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漏出するリアル 〜KOHHのオントロジー〜【冒頭部分】

KOHHは新しい。間違いなく。平成生まれのこのラッパーは確実に昭和的な何かの切断面の向こう側に突如として現れた。しかし彼の特異性は、KOHHという一人のアーティストの個性に集約されてしまっているようにも見える。どのような経路を辿ってKOHHがKOHHという人間に、アーティストに成り得たのかが全てであり、そのルートがどれ程に特異な文脈を形作っていたとしても、KOHH以外の人間と私たちの世界には全く関係がないかのように。本当にそうだろうか。

同時に、KOHHを形作っているものは、やはりテン年代の現在から振り返って見る日本の音楽の、そして文学性を孕むその歌詞世界の彷徨の痕跡であるのだ。そのリリックは、彼が敬愛するブルーハーツからの影響があり、Twitterによるつぶやきの連鎖で構築されているようにも見える。その叫び声や泣き声を多様するヴォイスコントロールは、尾崎豊の絶唱のようでもあり、今にも泣き出しそうなペルソナを演じるケンドリック・ラマー等からの影響も伺える一方、不条理な世界を描写する初期の大槻ケンヂのようもある。そしてそれらを支えるビートは最新の徹底的に硬質なトラップ群と、それらとは対照的なブレイクビーツの温もりを感じる幾つかの小品たち。換言すれば、彼の特異な音楽は、昭和を引き継いだ諸要素と、アメリカからリアルタイムで輸入される最新モードのアマルガム、ハイブリッドなキメラなのだ。

昭和からの延伸と、誰が聞いても明らかな新しさ、つまり昭和との切断の、双方に渡された綱の上を天性のバランスでホップするKOHHは、自身の地元/フッド/自室に至高を見出す近視眼的な獣の眼と、自転車を漕ぐような気楽さで飛行機で海外へ高飛びする、世界を俯瞰する鳥の眼を併せ持っている。

それでは、彼の表現行為はラップなのだろうか。そうだろう。少なくともテクニカルな意味では。しかしそれは佐々木敦の『例外小説論』(2016年)の表現を借りれば「例外ラップ」と言えるかもしれない。押韻からも比喩表現からも自由になり、感嘆詞を多用する彼のスタイルは、嘗てキングギドラが「教科書」的に描き出したそれに端緒を成す、日本語ラップの文法を更新/破壊しているからだ。本論は後に、彼のテクストを仔細に分析し、その文学性をも露わにする。

それはまた、ヒップホップなのだろうか。そこに異を唱える必要はないように見える。しかし、ヒップホップの根幹を成す諸概念である「リアル」「ドープ」「イル」などの要素を眺めてみるとき、直観的に、ある種の違和感があることを表明しておきたい。本論は、この違和感を言語化する過程を辿るだろう。

そして何よりも、KOHHのようなミニマリスト然としたシンプルな言葉を駆使する存在を前に、批評の言葉は、文字通り言葉を尽くしてその言語化に腐心するだろう。本論も然り。しかし本論の射程の一つは、そのような言葉の指向性に光を当て、その指向性が依拠するトポスをも査閲しようとするものである。

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最初に探る概念は「リアル」である。彼はヒップホップという言語ゲームの「リアル」を転倒させた。そしてその手つきは私たちの現代社会を生きる上での「リアル」との折衝行為をも転回させ得るものである。都築響一の言うように、今、「いちばんストレートに若い人間の気持ちを乗せられる音楽のフォーム」はヒップホップであり、ラップである。かつてそれはフォークであり、ロックであり、パンクであった。昭和史を貫通するこれらの音楽ジャンルが炙り出した「リアル」についてはここで改めて説明するものではないが、後述するようにこれらの音楽には、「可能な経路の多様性」が刻印されていた。

「リアル」という語をデジタル大辞泉で引いてみる。

① 現実に即していること。また、そのさま。あるがまま。

② 表現に現実感・迫真感のあること。また、そのさま。写実的。

③ 現実世界。実社会。オンラインゲームの仮想世界や、SNSなどで構築される人間関係に対していう。

 

「彼のラップはリアルだ」というとき、それは形容動詞として①②であり、「彼のラップはリアルに根ざしている」というとき、それは名詞の③である。何れにしてもここでは「リアル」は他の名詞を形容することも、自身が名詞となることもある点を記憶しておこう。

