印刷

夜の果てへの踊り

街の灯と打ち上がる花火、鳴り響く音楽を背景に、狂ったように男女が踊る。ただそれだけの出来事であるのに/あるがゆえに、その映画を見る誰もに圧倒的な強度で印象を与える。『ポンヌフの恋人』のダンスシーンは、ほぼ全編の中央に置かれ、文字通り作品の山場を成している。
だからその光と音と人の美しい一致に次の問いを投げかけるのは、その印象に水を差す行いでしかないのかもしれない。しかし作品の山場であるこのシーンは、『ポンヌフ』という作品自体の構図に関わる以上、その問いを発することは無駄ではあるまい。それにしても、一体なぜ二人は踊っているのか。
筋を追おう。本作の主人公は二人、路上生活者の大道芸人「アレックス」と、失明寸前(左目は既に盲ており、右目の視力も徐々に失われる)で家を飛び出した絵描き「ミシェル」である。彼らはアレックスが暮らす、改修工事のため閉鎖されたパリの「ポンヌフ」(「新しい橋」の意)で出会う。上のダンスシーンはその橋の上で、二人が共に酒を飲み交わした酩酊の中、「革命200年祭」の花火と音楽に合わせて行われる。
そのダンスは繰り返すが、映画表現からすればむしろ必然的なものですらある。音と人は完璧に同期する。式典の音楽と思しきアコーディオンが、ミシェルが歩きだすのにあわせて高まっていき、彼女がアレックスのいる場所に辿り着いてターンし踊り始める時点で『フランク・ブリッジの主題による変奏曲』に切り替わる。その直後に彼女の動作が激しくなり、同時にアレックスが踊り出すと音楽はイギー・ポップ『Strong Girl』へと変転し、興奮したアレックスが街灯にしがみつくとともにパブリック・エナミー『You’re Gonna Get Yours』のイントロへ移り、同じく橋の欄干に飛び乗ったミシェルが街灯に纏わり付いたテープを千切った瞬間にラップが開始される。ミシェルが欄干から飛び降りた刹那に始まる『美しく青きドナウ』は、一連の流れのクライマックスとして、抱きついた二人の円舞のBGMとなる。開始から終了まで約2分半、計算され尽くした音楽と動作の調和は、アレックスとミシェルの関係のアナロジーのようでもある。
だがまさにその完璧さゆえ、次のことには強く留意しなくてはならない。作中のパリの街には、これらの音楽は流れていない。実際、上の一連の流れの間も街のアコーディオンの音は僅かに聞こえ、途絶えることはない。だとすれば音との同期を、ダンスの理由にすることは出来ない(その大半はアコーディオンに似つかわしくないものである)。光と音と動きの調和は、映画表現の中でのみ構成される錯覚である。二人はなぜ踊っているのか。
補助線を引こう。時代も、場所も、印象も、『ポンヌフ』とは全く異なるチャーリー・チャップリン『街の灯』だが、ホームレスと盲目の少女の恋という一点において共通する構図を持っている。とすれば『街の灯』の構図を分析することで、同作を物語類型の一種の設計図として『ポンヌフ』に敷衍できるはずだ。
『街の灯』は、昼のパートと夜のパートがほぼ交互に映される、非常に単純な筋を持っている。昼、チャップリン演じる浮浪者は、盲目の花売りの娘に恋をする。彼女は車の音とともに現れた彼を富豪だと勘違いし、浮浪者は彼女の前で富豪を演じることになる。夜、浮浪者は泥酔して自殺を試みた金持ちの男を救け、彼と友情を結ぶ。この金持ちは浮浪者を金銭的に援助するが、酔っている時と素面の時で人格が変わり、目が覚めると浮浪者のことを忘れてしまう。
やがて浮浪者は、娘の目の手術費と彼女の家賃を捻出するべく金を稼ごうとするが失敗し、やはり金持ちの屋敷を訪ねて援助を受ける。しかしその際、偶然押し入った強盗が金持ちを気絶させ、意識を取り戻した彼が素面であったために浮浪者は強盗の濡れ衣を着せられる。彼はその場を抜け出し娘に金を届けるが、直後に強盗の咎で警察に連行される。
そしてラストシーン、服役を終えた浮浪者は、目が治り、花屋に雇われた娘に再会する。娘は富豪が自分を救けたと思っているため浮浪者をからかうが、彼に小銭を恵むべくその手をとった感触に全てを悟る。 ‘You can see now?’ という浮浪者の問いに彼女が ‘Yes, I can see now.’ と答えたところで映画は終わる。以上の筋が持つ構図を図示すると、次のようになる。っず

