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Soundlessness, or GODlessness

1. 経験できない音

「神」という概念について考える。それに相応しい場所として、たとえば礼拝堂の最後尾の一番右端の席に座ってみる。自然と一神教的な「神」の概念に意識が向けられる。礼拝堂という場所の持つ要素の一つは「静けさ」であるが、これは如何にも「聖性」の表象であり、或いは自己と対峙するための舞台設定のようにも思われる。この「静けさ」はしかし、ほとんど「無音」であるように思われる。なぜ「であるように」なのか。「無音」と聞くとほとんど条件反射的に、ジョン・ケージが1940年代末に経験した無響室でのエピソードが想起されるからだ。血管を流れる血流の比較的低い周波数の音、そして鼓膜の裏側で鳴り響く高周波の神経の調べ。無響室でさえ「無音」をもたらすことは不可能であったのだ。周知のようにそれらは彼の作曲法に不可逆的な影響を与えることになる。

このケージの経験から明らかであるのは、「無音」とは、私たちが理性で考えることだけならできるもの、つまり想像はできるが決して直接経験することができない事象であることだ。そしてこれはそのまま一神教的な「神」という概念を言葉で定義する際の一例ともなり得る。即ち「『無音』について考えることは『神』について考えることと等しい」というテーゼが立てられる。「無限」、あるいは神の存在論的論証を試みた中世の神学者アンセルムスが『プロスロギオン』(1077-78年)で述べている「それ以上大きいものが考えられないもの」を、私たちは想像はできるが経験できないように、「無音」という「全く音がない状態」もまた想像はできても経験はできない事象である。

このことから「無音を経験する」ことは「神を経験する」ことに喩えられるが、「神を経験する」という「奇蹟」の一環として「神の声を聞く」体験が挙げられるだろう。比較心理学者のジュリアン・ジェインズの1976年の著作である『神々の沈黙』によれば、いまから三千年前、まだ文字や言語が発達する以前において私たちは今日言うところの「意識」を持っておらず、脳は彼の名付けるところの「二分心」として右脳と左脳が分裂しており、右脳には「神々の声」が宿り、人々は幻聴を聞くように左脳でその声を聞き、自然にその声の命令に従っていたという。

私たちと同じような「意識」を持っていない、三千年前の別様の人類の脳内に「神の声」が響き渡っていたという仮説は、彼らが「奇蹟」の只中で生活していたことを示しているのだろうか。ここで留意しておきたいのは、「神々の声」は文字通り多神教的な神を前提としていることだ。そもそも未だ一神教が確立されていなかったこの時代においては、「神の声」が「奇蹟」として捉えられる条件も未整備であったのだ。

「神」の表象が現れ始めたのは今から一万年ほど前であるが、紀元前9000年には最初の王が誕生する。王からの命令は「意識」を持っていない古代人にとっては幻聴として現れ続け、その声は、ほぼ同時期に誕生したばかりの「神」の声へと重なる。それ以降古代人の脳を「神々の声」が満たすこととなるのだ。ジェインズの仮説通り三千年前に言語を獲得し、意識が誕生すると、神々は沈黙する。人々は「神々の声」から解放され、一神教的な神を信じる基盤が整備される。前述のテーゼに照らせば「無音」に開かれる準備が整うのだ。換言すれば、言語と「意識」の獲得とともに私たちは「神々の声」を失聴し、そのことで逆に「神」を「意識」することが可能となったのだ。今や「神の声」を聞くことは「奇蹟」が為す技となった。その声を「実際に聞いた者」は、神の存在を「知る」こととなるが、その声を「想像する者」は、神の存在を「信じる」、つまり大澤真幸の『現代宗教意識論』(2010年)の言葉を借りれば「飛躍」することとなるのだ。

 