「リアル」という鍵概念を巡る思索のため、その生誕地である70年代のアメリカを振り返ってみたい。まずは、ヒップホップがその精神的支柱として標榜するこの語の持つある種の「過剰さ」を考察すること。そして本論のその先の射程は、日本語ラップにおける「リアル」という概念の生成変化を追うことである。即ち、ストリートを持たない「リアル」不在の日本において、95年の阪神大震災とオウム真理教事件以降の社会状況の中から、ラップの対象としての「リアル」が見出されて行く過程と、その後に控えている「ストリート」から「路上」への更なる転回を、私たちは追うことになるだろう。

ストリートの現実から産声を上げたヒップホップは、「リアル」という母胎と臍の緒でしっかり結び付けられている。しかし70年代のニューヨークで誕生したヒップホップだが、その母胎の「リアル」がラップとして言語化されるのは1982年を待たなければならなかった。グランド・マスター・フラッシュ&フューリアス・ファイブの「ザ・メッセージ」において、彼らの「リアル」は初めてラップの言語によって照射された。

90年代にかけてLAを中心にギャングスタラップの潮流が生まれ、彼らの「リアル」は、ある種の共通言語となり、類型的な物語として消費されるようになる。ゲットーで生を受けた者がその貧困から抜け出すにはドラッグディーラーやハスラーとして成功するしかなく、その過程において果てなきギャングの抗争や暴力の連鎖に否応無く巻き込まれる。一旦成功を掴んだとしても、それは束の間の幻想でしかなく、やがて自身が嘗て敵対する他者に奮って来た暴力が回帰する形で、報復を受け、或いは自らと同じ境遇で一層ハングリーな後続に隙を突かれるのだ。その世界には安定的な幸福など存在しない、どこまで行ってもそこには刹那的な生と、結局はバッドエンド以外のルートは存在しない死からの逃走劇しかない。他方、そのような現実に対し、可能世界を開くようなコンシャスラップの潮流が生まれることともなる。

90年代中盤、ギャングスタラップの隆盛に湧くウエストコーストに対して、ニューヨークを中心としたイーストコーストでも特に「Keep It Real(リアルでいろ)」というフレーズが広く流布した。これは巨大になりつつあるヒップホップ産業を背景に、ビジネス目的で素性を偽り如何にもタフなストリートでサヴァイブしている風の偽物/ワック/フェイクMCたちが溢れ出したことに端を発する。ネット の音楽データベースであるDiscogsによれば、タイトルに「real」が含まれるヒップホップの楽曲は約20,000タイトルに達する(CD、アナログ、カセットなど、リリースメディアごとの重複含む)。

巨大産業と化すギャングスタラップ市場で「リアル」な物語は類型化の一途を辿り、フェイクMCたちが周囲に群がる。これらのフェイクMCたちを徹底的に批難するリアルMCたちはしかし、余りに過剰なアーティストイメージに正直に寄り添い「リアル」であり続けた結果、彼らが描いた物語通りのルートをひた走ることとなる。マイクを握ったときからその視界に散らついていたはずのバッドエンドへ一直線に伸びるルート。2パックやノトーリアスB.I.G.、ビッグL、ロストボーイズのフリーキー・ターたちは車線変更することなく、そのレーンの突き当たりに到ってもなお決して速度を緩めることはなかった。彼らは、誰のものでもない類型化した物語に、自身の死をもってして署名を施したのだ。

彼らは自らが「リアル」に描いた「リアル」に飲み込まれたが、その所作は見事に「リアル」なものであり、他の可能なルートは初めから無かったものとして捨象される。そこでは死が少しずつ生きられ、その「コマ送りの死」としての生を前に、合目的的な生は蹂躙される。

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ところで、この確定ルートに「自同律の不快」という形で異議申し立てをしたのが、他でもない、ケンドリック・ラマーその人である。彼は、複数のペルソナの群を「虚体」に見立て、どの現実にも属さない「虚ろなリアル」を志向している。埴谷雄高がカントの啓示を受け、完成を見なかった『死霊』(1948〜1995年)に生涯を賭した理由と、ケンドリックがコンプトンを鳥瞰するメタ視点を獲得した理由には、共通項がある。しかしその答えを探る前に、私たちは「リアル」とその「生き方としての死」を考察する必要がある。

そのための補助線として、全く別の角度からの「現実」の定義を参照したい。ジョルジュ・バタイユは「無神学大全」のトライアングルの一角を構成する『有罪者』(1944年)の中で2つの「リアル=現実」を定義している。一方は「不確定な現実」であり、他方は「推論的な現実」である。

バタイユ研究を専門とするフランス文学者の酒井健によれば前者は「不可能なもの」「把握されえないもの」であり、「半ば滅びながら達することのできる現実」である。それは「神」のような超越的な概念がもたらす生の枠組みを盲信して生きるだけの「半分死んでしまっているような生」から逃れる先に現れ得る現実であり、本来個人が生きるためには必要な自我と世界の境界を、敢えて引き裂いた先に見える現実でもある。

