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失敗した対談の記録

x「まず、今回われわれに与えられたテーマは「共同討議「昭和批評の諸問題1975-1989」」(以下「討議」)についてかたることです。座談会、すなわち対話が俎上にあがる以上は、この対話は対話についての対話として、対話というメディアに対して多かれ少なかれ「自己解説」的であらざるを得ないでしょう。たとえ「それが批評と懸け離れた態度である」としても、です。それを踏まえて出発点としたいのは、われわれのこの対話が架空のものであることです。つまりここにならぶ言葉は、あくまで対話形式の文章にすぎない。とはいえここで、虚構内存在であることを自覚し、この対話をメタフィクションに持っていくことが(それはそれとして魅力的ですが)目的ではない。そうではなく「討議」(に限らずあらゆる対話記事)もまた、雑誌に載っている以上は「対話形式の文章にすぎない」ことを確認しておきたいのです。」

『ゲンロン1』収録。参加者は東浩紀、市川真人、大澤聡、福嶋亮大の四名。

大澤聡「基調報告 批評とメディア――「史」に接続するためのレジュメ」をふまえた発言。

y「つまり文字化されてるんだから、書かれたものだろうってこと?」

x「そうですね。」

y「書かれたものである以上、そこには編集が加わる余地がある、というよりも編集と構成・校正を経ない限り「記事」にはならないのだから、それは生の「対話」からは隔たってしまっている。したがって「対話記事」は多かれ少なかれ「架空」のものであり、そのことの批判から議論を始めようと。」

一例として、「『ゲンロン1』刊行記念」と銘うって行われた東、市川、福嶋の三による対談では、市川と大澤の加筆量の多さが話題に登っていた。また大澤の「基調報告」では、後述の「近代日本の批評」の「初出時には存在せず単行本で追記された討議部分」が指摘されている。

x「「批判」というのはやや語弊がある。生の対話そのものが雑誌に載せられないのは当然で、そこに編集が加わるのも自明です。そもそも編集の加わらない文字起こしなど、議論の展開がほとんど追えない。したがってそのこと自体を云々しても仕方ないし、それではあらゆる書かれたもの(エクリチュール)は文字に置き換えられているから駄目だという、現場の特権化、パロール中心主義に尽きてしまう。そうではなく、「多かれ少なかれ「架空」のものであ」る「対話記事」が、にもかかわらず雑誌にこれほど必要とされる理由は何かを考えることの方が生産的です。言い換えれば、「話されたこと」を「書かれたもの」に置き換えるという「対話記事」の独自性に焦点をあてるべきはないか。そのことを念頭に、「討議」について検討していきたいと思います。」

この点は討議中の東の発言「階級構造が復活したら、そのとき求められるのは、批評ではなくむしろ「運動」の言葉でしょう。」に結びつけると面白い。「批評」のメディアとしての雑誌の衰退に並行し、「運動」の現場が特権化されている。これは「批評の時代」が「政治の季節」の間隙期にある「小春日和の時代」の現象であることにもかかわる。

「討議」が『ゲンロン1』の特集の目玉企画となっていることを指すか。

x「前提として、この「共同討議」には祖型があることを抑えておきましょう。浅田彰、柄谷行人、蓮實重彦、三浦雅士によって、『季刊思潮』『批評空間』をまたいで連載された、「近代日本の批評」ですね。『ゲンロン1』の特集名が「現代日本の批評」だから、彼らの営みを継ぐことが相当強く意識されている。というか言ってしまえば、「討議」は彼らの話ばかりしている(笑)。それには理由があって、議題になる年代自体が彼らを基準に設定されてるんですね。大澤は「なぜ「一九七五年」を出発点に設定するのか、という疑義に対してはとりあえずこの発言を転送しておけば済む。」と、柄谷の「批評に関して自覚的になったのは、七五年以降」という発言を「近代日本の批評」から引いている。他方で終点の一九八九は「「近代日本の批評」の連載が始まった年でもあ」る。彼らの話をする気が満々な時代設定で、特に八〇年代の「ニューアカ期」が中心に据えられています。その姿勢は浅田が『構造と力』を出す八三年までを「プレニューアカ期」と「転倒した表現」で呼ぶことにも現れていると思う。」