2. 現代に満ちる音

このようにして人々は常に脳に響き続ける「神の声」を失い、そのことで文字通り「無音」を想像する条件が漸く整ったこととなる。様々な宗教が形を成し、各地を席巻し、人々は「無音」について、「神」について想像する。このような時代は近代まで続いた。しかしやがてこの「無音」という「神」は不在であることが明らかになる。少なくとも西欧世界では。即ちニーチェが『悦ばしき知識』の第125番で「神の死」を高らかに宣言したモメントにおいてそれは確認されたのだ。『悦ばしき知識』が著された1882年、ヨーロッパは第二次産業革命の真只中であった。同年にはエジソンが直流送電の送電システムの特許を取得している。ニーチェの主張した通り「神」が死に「無音」から解放されたとするならば、まさにそれは電力の利用により加速度的に増殖した機械音が人々の周りを取り囲み、世界に遍く通底することであったのだ。

私たちの社会に「音」が溢れていることは自明に思われる。スマートフォンのアラームなどの機械音による強制的な目覚めと共に始まる私たちの一日は、様々な音に囲まれて過ぎ去ってゆく。唯一の内省が許される就寝前の時間ですら、青白いモニタとその向こう側でこちらを見ている文字や情報の束に侵食される。深夜の孤独な散歩に出かけてもなお、耳では直接聞こえなくとも、私たちはスマートフォンや様々な機器の発する音波や電波に囲まれている。

このように音波や電波として存在するが耳には聞こえない周波数の音は「不可聴音」、逆は「可聴音」と呼ばれる。私たちの耳で聞こえ得る可聴周波数範囲は、個人差があるものの一般的に20Hz〜20,000Hz(20kHz)である。また、周波数以外にも音の大きさ、つまりデシベル(db)を単位とする「音圧」が小さければ音は聞こえなくなる。最小可聴音圧は周波数によって異なり、例えば周波数1kHzの音であれば8dbほどである。逆に最大可聴音圧はどうだろう。一般的に110db以上で不快感を感じ、140dbで痛感を伴う。150db以上ではただちに耳が損傷すると言われる。20m先のジェット機のエンジン音が120dbほどと計測される。そして、地球の大気内の音の大きさの限界は194dbである。それ以上の音圧は空気を通り抜けられず、衝撃波となり、高圧状態の空気を押し出す爆風と化すのだ。この音の大きさの限界に迫るような出来事は、これまでに存在したのだろうか。

 

3. 史上最大の音

1882年のニーチェの宣言に対する「神」の側からの回答であるかのように、その翌年にそれは起きた。歴史上、最も大きいとされている「音」を伴う事象が発生したのだ。1883年5月20日の、インドネシアのジャワ島とスマトラ島の中間に位置するクラカトア島の大噴火。三万六千人の死者を出した噴火は、文字通り「神」がその存在を誇示する「怒り」であり、同時に人々に「無音」を経験させるという「奇蹟」でもあった。

どういうことだろうか。世界各地の観測所によれば、最終的に噴火に伴う圧縮波は地球上を四周したとも、七周したとも言われているが、その噴火音は約4800km離れたロドリゲス島でも「銃声」のように聞こえ、64km離れた地点にいた水夫の鼓膜は破れたという。つまり近くにいた人々は皆同様に鼓膜を失い、音を失った。即ちそのことで逆に「無音」を経験するという、ある意味での「奇蹟」を経験する当事者となったのだ。偶然引き起こされた事態とはいえ、遂に人類は「無音」の境地に達したのだろうか。

しかし鼓膜が破れたとしても、ケージが邂逅した体内音は、骨伝導などによって内耳の奥にある音の刺激を電気信号に変換する器官である蝸牛に伝わり、そこで有毛細胞を介して脳によって音と捉えられる。つまり「無音」はやはり経験され得ない「概念」なのだ。にもかかわらず「無音」という「奇蹟」を体験したと思い込んだ者、即ち鼓膜の破れた男は「奇蹟」を通して「神」を直接的に「経験」した、つまり「知った」と誤解し、自らを「預言者」と名乗る可能性さえ孕んでいる。

だが本来的に「神」を「知る」=「経験する」ことはできないというのが先述のテーゼにおける与件であり、「神」を目的語に据えるとき、私たちには「信じる」か「信じない」かの選択肢しか付与されない。よって帰結として導き出されるのは、「神」を「信じる」には「鼓膜」という「装置」が必要であることだ。「鼓膜」を失うと、私たちは周囲の音が喪失することで「無音」に到達できるような思い違いをしかねないが、「鼓膜」を持つことで、このような誤謬の可能性を免れているのだ。それではこの現代社会において、「鼓膜」という「装置」を保持し続け、「神」を信仰するとはどういうことなのだろうか。

