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誰か、女王を見守り給え

 

小説は科学技術(テクノロジー)と分かち得ない。そのことを証すには、テクノロジーの一語を語義どおり分別するだけでよい。その時 technologyは techno-logy へ、すなわち技芸-言語へと相貌を変えるだろう。これはほとんど、言語の技芸としての小説を示す一語ではないか。それ故、高度に進歩的な小説はどれも、技術と分かち得ない。その意味で、阿部和重『クエーサーと13番目の柱』ほど小説的な小説はない。そこで描かれるのは、あらゆるテクノロジーを駆使した「監視」の技術だ。
自らの苗字のイニシャルから「King」を自称する投資家「カキオカサトシ」は「Q」――「K」の対になるアイドル界の「Q」ueen であり、同時に決して近づけないスター=「Q」uasar である――と呼ぶアイドル「ミカ」の周辺情報の収集のため、元パパラッチの主人公「タカツキリクオ」を含むチームを雇う。カキオカの動機は、身辺情報を集めることで逆説的に接近不可能性を実感し、そのことで執着を保つという「天体観測者の愛」であり、HN「observer29」として情報を掲示板に晒し、スレッド住人に対し優越感を得ることである。
タカツキらの任務が「Q」の監視=観測である以上、そこには自然、チームメンバーに支給された「スマートフォン」を始めとし、「監視カメラ」やそのライブ映像を配信するウェブサイト、それをハッキングする「解析ツール」といった「文明の利器」が数多く登場する。とはいえこれらのテクノロジーが登場するから『クエーサー』が技術的な小説だなどと言いたいわけではない。重要なのは、彼らを取り巻く「状況」の方である。筋書きが進行するに連れ明らかとなるのは、タカツキらのチームがむしろ、監視される側であったことだ。彼らはカキオカに反感を持つ者たちによって、「observer29と愉快な仲間たちをモニターするスレッド」に行動を「実況中継」されていたのである。結果スレッドの住人たちはチームを追跡し、最終的に彼らの「黒いSUVが火だるまになり、大勢の見物人が歓声をあげている模様」が「YouTubeにアップロードされ」るまでにヒートアップする。
しかしここで起きているのは、視る側の視られる側への反転や監視の目の多数化というような、単純かつ古典的な状況ではない。留意すべきはむしろ、タカツキらもまたそのスレッドを(可能性としても結果としても)視られたことである。言い換えれば彼らは、彼らの監視行為自体に対する監視行為自体を監視することができた。つまり『クエーサー』においては、視るという行為自体を視ることが、自明の事態になっているのだ。
この状況は明らかに、近年生じたテクノロジーに根ざす特殊なものである。その特異さを視るには、近代監視システムの代表とされる「パノプティコン」を参照すればよい。円形の監獄の中心に監視塔が位置するその「一望監視装置」の最大の特徴が、監獄から監視者が視えないこと(に伴う視線の内面化)であるのは、権力論の常識に属する。その理念を体現するテクノロジーが「監視カメラ」である(からダミーが効力を持つ)ことも言を俟たないだろう。だが『クエーサー』においては、実際に監視される状況=実況自体が可視化される。そこではむしろ、視線は徹底的に外面化されている。
作中この状況が掲示板に代表されていたとおり、それはインターネットテクノロジーと分かち得ない。人々はカキオカと同じように、あらゆる対象に書き込みを、コメントを、レビューを、足跡を、いいね!を、ふぁぼを、+1を、その対象を視たという痕跡を残し、それ自体を視線に晒す。LINEの既読機能は最も先鋭化された例である。視るという行為自体を視る/視せることは、現在のテクノロジー状況における所与となっている。視るという行為が過度に可視化=過視化されれば、それは「炎上」(「黒いSUVが火だるまに」!)と名指される現象である。
そしてここにおいて、情報技術(technology)と小説技術(techno-logy)は重なりあう。主として2010年の出来事を描いた(作品は2012年初出)『クエーサー』の語りの最大の特徴は、タカツキらの行動を監視するかの如く、時間が分刻みで書き込まれることにある。以下はある章の始めだ。

