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速度喪失、残響創出

目を閉じる。聴覚だけで、この空間のおおよその見取り図は描ける。高さ数十メートル、幅も奥行きも数百メートルほどの巨大な空洞。あるいは地下都市。はるか遠くで車の走行音がこだまする。人々の行き交う足音が、比較的高い周波数で鼓膜を刺激する。彼女たちの会話はこの広大な空間に反響し、よく聞き取れない。音の粒子は砂嵐のように吹き荒び、この体を包囲する。

目を開ける。地下都市は雲散霧消した。聴覚からイメージしていた風景と、いまここに視えている風景の違いにおののき、自分の居場所をフォーカスできない。彼方から見慣れた列車が、ぼんやりとした視界に滑り込んで来る。ほんの数メートル前方を走り抜ける列車の走行音は、彼岸で鳴り響いているようだ。やがて、鋼鉄製の車輪が発する長く切実な残響音を残し、列車は走り去った。尻の下がなぜかひんやりとしていた。それは駅のホームのベンチの、硬い感触だった。

以上の記述は、白昼夢の類いではない。筆者が「hibiku」というiPhone用アプリを利用した際の体験談だ。「hibiku」は、電子音楽家のKatsuhiro Chibaが開発、2013年に発表し、国内有料アプリランキングの1位にも輝いたアプリである。これはその名の通り、現実の音に「響き」を加えるアプリである。どういうことか。イヤフォンを装着し、このアプリを起動する。イヤフォンに付属のマイクもしくはiPhoneのマイクを通して、現実の身の回りの環境音に「残響音」が付け加えられた音が、イヤフォンから戻ってくる。つまりこの深い残響音により、ユーザはまるで大きな教会や、洞窟にいるかのような感覚を体験することになる。

このアプリを使いながら目を開けていれば、当然目の前の光景を認識する視覚と聴覚の間にギャップが生まれることになる。だがこれは受け取り方一つで、自分が映画の中や、幻想の世界にいるような感覚、つまり自分の視点を「メタ化」する装置として捉えることができる。自分の存在をメタ化し、この現実世界に存在しながら、自分の世界に没入する。隣人の話し声はSEの一つとなり、何者もこの世界には入って来られない。公のスペースで勉強や読書に没入したいときには極めて実用的なアプリである。

さらに一歩踏み出して、「hibiku」をバックグラウンドで起動しながら、他のアプリと組み合わせることも可能だ。たとえばGoogle社が展開している、現実世界をゲームフィールドとして行う壮大な陣取りゲーム、「Ingress」と組み合わせてみよう。「Ingress」においては、現実世界と、スマホ上に表示されるGoogleマップをベースにしたゲーム画面がリンクするが、さらに「hibiku」の残響音を付加することで、もはや近未来SF映画/小説の世界に入り込んだとしか形容のできない体験ができる。

「hibiku」は、聴覚にある種のフィルターをかけることで「世界の知覚」を変容させるアプリだが、今後これにGoogleグラスのような視覚にフィルターをかけるデバイスを組み合わせることで、私たちは拡張現実と呼ばれる様々な変容された世界を味わうことができるようになるだろう。そして、そのとき私たちが選択できるようになる世界は、何も近未来SF的感性に従い未来方向へ変容させられたものだけでなく、過去方向にも姿を変えるだろう。たとえば、ノスタルジックな古き良き昭和の姿に。

「hibiku」と「Ingress」により視覚と聴覚を拡張して見る世界は、現実の世界に拡張現実の世界を重ね合わせた、「二重の世界」だ。これはアメリカを代表するSF作家のフィリップ・K・ディックの諸作から、現代のSF/ファンタジー作家であるチャイナミエヴィルの『都市と都市』に到るまで歴史を貫通するSF的主題の一つといえよう。そのディックより三歳年下の日本を代表するSF作家の小松左京は、批評家の東浩紀が編集した『小松左京セレクション』収録の『廃墟の空間文明』の中で、戦後日本の焼けあとを、何もない「廃墟」の空間とし、次のように記している。「私たちは、あの日の午後、突如『戦場』であることをやめた焦土とともに、歴史の流れの外へ『廃墟』の中へ、ほうり出されていたのである」と。昭和とは、このような敗戦の「廃墟」の記憶を少しでも遠ざけるための「速さ」を獲得しようとした時代ではなかったか。

しかし当然ながら「廃墟」の恐るべき記憶は、恐ろしいが故にそこから遠ざかろうとする人々の意識から半ば意図的に振り落とされる。そして加速し続ける時代の前向きな姿勢だけが人々の印象を支配し、時の経過と共に一層美化される。小松と並ぶ「SF御三家」の一人、筒井康隆は、彼らしいウィットに富んだ探偵小説ベースの掌編である「繁栄の昭和」において、そのタイトルが示すようにノスタルジックな昭和を舞台装置としている。作中では、「もう二度と取り返すことのできない昭和の繁栄」を「いつまでもとどめておこうとする意図」が「虚構の現実」や「幽霊のような現実」を作り出してしまう。主人公はそのことに気付くのだが、その「現実」から抜け出すことはできず、永遠に「幽霊のような現実」の中で生きることになる。