 

4. 神の声を想像させる音

それを考えるために、「鼓膜」という「装置」を通して「神の声」を想像し、信仰へと「飛躍」できた者の例として、米国のラッパーであるケンドリック・ラマーを召喚したい。彼は自身が「神の声」を想像するに至った経験を『good kid m.A.A.d city』(2014年)に収録の「I’m Dying Of Thirst」で振り返っている。タイトルに含まれる「Thirst(喉の渇き)」とは、終わりなき抗争に巻き込まれ、そのことを嫌悪しながらもどこかで暴力や復讐に飢えている自身の「血への渇き」であり、この負のループから抜け出すのに「神」へアクセスするための「聖水への渇き」でもある。仲間とその兄弟が殺されて怒りに囚われているケンドリックとその仲間たちは、同曲のアウトロでは、近所の老人に促されてその場で洗礼を受ける様子が描かれる。

BPM84.461のトラック上にプロットされる、脚韻に律せられた韻文は、圧縮された言葉数の中で彼らのストリート/世界を記述する。間断なき「喉の渇き」に先導されるように、何者かを追い続け、またその逆に追いかけられ続ける。暴力の連鎖。彼を取り囲むその世界では、今日もギャング同士の抗争が繰り広げられており、ドライブバイによる流れ弾により命を落とした少女の隣で母親が泣き崩れる。ケンドリックが日常的に耳にする「銃声」の音圧は、一般的に140〜170dbである。これは「奇蹟」をもたらす、即ち私たちの大気下の音圧の限界である194dbには満たないが、娘を失った母親の叫び声は一体どれほどの音圧で彼の鼓膜を突き刺しただろうか。

それらの現場を圧縮された言葉数で描写する様は、限られた文字数の中で風雅を描く俳句の手法を想起させる。ここで注目したいのは、句と句の切れ目を表現するために、彼は「uh」という感嘆詞に句読点の役割を付与し、全編に渡って挿入していることである。2分37秒間のヴァース部分に、合計71回、平均して約2.2秒に一度の割合でそれは挿入されている。この「uh」の多用にこそ、ケンドリックが「鼓膜」という「装置」を保持していると言える理由が見い出せる。

彼が言葉と言葉の間を「uh」という「音」で埋めているのは、「無音」を信じていないためである。そして経験できるものとしての「無音」を信じていないということは、先述のクラカトア島の大噴火の例で言えば「鼓膜」を失っていない状態、「鼓膜」を保持していることの証と言えよう。

一方「uh」がリズムを区切るようにヴァースに挿入されると、相対的に、残された空白地帯にプロットできる言葉の数は減少する。つまり「uh」は俳句の五七五を規定するマス目のように機能している。そのマス目にぴたりと収まる少ない言葉数で多くを表現するために「比喩」の投入が要請されることとなるが、「比喩」はその「喩えかた」次第で何者をも表現できる無限の可能性を持っている。即ち「uh」は言葉の「有限性」を「無限」へと「飛躍」させる役割を果たしているのだ。「無限」へと「飛躍」するとは、「無音」へのアプローチでもあり、前述のテーゼに照らせば「神」を「信じる」ことでもある。故に、ケンドリックは洗礼という「飛躍」を可能にした自身の置かれた状況を、「uh」という句読点によって切断されたセンテンス群で表現したのだ。

そもそも、経験できないものを想像させるためには、喩え話が駆使される。聖書然り。クルアーン然り。キリストは説教に鏤めた比喩の天才である。そして、才能のあるラッパーは誰でも比喩を巧みに扱うストーリーテラーであり、勿論ケンドリックも然りである。たとえば「I’m Dying Of Thirst」のヴァースに「富を得たいと望む/この虚無が支配する街にタワーを建てられるくらいに/音楽を大音量で鳴らしながら/その曲は/黒い花/お前に教えてやるよ/その喉の渇きの染め方を」というラインがある。コンプトンという街に響く「その曲」の喩えである「黒い花」は現前しない、経験できない想像上の花であり、「黒」は彼らの「肌の色」と「死」の象徴であり、ケンドリックが尊敬する2パックの詩集である『コンクリートに咲いたバラ』を暗に示している。さらに「喉の渇きの染め方」では「die」と「dye」を掛けており、喉の渇きを満たすための「神」への信仰、洗礼に至った自身の経験を「教えてやる」と言っているのだ。