これは「討議」中、東が「近代日本の批評」の「昭和篇の前半は、小林秀雄とマルクス主義の話しかしていない」と称していることとパラレルである。話題の対象として、「柄谷行人」が「小林秀雄」の反復となる。

「近代日本の批評」は昭和を四区分(一九二五-三五、一九三五-四五、一九四五-六五、一九六五-八九)し、それぞれの時期を検討することで批評史を立ち上げている。「現代日本の批評」もこの形式に倣い、一九七五-八九年を初回「討議」の検討年代としている。

y「もちろん「ニューアカ期」がかなりフィーチャーされているわけだけれど、僕はその時代が中心に据えられているとは思わなかった。というのも八〇年代に七〇年代に培われた豊穣さが開化した、という「討議」の大まかな構図があるけれど、実は九〇年代にその豊かさがアカデミズムと『批評空間』の二者に回収され、閉域化が言説の豊かさを減衰してしまう、というところまでが頻繁に言及されているんですね。つまり「プレニューアカ期」と「ニューアカ期」が、いわばまとめて「プレ批評空間期」として俎上に上がっているように見える。その意味において「討議」の中心になっているのは、むしろ今回の年代にはまだ存在していない、『批評空間』なのではないか。」

その頻繁さは東の「けれども〔サブカルチャーと批評の接続は〕『批評空間』でダメになってしまった……という話はもういい」という自己言及に端的にあらわれている。

x「つまり「討議」は二重に「転倒」していると。でもそもそも「討議」が『批評空間』に掲載された「近代日本の批評」の継承企画である時点で、『批評空間』の重要性は明らかなのでは。『ゲンロン1』の前身の『思想地図』が同誌のパロディだったことからもそれはあまりに自明ですよね。」

y「しかし自明だと言って片付けられる問題ではない。「討議」では、「近代日本の批評」を始めとした『批評空間』の業績を評価するとともに、『批評空間』期の柄谷自身の「外部」の無さを問題にもしている。このふたつは切り離せない表裏だと思います。例として、「近代日本の批評」において歴史の/からの「切断」の意志が「暗黙裡に共有」されていたことと、それによって「偏ったパースペクティブが提示されていること」が指摘されている。つまり「近代日本の批評」は、「外部」から「切断」された内的なルールの「共有」の上に成り立っていたわけです。『批評空間』は文字通り、ある特別な「空間」を形作っていたわけで、「討議」は「日本近代の批評」をとおして、そのことを問題にしているように読めます。

そしてこれは「対話記事」の問題に関わる。『批評空間』(の前身の『季刊思潮』)創刊木を振り返って、柄谷は「座談会のようなものを毎回やろう」ということを念頭に置いていたと言っています。つまり「批評空間」の「空間」は、具体的には「座談会」の空間としてあった。これについては中島一夫が指摘しています10。興味深いのは、彼は「柄谷サークル」という「場=空間(サークル)」について、その崩壊の現場を出発点に考察していること、そしてその「崩壊の現場」もまた「シンポジウム」=「対話」の場であったこと、そしてそこに柄谷行人、浅田彰、東浩紀が登壇していることですね。一九九九年に行われたこのシンポジウムは、「近代日本の批評」と「討議」の切断線として重要だと思います。」

