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あたかも純粋かの様に

「純粋経験」「統一的或る者」「行為的直観」「場所」「絶対矛盾的自己同一」、その名のとおり幾多の魅力的な語彙と概念を産出し、その名を取って「西田哲学」と呼ばれる独自の体系を築いた哲学者西田幾多郎の最も重要なキーワードが、「前にいった様に」であることは、その最初の著作を読んだ者なら誰もが知っている。
『善の研究』と銘打たれたその著書で、初めてその言葉があらわれるのは第一編第二章「思惟」の冒頭近く、岩波文庫版のページ数にして僅か29ページ目のことに過ぎない。

故にもし前にいった様に知覚の如き者のみでなく、関係の意識をも経験と名づくることができるならば、純理的判断の本にも純粋経験の事実があるということができるのである。

未だ一章を終えた時点で、そのテクストは早くも「前」を振り返り、以降同書は、折にふれて「前にいった様に」と繰り返し、読むものを以前の言表へと立ち戻させる。その回数は、この通りの文面だけでも18回、「前に」を「前にも」や「右に」、「上に」などへ置き換えた類例まで含めれば51回になる。あるいは「述べた」や「論じた」といった言い回しを含めればその数はさらに増えるが、文庫で260ページの同書における、それらの語彙の多寡を云々することがここでの目的ではもちろんない。重要なのはその各々の頻度ではなく、これらの「前にいった様に」的語彙たちが、『善の研究』において展開される論考といかに関係するのか、しないのかである。
上の引用からすでに見てとれるように、『善の研究』で展開されるのは、その鍵概念である「純粋経験」に基づいた究極の一元論である。序を除いた同書の構成、すなわち第一編「純粋経験」第二編「実在」第三編「善」第四編「宗教」は、同書の主張を端的にあらわしている。すなわち、「毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の」意識現象である「純粋経験」こそが真の、そして唯一の「実在」である。「純粋経験」に立脚すれば主観と客観は本来自明の区分では無く、知覚や思惟や意志も、ただ一つの意識活動の「程度の差」にすぎない。この「純粋経験」は反省によって、種々の対立概念や矛盾へと「分化発展」していくが、それらは再び「一層大なる統一」を意志するが故に、「純粋経験の事実は我々の思想のアルファでありまたオメガである」とともに「統一は実に意識のアルファでありまたオメガであるといわねばならぬ」。自己におけるその意志たる「統一力」を全うすることこそが「善」であり、その「統一力」の宇宙規模での発現こそが神の、「宗教」の本質である。
ここで荒く浚ってみたように、「純粋経験」という言葉は「経験」の一語が連想させるような、主観たる個人に内包されるものではない。

各個人の精神は皆この社会精神の一細胞に過ぎないのである。/前にもいった様に、個人と個人との意識の連結と、一個人において昨日の意識と今日の意識との連結とは同一である。前者は外より間接に結合せられ、後者は内より直に結合するように見ゆるが、もし外より結合せらるる様に見れば、後者も或る一種の内面的感覚の符徴によりて結合せらるるので、個人間の意識が言語等の符徴に由って結合せらるるのと同一である。もし内より結合せらるるように見れば、前者においても個人間に元来同一の根柢あればこそ直に結合せられるのである。(pp.101-102)

前にいった様に精神は実在の統一作用であって、大なる精神は自然と一致するのであるから、我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って幸福となるのである。(p.127)

而してかつて実在の論に述べた様に意識現象が唯一の実在であるとすれば、我々の人格とは直に宇宙統一力の発動である。即ち物心の別を打破せる唯一実在が事情に応じ或る特殊なる形において現われたものである。(p.199)