 

5. 比喩が紡ぐ音

そして「喩え」は人間の言語や意識にとって極めて重要な役割を担っている。ジェインズは『神々の沈黙』の中でこの点に注目している。「喩える力」とは「想像する力」であり、有限の言語は、比喩を活用することで「無限」の状況を説明し得るのだ。言うまでもなく、この「無限」の状況には「無音」のような経験しえない事象も含まれている。

ケンドリックの日常は「銃声」で満たされているが、私たちの多くはその影響が及ぶ当事者となり得るとは考えず、その音は遠いもののように思えるかも知れない。しかしたとえばネット上のニュースで、SNS上を流れるタイムラインで、多くは動画の形でその鋭角な音像に極めて簡単にアクセス可能である。つまりスマートフォンの電波が「不可聴音」として私たちを取り囲んでいるように、これらの「銃声」や「大噴火」に代表される非日常的な「厄災」を含んだ映像は私たちの周囲に潜在している。しかもデータの形をして「不可聴音」としての電波の上に乗って。勿論映像を見たからと言ってそこに映っている事象を「経験」することにはならない。だが過剰な映像から受ける衝撃により、まるで「鼓膜」が破れたような状況に陥ることもあるだろう。「無音」を経験できると勘違いしてしまうように、他者が被る厄災の「当事者」であるかのような思い違いも招きかねない。

しかしここで言いたいのは、私たちの想像力の変容である。これらの潜在的な映像にいつでもアクセス可能なことで、私たちは見ていないものを思い描く「想像力」を、「喩える力」を失ってはいないだろうか。一方で所謂「斬首動画」の衝撃が記憶に新しいように、かつて新聞やラジオ等によるテクストベースの情報に基づいた「想像力」と、極限状態を曝け出す動画を目にした上で映像内の登場人物の感覚を推し量る「想像力」の深度が異なるのは明白だろう。

このように私たちの「想像力」は、日々薄弱なものとなり、しかし同時に極端な深度に晒され強化を要請されるといった、逆方向に引き合う契機に同時に対面していると言える。このことは当然「神」に対する「想像力」のあり方にも影響する。哲学者で宗教史学者のフレデリック・ルノワールは、私たちの世界では、今後特定の宗教を持たない人々が日増しに増加するが、神への信仰がなくなるわけではないと指摘している。換言すれば「神」は「死喩化」するのだ。「死喩」とは、時間の経過のうちに、文字通りの意味に近いものとなってしまう比喩表現のことで、たとえば「机の足」や「針の目」などを指す。諸宗教が「喩え」てきた「神」の姿は、時間が経過すると新しい時代の価値観との食い違いが表面化し「死」に向かうが、それは「神」という概念そのものの生死とは切り離された事象なのである。そして「神が死ぬ」という比喩表現そのものも、既に「死喩化」している。

ハンナ・アーレントが、このことを裏付けるような言葉を残している。彼女の死後の1978年に出版された『精神の生活』の中で、ニーチェが「神は死んだ」と言っているのは「神についての伝統的な考え方」が「死んだ」だけ、つまり通用しなくなっただけだと述べているのだ。さらにアーレントが明らかにするのは、実はニーチェの『悦ばしき知識』より遡ること80年前、ヘーゲルが『信仰と知』(1802年)の中の結論部で「近代の宗教が基にしている感情」は「神」が「死んでいるという感情である」と述べていた点である。

結局のところ、ヘーゲルの1802年のこの記述から2世紀以上が経過した現在においても、私たちは、未だに「死喩化」の過程を前進し続ける、「死に続ける」「神」を息を潜めて見守っているのだ。窮地に立たされた「神」をただ傍観するのではなく、私たちに出来ることがあるとすれば、それはこの「死喩化」を上回る速度で、新たな文脈で「神」を「喩え」てゆくことに他ならない。ケンドリックがそうするように。

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