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二つの唇の重なりは氷を溶かすか

今年も流行語大賞が決まったらしいが、去年(2014年)のトップテンに「ありのままで」が入っていたことを覚えているだろうか。一応注記しておけば、この流行語はディズニー映画『アナと雪の女王』の主題歌であり劇中歌である『Let It Go ~ありのままで~』を元にしている。『アナ雪』の熱狂的な人気、いわゆる「アナ雪フィーバー」を象徴するこの流行語はまだ記憶に新しいだろうが、しかしその『アナ雪』現象の熱の裏でヒートアップしていた、あるいは端的に言って炎上(フレームアップ)していた、もうひとつの現象を記憶している人は少ないかもしれない。他でもない『Let It Go ~ありのままで~』を唄った、歌手 May J. へのバッシングがそれだ。
ごく大雑把にその経緯をなぞろう。先に「主題歌であり劇中歌である」と記したとおり、『アナ雪』の中で『Let It Go ~ありのままで~』は、物語内とエンディングの二度歌われる。問題の発端はこの二度の歌唱が、それぞれ違った歌い手によって担われたことだ。劇中歌としては主人公「エルサ」の声を当てた俳優松たか子が歌い、 May J. はエンディングテーマの方を担当した。当然、映画を見た観客は先にエルサ=松たか子の歌う『Let It Go ~ありのままで~』を耳にすることになり、その結果そちらがオリジナルであるという錯覚が生まれる。その帰結として May J. が歌うエンディングの『Let It Go ~ありのままで~』の側はアレンジヴァージョン、あえて悪意ある言葉を用いれば、二番煎じとして聴かれてしまう事態が生じたわけだ。そこに May J. 自身がカヴァーソングを得意としていること、カラオケの得点を競うTV番組の企画に出演していたことなどが手伝って、彼女がいわば「他人のふんどしで相撲をとる」歌い手だというイメージが一人歩きし、ウェブ上のニュースサイトや掲示板、まとめサイトを中心に、彼女を誹謗する記事や投稿が膨れ上がった。
もちろん本稿の趣旨は、一年前のこの現象を蒸し返すことではないし、ましてやその尻馬に乗って彼女を中傷することでもない。そこに読まれる蔑称は、「あへあへカラオケおばさん」や「レリゴーおばさん」など、小学生の悪口と同程度の仕上がりの、端的に取るに足りないものである(無論その質の低さと悪質さは別問題だ)。しかし、このあまりにも幼稚な悪罵には、『Let It Go ~ありのままで~』の歌い手をエルサだとする無防備な前提が、あまりにも明らかに現れており、結果として「カラオケ」と「レリゴー」という二つのフレーズは奇妙に引き裂かれているのだ。そしてその現象自体は、十分に取るに足るものなのである。
「カラオケ」の方はわかりやすい。先述したエルサの歌唱をオリジナルと見る視点を、忠実になぞっているからだ。 May J. 版の『Let It Go ~ありのままで~』を非難する際の常套句として「(心に)響かない」という印象論がよく見られるが、これも基本的に「カラオケ」と同根だろう。ストーリー展開に沿い、自身の独白となっている詞を、表情の変化と全身の躍動、それに魔法によるスペクタクルを伴って歌い上げるエルサの方が「響く」のはむしろ当然だからだ。
しかし、奇妙なのは「レリゴー」の方である。それが蔑称として成立しているのかという根本的な疑問は措くとしても、一体何故この一語が、 May J. にあてられるようになったのだろうか。というのも、彼女は「レリゴー」とは歌わない。流行語大賞から分かる通り日本語版のサビの詞は「ありのままで」であり、英語版のサビである ‘Let It Go’ のフレーズは登場しないのだ。もちろん、『Let It Go ~ありのままで~』というタイトル自体から「レリゴー」が取られた可能性はあるが、だとしたら ‘t’ と ‘i’ の縮約による ‘r’ 音=「リ」の音は反映されないはずである。言い換えればこの蔑称は、明らかに聴覚情報から取られている。
この蔑称を、「カラオケ」と同じロジックで解釈することは可能だろう。すなわち、あくまで同曲のオリジナルは ‘Let It Go’ なのであり、 May J. の歌う『ありのままで』はその翻訳(コピー)にすぎない、だからあえて彼女を「レリゴー」と称することで皮肉を働かせてやろう、というわけだ。こう解釈すれば、そもそもこれが蔑称として成立しているのかという疑問も解決される。
だがまさに「カラオケ」と同じ解釈を採ることで、「レリゴー」と「カラオケ」は決定的に矛盾してしまう。そこでは、「カラオケ」でオリジナルとして扱われていたエルサの『ありのままで』もまた、翻訳(コピー)であることが露呈してしまうからだ。つまり、「カラオケ」という表現に潜む、オリジナルとコピーの詞が同じという暗黙の前提が崩れることになる。実際、注意深く『アナ雪』を見れば、エルサの唇が日本語の歌詞と一致していないという、あまりに当然の事実に気付かざるをえないだろう。
そしてこの「当然の事実」は同時に、もうひとつの「当然の事実」を浮き彫りにしてしまう。それはエルサの声が決して本人の声ではないという事実だ。しかもそのことは、『アナと雪の女王』のエルサだろうと英語(オリジナル)版 ‘Frozen’ の Elsa だろうとなんら変わりはしない。言うまでもなく、エルサ=Elsa はアニメーション映像に過ぎず、「ありのまま」の声など持ち合わせていないからだ。かと言って、英語版の Elsa の声の、生身の持ち主であるIdina Menzel こそがオリジナルであるとも言いがたい。その詞の内容はストーリー展開と Elsa の内面に分かちがたく結びついており、やはり Elsa の口に登ることを前提にしていることは疑い得ないからだ。すなわち、『Let It Go ~ありのままで~』の歌い手は、原理的に声と身体の二つに引き裂かれている。こうして「Let It Go」のオリジナルを特定しようとする身振りは隘路に乗り上げ、オリジナル自体の持つ虚構性ばかりが明らかになる。その点で「カラオケ」も「レリゴー」も批判として的外れであるが、しかし突き詰めるとアニメーションの持つ本質に行き当たる。
だがこの隘路を終着点だと判断することは性急である。もしこの分裂が単に「アニメーションの持つ本質」の一言で片付けられるのならば(そうすることは容易だが)、『アナ雪』に限ってこの問題が持ち上がった事実が隠蔽されてしまうからだ。
それは逆に言えば、なぜわれわれは普段アニメーションを見る時、この声と身体の分裂を捨象できるのか、という問いでもある。これに関連して細馬宏通は、アニメーションの黎明期から歴史をたどり、その過程でアニメーションの映像(=キャラクターの身体)と音(=キャラクターの声)とが、いかにして同期するようになったかを論述している(『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか アニメーションの表現史』特に第八章「ベティ・ブープはよく歌う」)。彼によればキャラクターの声と身体をつなぎとめるのは何より、発音と唇の動きが一致していること=「リップ・シンク」であるという。「リップ・シンクは、音の出るアニメーションにとって、是が非でも実現しなければならないもの」であり、「現在の日本のアニメでリップ・シンクが実現されていないことのほうが、アニメーション史では例外的なできごと」だと位置づける彼は、その例外を成立させる一因として「洋画における吹替」と「アフレコ」の同型性を挙げる。