このように西田にとって自己を構成する「純粋経験」の「統一力」は個人を超え、社会へ、自然へ、宇宙へと結びつく。その概念は、個体に属するようにも宇宙に属するようにも取れる、というよりむしろ、それ自体が未分化であるかのような奇妙さこそ、「純粋経験」という言葉の最大の特徴である。
そしてその言葉の奇妙さはそのまま、「前にいった様に」という言葉の奇妙さでもありうるだろう。実際、それはいかにも奇妙な言葉なのだ。「前にいった様に」と繰り返されるたびに、本を前へと読み進めていたはずの読者は、後ろ向きに、「前」へと送り返されてしまう。後ろに置いてきた記述が「前」へと翻り、進行方向であった前が後ろに反転する。しかも「前に」と指示されていたその方向は、「右に」ないしは「上に」、簡単に置き換わってしまう。これは単なる言葉遊びではない。実際、『善の研究』を読むという行為は、「前にいった様に」という言葉によって絶えず過去が現在へと呼び戻され、頻繁に後方(「前」)の記述を確認しなおす体験になる。同書の読者は、そのページを左からと同じくらい、「右」から繰らなくてはならない。そのような非直線的なテクスト体験において、前と後ろは絶えず反転し続け、両者の対立は無効化されてしまう。「前」という語が用いられることによって逆説的に、前と後ろ、さらには「右」と「上」までが「統一」され、方向の概念が未分化になってしまう。  しかも岩波文庫版の解説によれば、第一編「純粋経験」は、西田の最終的な構想では本の最後に置かれていた(結局それは版組みの都合上叶わなかった)。つまり『善の研究』はその成立からして後ろが「前」へと反転している。実際、西田自身が序において、「初めて読む人はこれ〔純粋経験〕を略する方がいい」と述べているように、その書は成立からして方向の未分化な書物なのである。そこにおいては、一方向的な読書は想定されていない。
そして「前に」と同じくらい、「いった様に」もまた奇妙である。一体この「いった」の主語は誰なのか。無論、そこに語り手である「余」が省かれているのは言うまでもない。しかしその言葉は、どこか「前」の自分の言表との距離を感じさせる。実際、「いった」の隠れた主語は「前」の存在であり、現在の「経験其儘」である「純粋経験」にとっては、すでに過去として対象化されている。「自己の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時は已に純粋の経験ではない。」「たとい過去の意識の再現であっても、現在の意識中に統一せられ、これが一要素となって、新なる意味を得た時には、已に過去の意識と同一といわれぬ」からだ。
したがって「いった」の主語は「余」であるとともに、最早「余」ではない何者かであると言わねばならない。「前にいった様に」という一節が感じさせる距離の感覚、どこか他者の文献を引用して来たかのような印象はこれ故である。より正確に言えば、「いった様に」という言葉を付されることによって、「前」は「已に純粋の経験ではな」くなる。このことは、「前にいった様に」的語彙以外での「いった様に」の用法を見れば、より顕著になる。
『善の研究』において「いった様に」という言葉は、合計82回登場する。そこから「前にいった様に」的語彙を除いた31回は全て、「スピノーザのいった様に」や「ゲーテが『意欲せざる天の星は美し』といった様に」といったように、他者の言葉を引き継ぐ用法で用いられるのだ。つまり「前にいった様に」的語彙は、「前」の自分を、「スピノーザ」や「ゲーテ」と同様の立場に置く。それゆえ「前にいった」過去の自己と「前にいった様に」といっている現在の自己が乖離し、前者は客体として対象化される。「いった様に」の一語の下で、主であった「余」と客であった「スピノーザ」「ゲーテ」の境界は破棄される。
しかし「前にいった様に」的語彙の働きは、「前」の客体化というような単純な作用に尽きない。上で(前で?)述べたように、その「前」は、方向の未分化な書物に於ける、とりあえずの「前」でしかなかった。「前にいった様に」的語彙は、「前」を過去として客体化すると同時に、その「過去の意識の再現」を「現在の意識中に統一」する。つまり「前」の自己を客体として対象化するとともに、それを「現在の意識」の中に再び取り込むという矛盾した作用が起きている。「前」は、「前」から無方向的な「いま・ここ」へと転じる。

