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排便の出来事性 〜『THE COCKPIT』と『佐村河内守事件』から考える〜

1. 問題提起 〜「映画的なもの」=「排便を出来事にするもの」〜

映画において、排便とは何を意味するだろうか。唐突な問いに聞こえるかもしれないが、ここでいう「排便」とは、「取るに足らない日常的な行為」の言い換えといってもよい。取るに足らない日常を、物語をまとった特別な「出来事」に見せるのが「映画」だとするならば、排便を「出来事」にするのが、「映画的なもの」である。つまり、排便のシーンが「特別な出来事」に見えているものを「映画的なもの」、そうでないものは「映画的でないもの」と分類できることになる。

いささか議論が乱暴すぎるだろうか。

かつて哲学者のジョルジュ・バタイユは「ロード・オーシュ」つまり「排便する神」のペンネームで小説『眼球譚』を執筆した。この私たちの「眼球たち」が客席の暗闇から、あるいはPCの前で息を潜めて、スクリーン上の俳優の排便行為を見つめるのだ。人の排便のタイミングはあくまで偶然であり、必然性はない。だが、「映画的なもの」に登場する数々の排便シーンは、「特別な出来事」であり、何かしらの必然性があるように思われる。なぜか。

 

2. 全ての排便には意味がある 〜考える私たちは排便する〜

映画鑑賞、分析の方法として、テマティスム映画批評と呼ばれるような態度が存在する。映画を分析しようとするとき、「あのシーンのあそこに写ってたあれには実はこのような意味があって」と細部に目を配る結果、「あらゆる映画のあらゆるカットに偶然映り込んでいる、あらゆるモノには意味がありうる」ことになる。それらの瑣末な細部に、結果として監督の主題=テーマの反映を見る分析も散見される。

映画における排便シーンの具体例をひとつ見てみよう。ジャン=リュック・ゴダール監督の『さらば、愛の言葉よ』(2014年)には、排便シーンが複数回描かれている。そのひとつにおいて行為者の男は、ロダンの『考える人』のイメージを引用しながら目の前で立ち尽くす女に語りかけ、同時に排便の「ブリビュビュビュ」というサウンドがスピーカーから僅かな時差を伴い左右別々に出力される。排便の孤独性と思考することの孤独性が重ね合わせられ、排便はこの上なく深淵な意味を伴う「出来事」として描かれている。

一方で、現代の私たちの生活においてコミュニケーションや記録的役割を担う動画がある。Facebookやtwitterに綴る日常の記録と同様、自身や家族の記録としての動画を撮影し、アプリで編集を施すのも容易である。それらの動画において「トイレに行くシーン」からは、何か特別な意味や必然性を読み取られることはない。放送主の部屋の固定カメラから中継されるニコ生動画でも同様である。ただし、フィルム映画とこのようなデジタル動画は、その用途も受容のされ方も全く異なり、単純に比較できるものではない。本論では冒頭に立てた問いに沿う形で、排便を「出来事」と描かない点において、これらの動画を「映画的でないもの」と分類する。

 

3. 『THE COCKPIT』 〜「映画的でないもの」で出来た「映画的なもの」〜

以上の議論を踏まえ、ここで対象的なふたつの「映画的なもの」を取り上げたい。まずひとつめは三宅唱監督の『THE COCKPIT』である。この作品は、ナレーションなし、テロップなし、作中で生まれるもの以外の音楽なしという点で観察映画とも呼べるが、「映画的でないもの」と分類できるコンテンツ群で構成されつつ、それでも「映画的なもの」であることに成功していると思われるからだ。どういうことか。

まず、この映画が「映画的でないもの」で構成されている根拠を見ていきたい。この作品は主演のラッパーでありトラックメイカーのOMSB(オムスビ)とbimが曲作りをするプロセスを記録したドキュメンタリー映画で、大きく分けてふたつの要素から構成されている。主演のふたりが曲作りをするプロセス、つまり大部分の観衆にとっての「非日常」の記録と、その端々に絡む「日常」の写し取りである。

前者の曲作りのプロセスは、確かに大多数の観衆にとっては「非日常」であろう。しかし当然ながらラッパーやトラックメイカーにとってこれらは「日常」であり、映画中のカットと非常に類似した曲作りプロセスを切り取った動画はYouTubeなどの動画投稿サイトに溢れている。これらは大抵「ハウツーもの」としての機能を備えていることから、「映画的なもの」には見えない。では他方、後者の「日常」の写し取りはどうか。OMSBの「ゆるキャラ」のような天真爛漫なパーソナリティも手伝い、彼らの家に遊びに行ってそのやり取りを眺めているような感覚は、天然キャラ系の人気ニコ生主の日常を覗く感覚に近い。これも前述した理由により「映画的なもの」との距離は遠い。

ではなぜ「映画的でないもの」で構成されるこの映画は、結果として「映画的なもの」に見えるのか。その理由については後で触れるとして、私たちはまず、冒頭からのテーマである「排便の出来事性」がこの作品内でどう描かれているかを観察する必要がある。

 

4. ヒップホップの「shit」論 〜クリエイターたちは排便する〜

『THE COCKPIT』において、残念ながら排便シーンは登場しない。いや、少なくとも、排便シーン「そのもの」は登場しないというべきか。

OMSBとbimが住んでいるヒップホップの世界には、お約束のスラングが多数存在する。「糞便」の英語訳にあたる「shit」は古北欧語の「skīta」を語源とし、間投詞で文字通り「クソッ!」と嘆きを表すほか、名詞形では「くだらないもの」を指すが、そこから意味を反転させ「素晴らしいもの」を表すのに使われる。「bad」「sick」「ill」、「ヤバい」「クソかっこいい」などと同じ原理である。