外国語を話す口の動きに日本語をあてるのだから、当然、声と口とはあちこちで動きが合わなくなる。わたしたちは長じるに従って、こうした不一致をある程度無視して感情移入できるようになるけれど、感嘆詞や語尾の伸びなどで見事なまでに一致すると、目の前の身体がやけに不似合いな声をあげているように感じて、思わずおかしくなることがある。吹替文化におけるこのような声と身体との違和感は、アニメのアフレコがもたらす声と口のずれがもたらす違和感を彷彿とさせる。(pp.322-323)

まず英語の音声に併せてアニメーションが製作され、それを「吹替」えて歌われる『Let It Go ~ありのままで~』は、まさに同書の議論に当てはまる。先に触れた「エルサの唇が日本語の歌詞と一致していないという、あまりに当然の事実」は、「注意深く『アナ雪』を見」ない限り、「ある程度無視して感情移入できる」というわけだ。
だがエンディングで再度歌われる『Let It Go ~ありのままで~』は、同じ曲が別の声で歌われる可能性を示すことで、声と身体との一対一の対応を崩し、吹替が、あるいは「リップ・シンク」という技術が「無視」し、抑圧していた「不一致」を現前させてしまうことになる。その結果『アナ雪』を視るものの「感情移入」が阻害され、それがいま一人の歌い手に対するバッシングとして噴出する。昨年起こったもう一つの「アナ雪フィーバー」は、このように整理されるだろう。対照的に、一度として歌い手としての自身の姿を、同じ声が違う唇から出る様を見せなかった松たか子は、声と身体の一対一対応に(おそらく自覚的に)忠実だったと言える。