「もう二度と取り返すことのできない」ものを「いつまでもとどめようとする」ノスタルジー。今や「昭和」と聞いただけで、脊髄反射的に2005年公開の映画『ALWAYS 三丁目の夕日』のような世界へのベタなノスタルジーが立ち現れないだろうか。この映画で描かれているのは物語内では成功することのない経済的に困窮する人々だ。しかし、社会学者の大澤真幸によれば、彼らは「救済がやがてやって来ること」を知っており、私たちの憧れはそのような「当時の人々の視線」にあるという。つまり、「速さ」に「救済」を託して当時の人々は加速した。新幹線開通、国産ロケット打上げ、スーパーカーブーム、F1ブームなどが象徴する「昭和の速さ」が、宗教的に機能したのだ。

この「速さ」を信仰し傾斜する社会の姿勢は、年号が平成に変わっても継続する。その影響は様々なジャンルに立ち現れる。批評家の佐々木敦はその著書『日本の音楽』の中で、小室哲哉がJポップに与えた影響について振り返っている。小室の仕事のうち「trf」や「H Jungle with t」の成功が象徴するのは、日本におけるユーロビートやドラムンベースなどのBPM、つまり楽曲のテンポが高速なジャンルの受容である。人々は「救済」を求めて「速度」を増す音楽に身を任せる。これは抑圧的な社会背景を前提に1980年代から90年代に勃興したアメリカのデトロイトテクノや、イギリスのレイブの熱狂とも符号するだろう。

そのように猛スピードで戦後を駆け抜けた、廃墟の記憶から離れ続けたかつての日本を、いまや私たちは懐かしむことしかできない。フランスの哲学者、ウラジミール・ジャンケレヴィッチは、ノスタルジーを、甘いが後味の苦い飲み物に例えている。もともとノスタルジーの語源がギリシャ語の「帰還」と「苦痛」であることからもその両義性が伺えるが、ノスタルジーに浸り夢うつつになることは、同時に、二度と帰還できないという現実を前にした苦痛と表裏一体である。さらにその苦味には、過去を再生できない哀しみの他に、過去をなかったことにできないという悔恨の念の二面性があるという。つまり、いま、この世界は不可逆性と取り消せなさの上に成り立っている。

平成不況を経て、私たちはもはや「速さ」には価値を感じられなくなった。その揺り戻しは2000年以降、「スローライフ」や「ゆとり教育」などに現れる。速さを捨て、スローダウンの果てに、私たちの速度は限りなくゼロに近付くかもしれない。しかしジャンケレヴィッチのいうように、この世界は不可逆的で、過去は再生できない。「夢うつつ」で思い返すことはできても、決して取り戻すことはできない。しかし、この「夢うつつ」を補強することはできるかもしれない。現実世界にフィルターをかけただけの、偽物で満足することならできるかもしれない。

拡張された世界、敢えていうところの偽物の世界には、しかし、「いま、ここ」とは別の時間が流れうる。私たちは「速さ」から、とめどなく続く加速から自由になり、過去、現在、未来を時間軸上に沿って移動するだけでなく、複数の体感時間を生きるだろう。同じテンポの中を、ときには半分の、ときには倍の歩幅で歩き、ときには自分なりのグルーヴで走り抜ける。昨今のクラブミュージックシーンで次々に萌芽し日本でも受容の進む、たとえばダブステップ、ジューク/フットワーク、ゴルジェのようなジャンルにおいては、一曲の楽曲に対してリズムの取り方が複数存在する。リスナーの好みでノリ方を選択できるジャンルの隆盛は、自身のグルーヴで生きる私たちのあり方を先取りしていると思えてならない。

このような議論は、抽象的すぎて、空虚に「響く」だろうか。

もはや速度に捕われず廃墟の記憶から自由になった私たちが、自分なりのグルーヴで生きるというとき、そこで問題となるのは、何を信じて生きるかという問いに他ならない。今後、無数の拡張世界が目の前に立ち上がったとき、そのうちの一つに引き籠もることになるかもしれない。しかし、それが砂上の楼閣と分かっていても、考えるべきは、生きる理由となり得る選択肢を可能な限り多く獲得することではないか。テクノロジーの力を借りて、いくつの神に依拠するか。「速度」に「救済」を求めた「一神教」から「多神教」へ。電脳宗教は、従来の宗教的なものと比較すると、ときに害悪の最少化を図るハームリダクションとして機能するかもしれない。結果として、生の本質を、つまらないものに貶めるかもしれない。それでも、ある神からまた別の神へ渡り歩くうちに、3拍子のリズムと、4拍子のリズムが交差し響き合う、「多重の世界」に出くわすことがあるだろう。この交差点は、拡張世界から翻って、現実世界を肯定的に捉える契機を孕んでいる。

知覚を覆うデバイスと、アプリを駆使して偽物の世界を夢うつつで眺める。あらゆるコンテンツは限りなく多様化、サブジャンル化し、隣人と共有できる話題はもはやなく、タコツボ化、島宇宙化した世界は個人を限りなく孤立させる。それでも、私たちは生きていく。世界にフィルターをかけて、響きを加えて、生きていく。それが、「ポスト昭和」を生きる、屈強な想像力だ。

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