後者の「推論的な現実」は、「合理的な現実」のことである。生きて行くために必要な状況を目的として、その目的を実現するために、合理的に思考し合理的に言語活動するところの現実である。これは私たちが日々生きている現実であり、ギャングスタラップの主人公たちの多くが立身出世のために生きている「リアル」でもある。しかし2パックやノトーリアスB.I.G.たちが選択せざるを得なかったのはバッドエンドへの確定ルートであり、状況に強いられながらもどこか能動的にそれを選択する態度の背景に「合理的な現実」を見出すことができないのは、前述の通りである。

バタイユは、この「推論的な現実」を批難した。つまり、生きる理由となっている目的は「主人」のようなものであり、私たちはその目的の実現に向けて努力している「奴隷」ではないか。バタイユが標榜する「無神学」とは、この隷属状態からの解放であり、即ち「神の死」は「推論的な現実の消滅」を意味している。

「推論的な現実の消滅」のためには、日々の合目的的なだけの行動や経済活動の裂け目を志向しなければならない。そのような行為としてバタイユが挙げているのが、「笑いや涙の情動的行為、エロティシズム、詩や絵画、音楽などの芸術の創造行為およびその成果の鑑賞、供犠に特徴づけられる宗教的な祭儀」などである。目的のための行為ではなく、行為自体の遂行が目的となる行為。ギャングスタラッパーたちが日々のハスリングから離れて楽曲制作に勤しむ行為は、バタイユによって称揚される態度であるのだ。

それでは、このように自身の死をもって「推論的な現実」から離脱した2パックやノトーリアスB.I.G.の「リアル」は、「不確定な現実」と重なり合うのだろうか。

ギャングスタラップの類型化された物語に描かれるのは、無数の同じ生であり、同じ死である。匿名の群衆が同じ一つのリアルを生き、同じ一つの死を死ぬ。ノトーリアスB.I.G.は、ファーストアルバムの『Ready To Die』(1994年)のタイトル通り、自身の死をリリックの中で予言している。この類型化された物語の中の死、謂わばシミュラークルとしての死は、そのリリックの持ち主自身の死をもって、つまりいかなる他者にも代理できない死をもって署名を施されることとなる。このとき、群衆の中で個体としての意識をもたらす死は、ハイデガーの言うように「おのれのもっとも固有な可能性」と言える。同時にそこに立ち会うオーディエンス/他者は、バタイユの言葉を借りるなら、このような「供犠」を傍観し、「死の経験」即ちシミュラークルとしての死を生きることとなるのだ。

そしてKOHHは、常にこのシミュラークルとしての死に寄り添っている存在である。「RollingStone Japan」によるKOHHのインタビューでは、サードアルバムの『DIRT』(2015年)には生死について歌っている楽曲が多いことが指摘されている。確かに『DIRT』収録曲の約半数「Living Lengend」「Now」「一人」「If I Die Tonight」「死にやしない」などが生死をテーマとしている。同インタビュー中、彼は正に「半分死んでしまっているような生」から逃れている存在であるシド・ヴィシャスやカート・コバーン、尾崎豊への敬愛を示すと同時に、自らの楽曲で歌う内容が現実化してしまうことの奇蹟と危険性について言及している。

このような確定ルートに引き寄せられる危険性への警戒は、合目的な判断を無効化し、一方で彼のリリックに頻出する「いま目の前にある現実」への賛美へとつながっている。そしてまた、前述したようにKOHHが近視眼と遠視眼、獣の眼と鳥の眼を同時に持ち合わせていることは、彼が「自我と世界の境界を引き裂く現実」=「不確定な現実」と交流している証左ではなかろうか。

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ここまでの議論はその母国アメリカでヒップホップが産出した「リアル」の概念とKOHHの世界観との関係性を見るものであったが、今度はある時点で日本にも輸入された「リアル」の生成変化について追って行く。

80年代中盤に日本でも産声を上げたヒップホップだが、いとうせいこうやMAJOR FORCEレーベルを中心としたそのムーブメントに「リアル」を感じられなかった三人組がいた。KOHHが自身の曲中で「リアルにやる」アーティストだと言及し、 逆にKOHHへのインタビューを行ったKダブシャインを擁するキングギドラである。彼らは1995年のファーストアルバム『空からの力』で自らの「リアル」を提示した。彼らの「リアル」が詠われた言葉とは、そしてその後やって来る転回とは、一体どのようなものだったのだろうか。

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