二〇一〇年二月二十四日水曜日、午前五時十九分――多摩川の支流沿いに建つ賃貸マンション、六階西向きの角部屋。
ペンダントライトの灯ったダイニングルーム――Tシャツとパンツのみの格好のタカツキリクオが、スマートフォンでだれかといらだたしげに通話しながら室内をぐるぐる歩きまわっている。
カーテンの向こう側は暗い。
ダイニングテーブルの上には、すこやかプレーンヨーグルトの五〇〇ミリリットル・パックと果汁一〇〇パーセント・オレンジジュースの一リットル・パックに加えて、六〇〇グラムサイズのハチミツの瓶とヨーグルトを食べ終わったあとのガラスボウルが載っている。
テレビには朝の情報ワイド番組が映し出されている。天気予報によると、本日の都内は快晴、最高気温は摂氏一六度まであがる見通し――現在の気温は摂氏九度弱。(p.156)

このように、章の変わり目では例外なく、節や場面の切れ目でもかなりの割合で、日時と時刻が明記される。つまり『クエーサー』を読む者は、タカツキらの行動をスケジュール化できてしまう。そこにさらに場所、好みの食べ物、その日の気温までが書き込まれることで、タカツキらが情報技術によって「Q」とそのスケジュールを監視していたのと同じく、読者は小説技術によってタカツキらを監視することになる(さらに厳密に言えばタカツキを視ているのは匿名の語り手であり、読者はその監視行為を視ている)。
このように設定された2010年代的状況を描いた小説は、視ること自体を視る/視せるという技術が、どのように世界を構築しうるかを描くに至る。そしてそこには、あるオカルティックな技術が絡んでくる。『クエーサー』の序盤ではタカツキらの監視行為やチームの状況が描かれるが、全体の3分の1程度、メンバーの入れ替えが起きる時点で事態が動き、脱退する「ミドリカワ」と新メンバー「ニナイケント」がいずれも信奉する、「引き寄せの法則」というメソッドが登場するのだ。ニナイはその概略を以下のように説明する。

宇宙にはデータベースみたいなものがあって、そこにはこの世界で生じる、あらゆる出来事や物事の可能性がデータとして記録されていて、時々刻々と更新されているわけです。そしてその可能性のデータというのは、だれでも常に取りだして使うことができる。(略)そのときに、正しく願いさえすれば、その願望にいちばん近い可能性のデータがこの世界に引き寄せられて、実現するという運びです。(p.94 )

約言すれば、「思考は現実化する」。以降「Q」の監視の裏に、ニナイの目論見が平行する。彼は同じ日に生まれ、同時期に母親を交通事故で亡くした英国王子ウィリアムと自らの運命を同一視しており、引き寄せの法則を用いてダイアナ妃の自動車衝突を再現し、且つそこから彼女を救出することができれば、自らの母の死がなかったことになると考えている。そして彼の計画において、「クイーン」になり得た「プリンセス・オブ・ウェールズ」に相当するのが、彼女の丁度30年後に生まれた「Q」たるミカ、ニナイ曰く「波に乗りまくってる」「プリンセス・オブ・ウェーブズ」なのである。
ニナイの目的は、母親=ダイアナ=ミカの一項を救うことで連鎖的に母を取り戻すことにある。そのための技術が引き寄せの法則であるわけだが、その手法もまた視ることに関わる。その法則は、「思い描くイメージ」によってこそ効力を発揮するものだからだ。

宇宙のデータベースは、構文ではなくイメージによる抽出データの指定を好みます。そのためこちらが思い描くイメージがぼんやりとしたものになっていると、可能性を引き寄せる力はそれだけ弱まってしまう。(p.154)