「いま批評の場所はどこにあるのか」。ここで言及されている「シンポジウム」も同じ座談会を指す。

10「90年代批評とは何だったか」。『収容所文学論』収録。この論考は「柄谷サークル」の崩壊後の批評の「場=空間」の模索者として東浩紀を捉えており、「近代日本の批評」と「討議」、あるいは『批評空間』と『ゲンロン』の距離を測る重要な参照項である。

x「それは東浩紀が「今日は、単に場違いなところに来てしまったと感じています」と言い捨てたあのシンポジウムですか(笑)。」

y「そうですね。「言い捨てた」というと彼が悪者のようだけれど、その会は東の基調報告の勘所が他の登壇者(上記に加え鎌田哲也、福田和也)に伝わらぬまま、言葉尻だけがヒートアップして彼が叩かれ終わっている。まさに「場」そのものがすれ「違」っているような感覚です。中島もそのこと、とりわけ浅田の司会の機能不全ぶりに「雑誌「批評空間」の終わり」と「「批評空間」が形成していた批評の空間の終わり」を見ている。彼いわく「「季刊思潮」から「批評空間」へという流れは、むしろ七〇年代に「空白」となり、八〇年代に死滅しかけた批評の「場=空間」を蘇生させ延命させる装置として機能した」。」

x「その観点は「討議」とは正反対なようですが。」

y「いや、むしろこれらは裏表です。というのも中島は、「「八〇年代の批評」なるカテゴリーそのものが存在しないのではないかという話」を、他でもない東の発言から持ってきている。他方、「討議」でも、大澤が七〇年代後半から八〇年代にかけて「批評が消失したとみなすか、拡散したとみなすか」の「判断はふたつに分かれる。」と言っている。つまり「批評空間」は、良くも悪くも「拡散=消失」していた「批評」をひとつに纏めあげて、「延命」させてしまった。そして一九九九年にその「延命装置」が取り外され、三年後に「批評空間」自体が解散する。」

x「なるほど、明確な整理だとおもいます。が、「対話記事」の話はどこに……(笑)」

y「強引に話を戻せば、「「批評空間」の「空間」は、具体的には「座談会」の空間」であったとはいえ、やはり『批評空間』は何より、雑誌の名前でした。つまりそこでは「空間」が「書かれたもの」に拡張されている。これは、この架空の対話の冒頭で述べた、「対話記事」の特性とパラレルです。」

x「『批評空間』は座談会の「対話記事」を重視した雑誌であっただけでなく、そのタイトル自体が「対話記事」的であると。」

y「そう、逆に言えば「対話記事」自体が「空間」を拡張し、共有させるための媒体としてある。そしてこの機能に関する限りで、「記事」は「架空」だろうと問題ない。11多かれ少なかれ「対話記事」に依拠した雑誌は「対話」の「場=空間」をそれを読むものに接続する。」

 11これは丁度、リアリズム小説というフィクションこそが「想像の共同体」を形成するのと同じ現象と取れる。座談会の最大の働きは、「場=空間」を共有した「読者」の「共同体」を形作ることにある?

x「とすると「柄谷サークル」も実は、『批評空間』という「空間」を介して「読者」という「外部」に向けて開かれていた、といえる。」

y「いや、事態はそう単純ではない。「討議」で問題になっているとおり、柄谷は「自分の読者が全く違う読者と結びつく可能性を想像していなかった」からです。つまり彼にとっては、「読者」もまた「外部」ではなかった。」

x「でも僕には、柄谷が「外部」の導入を全く目論んでなかったとはどうしても思えない。というより件のシンポジウムが、まさに「外部」を導入しようとした営みに見えるのです。そこで柄谷は、特に東と鎌田について「今日は凶暴とされている人たちを呼んだ」と発言している。つまり「凶暴」な二人が、「場=空間」を撹乱することを期待したのではないか。むしろその狙いが功を奏しすぎ、「場=空間」の解体が露呈してしまったという解釈を取ることは、さほど不自然ではないような……。」

y「でもそれは厳しいでしょう。中島がいうように、登壇者は「この時点で最も柄谷の近傍にあった批評家」たちです。そこに「外部」が見いだせるかというと……」

x「でも八〇年代以降の柄谷の「外部」は「「他者」として……自分のすぐ隣に見出」されるものなはず12でしょう。」

12「近代日本の批評」における浅田の基調報告から。

y「それを柄谷が狙ったかは措くとして、「いま批評の場所はどこにあるのか」がその「批評の場所」の解体を露呈させ、なし崩しに「外部」=「空白」が露呈したことは確かです。なので『批評空間』の話はこれくらいにして、「討議」に戻りましょう。」