一見して分かる通り、同作の最大の特徴は、金持ちと娘が直截接触しない、という点にある。両者は浮浪者を橋渡しとして金銭をやり取りするのであり、浮浪者は両者の媒介として機能する。そして媒介は、媒介する二者の間の差異を解消する。娘は最終的に花屋に雇われ、作中金持ちが象徴していた安定した金銭の体系、資本に組み込まれる。それは昼の世界で一人盲目=闇に覆われていた彼女が、光の中へ参入する過程とパラレルである。タイトルに採られながら映されない『街の灯』とは、闇の中にいる彼女に光を齎す浮浪者のことに他ならない。
しかし差異が解消されれば、その媒介は不要になる。光を手にした娘にとって浮浪者は、昼の金持ちにとってと同じく、文字通りの昼行灯となってしまう。したがって ‘Now I can see.’ とは、眼が見える(see)こと、もしくは援助者の正体が分かった(see)ことだけでなく、資本の中に参入し金銭を恵む立場になった自分と、そこから排除され自力で稼げない浮浪者との隔絶が今や明らか(I can sse now)である、ということを意味する。『街の灯』は視野から消えるべき存在となり、映画は終わる。

ではこの構図を元に『ポンヌフ』の分析に戻ろう。するとまず、構図の根本的な差異に気付かされる。ミシェルとアレックスには、彼らを援助するような金持ちがいない。したがって、図の上項は消え去ることになる。つまり浮浪者=アレックスは、両項の橋渡しとしては機能しないのだ。ここで、アレックスたちが暮らす映画の舞台がポンヌフ=橋であることはもちろん偶然ではない。同作におけるその場所が、工事のために閉鎖されていることを再び指摘しておこう。つまり『ポンヌフ』におけるポンヌフは、 橋(ポン) として機能しておらず、交通=媒介は滞りを見せている。図2
そして橋であることを奪われたポンヌフが示すのは、金銭の交通から弾かれた浮浪者たちの「家」として相貌である。作中アレックスが何度も口にする「橋へ戻る」の言葉は、その事態を端的にあらわしている。交通の場所ではなく留まるべき家となったポンヌフに象徴されるように、「ポンヌフの恋人」は排他的な二者関係に留まるのだ。
そして明らかにアレックスは、自らの生活が他所との交通に相容れないことを自覚している。それが顕著になるのは、ミシェルが稼いできた金(その手段については後述する)をアレックスが河へと落とすシーンだ。彼は、「一万近くある」「これだけあれば快適に暮らせる」「橋の上も夏はいいけど…」と言いながら体操を始めたミシェルの手近の欄干に金の入った缶を移動させて彼女の腕をぶつけ、事故に見せかけそれを破棄する。金は社会との媒介となり、「橋の上」から二人を連れ出してしまうからだ。アレックスにとって橋以外の家は無く、橋は家以外の何物でもない。
だとしたらその(非-)橋を目一杯に使い、街のアコーディオンとはむしろ無関係に行われる件のダンスシーンは、街=社会をながれる音楽と二人の不調和こそを示している。あの一連の変転する音楽は、ともに酩酊する二人のあいだでのみ鳴り響いているわけだ。さしあたりその不調和の表明が、二人のダンスの理由と言えるだろう。
しかし街=社会との切断を示すためにはより端的に、式典など無いかのごとく踊らずに眠ってしまう、ということも出来たはずだ。にもかかわらず、二人は眠りをも拒むかのように踊り続ける。その理由自体は容易に指摘できる。アレックスは不眠症に設定されているのだ。だがその理由は作中、一切明かされることがない。なぜ彼は、眠れずにいるのだろうか。
再び『街の灯』の図を参照すれば理由は明らかである。チャップリン演じる浮浪者が盲目の娘と金持ちから求められるのは、かたや「闇」の中であり、かたや「夜」においてだけである。そして先述したとおり、「光」を取り戻した「昼」において、「灯」たる浮浪者は受容されない。金持ちの人格が切り替わるのが、眠りにおいてであったことを想起しよう。
だからアレックスは、眠ることが出来ない。眠りは夜と昼とを繋ぎ、媒介してしまうからだ。このことは先に触れたミシェルの集金方法が、アレックスの睡眠薬を用いてカフェを訪れる金持ちたちを眠らせる、掏摸であることからも裏付けられる。その眠りを通して、貨幣は昼の世界から、二人の住む夜=闇の世界へと流れこむ。アレックスが眠りを受け入れられないのは、その貨幣を受け入れられないのと同様である。あるいはミシェルが初めてアレックスと出会う際に、彼の寝床で眠っていたことを指摘してもよい。ミシェルは眠りを通して、橋という家に参入する。ちょうど『街の灯』の浮浪者が、除幕式にモニュメントの上で眠っている状態で昼の世界に登場したことの裏返しのように。眠りとは夜と昼を通わせる、夢の浮橋である。