しかし、この「イメージ」の可視化というメソッドを体現するのは、むしろ彼と対立するタカツキの方である。ニナイの、ダイアナ妃の交通事故の原因となった「パパラッチ」にあたる人物として自分がタカツキを引き寄せたとする発言に反発し、彼は目論見を阻止するべく動き出す。その彼は物語の当初「眼鏡の男」と称されていたが、ミドリカワから法則の話を初めて聞いた直後、突如として「眼鏡が無くても。はっきりと」見えるまでに視力が回復する。そしてニナイとの対決の際、彼は掲示板越しに「おれにはすべてのイメージが鮮明に見えている」とニナイに向けメッセージを送る。つまり両者の争いは、視ることをめぐる勝負になる。
無論彼らは、お互いが「Q」を視ている様も視ている。件の炎上によってチームが解散に追い込まれた作品の終盤、タカツキはスレッドを遡り、ニナイが「ヴォーン」という HN で書き込む、自分たちを監視するスパイであったことを視る。以降タカツキは、ニナイが傀儡としたカキオカの資産で実現し、撮影に託して事故を再現しようとする「映画のスケジュール」を、あらゆる手段で監視しようとする。ニナイもそれを前提に、掲示板に向け「ヴォーンよりパパラッチさんへ」というメッセージを送る。タカツキの返答は上のとおりだ。
つまり彼らの争いは、お互いが「Q」をめぐる未来のイメージ=「可能性のデータ」を観測し、それを相手に示し合うという、一種の「答え合わせ」の様相を呈する。そのことは、本文開始9ページ目から、既に予告されていた。

「しかし人間の科学の常識が、間に合わせの真理じゃなくなる日ってくるのかな」
「どうだろうな、そもそも神の視点に立てない以上、人間には真理を真理と判定する術がないからな」
「どういうことすか?」
「模範解答集がなければ、テストの答え合わせはできないだろ。人間は真理の模範解答を知らないんだから、答え合わせも不可能だ。」(p.12)

どれだけテクノロジーが発達しても、「神の視点に立てない」が故に「真理を真理と判定する術がない」人間は、仮の「真理」のイメージ=「可能性」を観測し、その過程を他者に視せることで、「模範解答」無き「答え合わせ」を延々と行う。実際、現実におけるいいね!にせよふぁぼにせよ、それがどれほど細やかなものであるにせよ、自分はその世界の見方(イメージ)を肯定するという態度の表明である。そしてその態度表明自体が可視化され、他者によって視られる。2010年代はまさに、自らの世界観(イメージ)が、あるいはどの世界観(イメージ)を肯定するかが、常に他者に視られうる時代である。
だから作品のクライマックスにおいて読者は、タカツキが世界の可能性を意志的に選択するのを視る。その瞬間は、「衝突事故を阻止するには物理的に間に合わないのは明らかな状況」の中、彼が「意志的なまばたきを」した直後に訪れる。

タカツキリクオを取り巻く世界は今、すべてが干渉縞に彩られて時間が止まっている。
そればかりか、当の世界は無数に分岐して展開してゆく可能性(シチュエーション)が折り重なる、ホログラムのような像として、タカツキリクオの目には映っている。
そこでは、ミカやニナイケントらの乗ったベンツS280がたどり得る、無数の可能性も折り重なってホログラムみたいに見えている。
そのなかには、大破したベンツS280からだれもが無傷で抜けだせる可能性も含まれている。
無数の可能性が織りなすホログラムに、しばし魅せられていたタカツキは、とうに決めてあったひとつの選択肢を選びとる――(pp.252-253)

あるSF作家はこう言っている。「このうえなく高度なテクノロジーはわれわれにとって魔法のようなものに思えるのだ。」と。視るというテクノロジーに一体化した彼は「魔法のよう」に、「奇跡的に」ミカを救い出し、読むものは小説(techno-logy)を通してそのイメージの選択自体を視る。そしてその時、小説というテクノロジー自体が、実際には起こらなかった可能性を選びとる「魔法」であることに気づかされるのである。

『クエーサー』が描く2010年(代)の状況は、世界を如何に視るか自体の可視化であり、その処方箋は、自らの意志でひとつの選択肢を選びとることである。だが、本当に? 結果だけを見ればタカツキは、ニナイの計画を明らかに完遂してしまっている。はたして「パパラッチ」が「Q」を助けるという可能性は、ニナイが引き寄せたものであったのか否か、タカツキは可能性を選択していたのか、させられていたのか――真理を真理と判定する術がない。それゆえこの『クエーサー』の監視記録を、視線に晒す。

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