x「先にいったように、「討議」は『批評空間』の「近代日本の批評」の後継企画を自負しているわけで、「批評」というジャンルの「場=空間」を再生しようという意図は当然継いでいる。だが一方で「批評空間」の崩壊を知っている彼らはその「外部」の無さは受け入れられない。その結果「討議」は、パフォーマティブには『批評空間』を継承しつつ、コンスタティブには『批評空間』を批判するというアンビバレンスに置かれるほかない。」

y「それはそうでしょうね。でもその場合、「対話記事」という「空間」にどうやって「外部」を持ち込むかということが課題になるはずです。『批評空間』のパフォーマティブを継承するだけでは、その轍を踏むほか無い。」

x「だから「討議」で「私生児」13が話題に上がったことは極めて重要で、なんでかというと「いま批評の場所はどこにあるのか」で最もすれ違っていたのは、東と浅田の間の「営業」感の違いなんですね。このワードだけ見ると「私生児」とは何の関係も無いように見えるけれど、要するに「場=空間」の「外部」にいる存在をどうやって意識し、それを取り込んでいくかが問題となっている。その点で東浩紀の問題意識は、十五年以上前から一貫しているわけです。」

13柄谷行人『探究I』の「教える-学ぶ」関係が基本的に「父-子」間の関係に閉じているのに対し、「父」の精子が「誤配」されてしまう可能性としての「私生児」を想定するべきだとする東は、自身が「『批評空間』の私生児」=「「勝手に読んでる」読者」だったと省みる。とすると上のxの東=「外部」説は案外的を射ている?

y「先述の中島は、東浩紀が「サイバースペースという「場=空間」なき「場=空間」」へと向かったことに、「柄谷サークル」終焉以降「「場=空間」はいかにあり得るか」の可能性の探究を看取しています。」

x「だとすると、やっぱり株式会社「ゲンロン」の全体が『批評空間』の継承/批判としてあると見ていいんじゃないかな。「ゲンロンカフェ」という物質的な「場=空間」を維持しつつ、「サイバースペース」に誤配=「私生児」の可能性を模索している。」

y「『思想地図』を『ゲンロン』に改称したのも、現実の「場=空間」としての「ゲンロン」(カフェ・オフィス)と紙面上の「場=空間」としての『ゲンロン』を地続きにするためかもしれないですね。「対談」という装置自体は、不可避的に閉じられたものであるけれど、「対話記事」の宛先自体は無限に開くことができる。」

x「でも「討議」を論じるこの架空の座談会としては、「対話」自体に「外部」を導入する方法を模索したいところなのですが……14

14実を言えば、その機能を期待して導入されたのが、「対話」を「外部」から眺めることができるこの「注釈」スペースだった。ただでさえ実態はモノローグに過ぎない(ことは「x」と「y」という取り換え可能な名前に表れている)この架空の座談会に、ひとつのアイロニカルな視点を導入することで、その視線と「対話」自体にメタな「対話」をさせることで、「対話」の新しい形態を生み出せるのではないかと画策したからだ。しかし既読のとおり、その試みは破棄された。いかにメタな視点をとろうと、結局それは作者である「わたし」に回収されてしまうという、メタフィクションの隘路におちいったからだ。結果「この対話をメタフィクションに持っていく」という有り得た未来は、少しも「魅力的」ではなかったがために本稿に取って代わられた。そのまま文書自体を破棄してしまうことも考えたが、「対話」の失敗が新たな「場=空間」の糧になることは、本文中のシンポジウムで見たとおりだ。なにか思いもよらぬ「私生児」が生まれることを願って、この文書を「サイバースペース」に放流する。

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