だがしかし、である。そもそも声と唇の関係は、それほど容易に一対一に結び付けられるものだろうか。ある映像に、ある声が当てられ、その声は映像=唇とリンクする。われわれはその唇=身体からその声が出ていると錯覚し、歌い手への「感情移入」が可能になる。だがその一方で、われわれはまさに「カラオケ」のようにその歌を口ずさむ。現に「アナ雪フィーバー」と呼ばれた現象は、「レリゴー」というその声が、われわれの唇にのぼることによって支えられていた。そのとき、われわれは、エルサが上げた声を自身の唇に奪っているのではないか。あるいは反対に、エルサの唇に自らの声を託してはいるのではないか。その時唇は、自己と他者が交じり合う、非人称的な場へと姿をかえる。

唇と唇の間には何があるのか。上唇と下唇の間にのぞいているもの、それは裂目であり、間隙であり、空虚であり、あたりにぼんやりと滲み出している不分明な境界地帯である。〔…〕それでは、上唇と下唇の間ではなく、わたしの唇とあなたの唇との間には何があるのか。同じである。裂目、間隙、空虚、不在。すなわち、これでもなくあれでもない中間地帯、ここからそこへの終わりない道程における絶えざる〈中途〉、隔てられてもいず密着してもいない純粋状態の〈間〉。〔…〕〈間〉とは、自分自身が引き裂かれることによってしか在ることができない逆説的な空間、存在と存在とを隔たりによって結びつけている口唇的な関係性のことなのである。(松浦寿輝『口唇論』pp.8-9)

唇と声にとって重要なのは、その一対一の対応であるよりも、むしろその〈間〉である。細馬もまた「リップ・シンク」について、それが同期する「口パク的」なパフォーマンスにおいては「身体は声の主に偽装」し、それが崩れる「アテレコ的」なパフォーマンスにおいては「目の前の身体」が「この世ならぬ者らしさ」を獲得することを論じていた。その各々を説明する余裕も紙幅もここにはないが、重要なのはそのいずれもが、一対一の声と唇を超えて、別の事物(「偽装」される対象/異界)へと接続されていることだ。つまり唇は常に、ほかの唇に向けて開かれている。だからこそ『アナ雪』は、劇中歌と主題歌の歌い手を分け、声を複数の唇へと開くことを企図したのではないか。
そのことは作中において、例えばアナと冒険をともにする「クリストフ」が、ペットのトナカイ「スヴェン」に声を当てて、一人でデュエットを歌う、というシーンに現れる。そこではトナカイの声ならざる声が、歌い手クリストフの唇を介して現前する。あるいはエルサとアナが対峙するシーンでは、二つの声と唇がひとつのメロディーを歌い上げることで、その媒介=〈間〉を通して主張を争わせる。その結果、エルサの声が旋律を勝ち取り、その「やめて! I can’t!」という声が魔法の氷となって、アナの身体を貫くだろう。そもそも『Let It Go ~ありのままで~』自体が、エルサの身体=ひとつの唇のうちに抑圧されていた、もうひとつの声の発露であったはずだ。
ことほど左様に、『アナ雪』における「リップ・シンク」は、ひとつの声と唇においてではなく、その〈間〉の、複数の声と唇たちの(非)同期=「シンク」として引き起こされる。だからこそ『Let It Go ~ありのままで~』は、ふたりの歌い手の二つの唇によって歌いあげられなくてはならなかったのだし、その歌は文字通り、あれほど人口に膾炙したのである。だからここで、ひとつの事実に気づくことができる。May J.にあてられた「カラオケ」という評価は、むしろ的を射ていたということに。ただし、心を凍らせる呪いの言葉ではなく、氷を溶かす「真実の愛」の声として。

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