したがってアレックスとミシェルはその二者関係を保つために、二つの媒介を拒絶しなければならない。ひとつは、街とふたりを繋ぐ交通の拒絶。こちらは「ポンヌフ」を橋として用いる移動の拒否としてあらわれる。いまひとつは、昼と夜とを繋ぐ眠りの拒絶。こちらは睡眠という停止状態に陥ることの拒否としてあらわれる。だとすれば取れる行動はひとつ、その場に留まりつつ、激しく身を動かすこと、すなわちダンスだ。ダンスシーンにおいて二人は、ポンヌフを縦横無尽に行き来しつつ、橋を渡りきってしまうことだけはない。ポンヌフは移動の媒介から固定された舞台へと姿を変え、二人はポンヌフに、夜に、留まる。二人の踊りは社会からの、二重の切断の表出なのだ。
しかし、背景の夜空に浮かぶ花火と街の灯が示すとおり、その切断による二人だけの調和は、つかの間のものでしかない。ダンスシーンの直後に水上スキーに飛び乗った二人はセーヌ河に落下し、橋に戻ったミシェルは火が消えたように眠りに付く。そしてアレックスは、眠れないままで朝を迎えてしまう。踊りによって否認しても、人はいつか眠るし、朝は来る。ポンヌフの改修工事もやがて着工され、橋は橋としての姿を取り戻すだろう。
だから結局、『街の灯』の娘と同じくミシェルもまた、視力を取り戻す道を選ぶ。そしてそこにはやはり、眠りと灯=火が関わっている。
作品の終盤、街でミシェルの顔写真の張り紙を見つけたアレックスは、そこに「手術で回復の見込みあり」「大至急連絡を」の字を読む。彼はメトロの通路に並べられた同じ張り紙全てに火を付け、その運搬車を追って放火するが、その際に男を焼死させてしまう。アレックスは橋に戻り、ミシェルと抱き合うが、その際彼女が手にしていたラジオから、張り紙と同じ情報が流れてくる。彼女はアレックスの酒に睡眠薬を混ぜ、彼が眠りに落ちた隙に橋をぬけ出す。夜が明け、アレックスは連行される。ポンヌフに留まる者はいなくなる。
ここで彼女に光を齎す切掛けとなったラジオが、アレックスによって贈られたものであることを付言しなくてはならない。『街の灯』をなぞるように、彼はミシェルに光を送る「灯」となってしまう。彼の職業が、その場で飛び躍り=踊りつつ行う火吹き芸の大道芸人であることが、ここで活きる。その火=灯は夜闇に光を齎すが、その火=灯自体は夜闇に留まることでしか存在できない。昼が訪れれば、その浮浪者は犯罪者として逮捕されるだろう。『ポンヌフ』は明らかに『街の灯』の構図を反復している。
そして出所の後、二人が再会するという筋書きも共通である。場所は改修工事が終えられた、雪の降る夜のポンヌフ。通行人も車も立ち止まらず、交通=媒介が滞り無く行われる中、アレックスが雪に足を取られて転び、止まる。その先には別人のように身なりを良くしたミシェルが笑っており、次のカットで橋のベンチに留まる二人の姿が映される。通行人たちは去り、ポンヌフはダンスシーンと同じ、二人が留まるべき場所に復したかに見える。だがダンスの直前を反復するような酩酊と哄笑の後、不意にミシェルが「帰らなきゃ」と切り出す。光を取り戻した彼女には、橋の外に帰るべき家(目を治した眼科医の家であることが示唆される)がある。光を得た娘と、浮浪者との隔絶が今や明らかになる。アレックスは彼女に「ウソつき」と詰めより、もろともセーヌ河に落ちる。映画はバッドエンドを迎えたかに見える。
だがこのラストシーンは最後にもう一度変転を迎え、『街の灯』の構図をなぞることを避ける。二人は通りがかった船に救助され、その船主の老夫婦フランスの北の「果てまで」、「ルアーブル」まで行くと告げる。するとミシェルが、「私たちも」と答えるのだ。つまりミシェルは、家=光の世界へと帰ることを拒絶する。二人は船の上で躍り=踊り回りつつ、パリとポンヌフから離れていく。その街の灯にむけたミシェルの「まどろめ パリよ!」という叫びで映画は閉じられる。
一体、このミシェルの唐突な心変わりは何故齎されたのか。その間にあったのは、アレックスとの落水だけである。この落水には、先の水上スキーからの落水とは決定的に異なる点がある。それは、二人が落ちた水中が映されることだ。そしてその水中は光の差し込まない、闇の世界として撮られるのである。この場面は、どのような暗がり(例えば深夜の美術館)にも灯=火が灯っていた『ポンヌフ』における、殆ど唯一の例外である(もう一つの例外はやはり二人が躍り回る海の場面であり、この水はそれを反復しているともいえる)。つまりこの水によって、ミシェルは再び闇へと引き戻される。そして彼らを乗せた船もまた、ストーブの幽かな明かりを除き灯がないのだ。その船が向かうところは、橋=交通路が途絶える「果てまで」である。二人は夜の世界の中、媒介の閉ざされた新たな橋=家を目指す。彼らがポンヌフから離れることっで『ポンヌフ』は閉じ果て、新たな朝が訪れることはない。パリは眠りの手前でまどろみ続け、街の灯は消えず、そして二人は踊り続ける。図3

文字数:5836

課題提出者一覧