した『Rabbit In Your Headlights』と同様、God Lives Underwaterのふたりのメンバーがカメラを見つめながら佇んでいる。彼らは、男が一人演じていた「食の物語」の外部の視点の存在を強調するように、斜に構えた視線をこちらに側に向ける。

このビデオで括目に値するのは時間の進行方向である。ここで採用されている「逆再生」と、『メメント』(2000年)や『ハングオーバー!』(2009年)のような「複数の出来事」を「現在から過去方向に」配置し直すことで時間を逆行させる映画の構造には、根本的な隔たりがあるように思われる。だが、本当にそうか。「複数の出来事」を24分の1秒にまで細切れにし、逆さに並べてみたら。個々の出来事の長さを「極小」にし「逆向きに」布置することを、私たちは「逆再生」と呼んでいるだけではないか。「時間の逆再生」とは、あくまでも映像再生装置を通してしか疑似体験のできないものである。この映像装置を媒介とした時間を自在に操れる点において、映像作家が特権的な立場にいることは疑いようもない。

一方で、音楽とは一定の長さの時間と並走する音の連なりであり、フッサールの内的時間意識の根拠となる「メロディー」を産み出すのはまさに音楽作家なのであるから、彼らに時間の支配権が付与されるという見方もあろう。しかし『Rabbit In Your Headlights』でトンネルを彷徨う男と比較し、『From Your Mouth』で口から食べ物を産み出す男は始めから「メタ」の容器に入れられることで、自ら物語を進行する権利を予め剥奪されているのだ。この容器の絶対的な効果を知悉した、時間のマニュピレーターたる映像作家こそが、時間軸をメタ構造の支柱に据えた映像における「所有者=支配者」として君臨する。したがって、映像作家と音楽作家の

(ここまででテクストは中断されている)

 

読者のみなさま、楽しんでいただけましたでしょうか。批評家の佐々木敦です。などと書くと、狐につままれたように感じられるでしょうか。吉田の意志を引き継いだ上述の論考の筆者も、どうやら逆流する時間の波に呑まれてしまい、議論半ばで失踪してしまったようです。本稿は、『あなたは今、この文章を読んでいる。』で論じたメタ/パラフィクション論の有効性を測るため、批評再生塾をメタ構造の生成装置に据えて記した、メタ批評テクストの衣を纏っています。「虚構内存在」=「信頼ならざる語り手」である私と複数の作者(「作者0、1、X」)の関係性の中で、誤謬を孕みながらも無事収束に向かいつつある本稿の執筆中に改めて確認できたのは、読者が、互いに絡まり合うメタ構造を有する文章を読むうちに、「いま、どこにいるか」「どの立場で、何を読んでいるのか」といった読みの前提を揺さぶられる感覚を持つことです。換言すれば、あるときから読者、つまり「あなた」は宙吊りの姿勢を余儀なくされ、その緊張状態は入れ子となった物語の中で継続していたのです。いま、この瞬間にも。以上が示しているのは、メタ構造が読者にもたらすエフェクトの一つに、間違いなく、「サスペンス」の効果があることにほかなりません。そして、そ

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