かく意味という者も大なる統一の作用であるとすれば、純粋経験はかかる場合において自己の範囲を超越するのであろうか。たとえば記憶において過去と関係し意志において未来と関係する時、純粋経験は現在を超越すると考えることが出来るであろうか。〔……〕純粋経験の立脚地より見れば、同一内容の意識はどこまでも同一の意識とせねばなるまい。

対象化された過去は「已に過去の意識と同一といわれぬ」が、まさにそれゆえ「現在の意識中に統一せられ、」「新なる意味を得」ることができる。こうして「純粋経験」は、絶えず「前」を吸収し、「現在を超越」していく。「前にいった様に」的語彙は、その「前」を「現在」に呼び寄せて方向を無化する、「統一力」の装置なのだ。そして「スピノーザがいった様に」も、「ゲーテが〔……〕いった様に」も同様に、「現在の意識中に統一せられ、」「新なる意味を得」るだろう。そこでは古今東西、あらゆる言表は「いった様に」の一語によって、「純粋経験」へと「統一」される。「前にいった様に」は、そのための整流器として、彼の哲学を集約する。
しかし本当に、かくも簡単にあらゆる言表が「統一」されうるのだろうか。確認するが西田にとって、「純粋経験」の「統一力」は、個人を超えて社会へと接続されうるものだった。そしてそれはさらに、自然へ、宇宙へと拡張される。だが『善の研究』を読んだ誰もが思う通り、この「統一」はどこか楽観的すぎはしまいか。その拡張の端緒となる一節を再び引こう。

前にもいった様に、個人と個人との意識の連結と、一個人において昨日の意識と今日の意識との連結とは同一である。前者は外より間接に結合せられ、後者は内より直に結合するように見ゆるが、もし外より結合せらるる様に見れば、後者も或る一種の内面的感覚の符徴によりて結合せらるるので、個人間の意識が言語等の符徴に由って結合せらるるのと同一である。もし内より結合せらるるように見れば、前者においても個人間に元来同一の根柢あればこそ直に結合せられるのである。

ここで西田は、「個人間の意識」は「言語等の符徴に由って結合せらるる」と言っている。だがその時、彼が行った以下の記述はどう理解すればよいのだろう。

真正の実在は芸術の真意の如く互に相伝うることのできない者である。伝えうべき者はただ抽象的空殻である。我々は同一の言語に由って同一の事を理解し居ると思って居るが、その内容は必ず多少異なっている。(p.85)

すでに述べた如く、彼にとって「真正の実在」とは「意識現象」である「純粋経験」に他ならない。そしてそれは「同一の言語に由って同一の事を理解し居る」と思っていても、「相伝うることのできない者」だと、西田はここで言っている。それは換言すれば、各々の「純粋経験」は「言語等の符徴由って結合」などされていない、ということである。だとすれば「各個人」は、「社会精神の一細胞」として統一されていない。しかも西田は自身のこの矛盾から、「同一の意識」だろうと必ずしも「同一内容の意識」であるとは限らないことを、「純粋経験は現在を超越する」ことに失敗することもあることを示してしまっている。
だから「前」の無方向さがあらわすのは、特権的な「いま・ここ」ではなく、その進行方向の不統一である。個人が、社会が、自然が、宇宙が「統一力」によって組織されいるかに見えても、「その内容は必ず多少異なっている」。「その内容は必ず多少異なっている」、これはまさしく「前にいった様に」の、「様に」の働きである。直喩において顕著なように、「様に」はその対象との類似を示すとともに、それがそれ自体で無いことを、「必ず多少異なっている」ことを示してしまう。「スピノーザ」も、「ゲーテ」も、「前」の自己も、決して現在の意識そのものではない。こうして「純粋経験」と対象との間の間隙が、客体性として再び現前する。「前にいった様に」は断じて、「前にいったとおり」ではないのだ。
その哲学を集約し、その限界をも提示する。『善の研究』の最も重要なキーワードが「前にいった様に」であることは、誰もが知っている。

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