繰り返すが、この映画はOMSBとbimの曲作りのプロセスの記録である。事前に購入したであろうレコードの中からサンプリングする「ネタ」を探したり、いざ使えそうな「ネタ」を見つけたら、それをサンプラーの各パッドに配置して色々なパターンを叩き曲のパーツとなるループを作ったり、あるいはラップの歌詞を書いてレコーディングする。「ヤバい」サンプリングネタが見つかったとき、サンプラーで「ヤバい」フレーズが打ち込めたとき、「ヤバい」歌詞を思いついたとき、彼らは「おぉーshit!」「このshitはヤバいね」はたまたその高度な派生系となる「ちゃすshit」「モミshit」など、糞便を絡めた発話を連発する。

つまり、ここで描かれているラッパーやトラックメイカーの日常とは「shit」=「ヤバい作品」を産み出す行為、つまり排便行為そのものなのだ。

以上のように、この映画において創作活動が排便行為として描かれていることを踏まえつつ、先ほどの問いに立ち返ろう。問いはこうであった。「映画的でないもの」を接合したこの作品が「映画的なもの」に見えるとき、そこには一体どのような化学反応が生じているのか。この理由を考えるに際して参照するのは、「フェイクドキュメンタリー」である。これは『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(99年)などを代表とする、架空のドキュメンタリー作品を指す。

『THE COCKPIT』が「映画的でないもの」から構成されているにも関わらず「映画的なもの」に見える理由として、この作品が「ドキュメンタリーとフェイクドキュメンタリーの境界に立つもの」つまり「真と偽の境界に立つもの」であるという仮説を提示したい。

OMSBとbimは確かにビートを制作し、リリックを書き、それをレコーディングする。その一部始終が記録されているこのフィルムを、私たちは「ドキュメンタリー映画」と呼んでいる。しかし、全ては台本通りの、別人が制作したトラック、リリックをなぞっているだけだとしたら。OMSBの天真爛漫さも全てが演技であり、コックピットを表象する舞台となるアパートの部屋も撮影用のセットだとしたら。コックピットに座るOMSBを正面から捉えるカメラの視点を後方に引いて行くと、それまでのフレームの外側には撮影スタジオの壁が現れるかもしれないのだ。

 

5. 佐村河内守は聞いていた 〜自身の人生を映画に見立てた男〜

このようなある種の露悪的な想像力が参照するのは、ふたつめの「映画的なもの」である『佐村河内守事件』である。アメリカの『TIME』誌で、「現代のベートーヴェン」とまでうたわれた悲劇の天才音楽家が、その存在を屹立させる礎としていた「耳が聞こえない」事実は全くの虚偽であり、自身が作曲し喝采を浴びた『交響曲第一番』を始めとする楽曲群もゴーストライターの手によるものだった。

この事実が判明する前に『NHKスペシャル〜音を失った作曲家〜佐村河内守』と題したドキュメンタリー番組が放送された。このドキュメンタリーには物語が溢れている。佐村河内は止まない耳鳴りと頭痛に苦しみ、ときにトイレに行くことさえ出来ずにオムツを着用する。ここでは排便は、この上ない程の物語をまとった「出来事」として描かれる。佐村河内は自身の人生を映画にしたかった。映画の主人公のように生きたかった。その強い欲望は、皮肉にもある意味で「自ら演出した『偽の』フェイクドキュメンタリー番組」とでもいうべきものに結実することとなる。そして、その自身が生み出した豊潤な虚構の物語に、内側から食い破られることになる。

ただし、そう思えるのは今や私たちが全ては偽りであったという事実を認識し、その「前提」を共有しているからに他ならない。その「真の」あるいは「偽の」という「前提」は、『佐村河内守事件』が示しているように、容易に反転しうるものではないか。フェイクドキュメンタリーの隆盛を通過してきた私たちは、そのような「偽の」「前提」に対する免疫を持ち、結果的に眼前の「映画的なもの」が「偽である可能性」に曝され続ける事態に陥っている。

 

6. 結論 〜ふたつの「新しさ」が導くふたつの「世界」の交点〜

これまで見て来たように『THE COCKPIT』『佐村河内守事件』の双方において、排便はそれぞれの形で「出来事」として描かれていた。様々な映像に取り囲まれている社会に生きる私たちは自身の人生に意味を与えたいと願い、自身の日常の「単なる記録」を「特別な出来事」、つまり「映画的なもの」に昇華したいと無意識のうちに欲望してはいないだろうか。『THE COCKPIT』が示すように、これら大量の「映画的でない」カットたちは、その組み合わせ次第で「映画的なもの」を生み出す契機を孕んでいる。同時に「偽である可能性」の失効、つまり「偽であると確定すること」の恐ろしさを私たちは『佐村河内守事件』を通して目撃した。

『THE COCKPIT』は、「映画的でないもの」を繋ぎ合わせ「映画的なもの」を構築したところに、「新しさ」がある。そして、これは「映画(史)」の外側から内側への越境により、その「内側で誕生した」ものである。一方、『佐村河内守事件』は、物語性の極北を志向し、その意味で極めて「映画的なもの」でありながら、「映画(史)」の「外側で誕生した」点で、『THE COCKPIT』とはまた別種の「新しさ」を示している。

これらの「新しさ」が、私たち自身の日常を「映画的なもの」として切り取ることのできる契機を更新している。その私たちの日常は、映画の「外側の世界」(=私たちの世界)と、佐村河内が演じたようなフェイク映画の「内側の世界」の「交点」に成り立っている。ふたつの視点が折り重なることで加速する、「世界の映画化」を眺めるとき、私たちは、もはや客席の暗闇の中にはいない。

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