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匿名批評家

私は今、「日本近代思想」を「批判的に論じ」るべくこの文章を書きだした。だがこの一文の時点ですでに、この「体験」は矛盾を含んでいる。「私」とはまさに「批判的に論じ」るべき「近代」の産物であったはずだからだ。無論、「他者の書物からの引用、他者の書物への参照」が禁じられている以上、西洋においてその「近代」的「私」の起源に位置する哲学者の名も、あるいは「日本近代」において「近代的自我の確立」を画策した(「私」?)小説家たちの名も引けない。しかし「引けない」として示唆すること自体が一つの「参照」の方式だとすれば、「私」はどのように「私」に、この「近代」的存在に属さない言葉を書くことができるのか。
つまりこの筆記は、二重の困難の「体験」としてある。一方で「私」に立脚して言葉を紡ごうとすれば「近代」に絡め取られ、他方で「他者」の言葉の「引用」もできない。この「二重の困難」を打破するためには、ダブルバインドの原因そのものを、すなわち「私」あるいは「他者」という概念自体を変革する必要があるだろう。そして「私」が「近代」の産物である以上、この試みはそれを「批判的に論じ」ることへと繋がるはずだ。
と、書きだしてはみたものの、その「ダブルバインド」自体は実は容易に解消される。上の「二重の困難」はその実、一つの困難が見せる表裏の両面であることが明らかだからだ。すなわち両者はいずれも、ある言葉を特定の個人=「私」に帰属するものと見做すこと、言い換えれば言葉の「私的所有」という発想を拠り所にしている。「私的所有」、それは言葉と物が「神」のものでも「王」のものでも「共同体」のものでもなくなった、「近代」に固有の概念である。つまりこの概念において、この試文の形式と内容が照応をみる。「近代」を「批判」すること、それは言葉の「私的所有」を回避することで可能となる。
だがここで再び冒頭の問いが回帰してしまう。一体、「私的所有」を離れて言葉とは何か。何をどう書きつけても、「私」が書いている以上、「私的」でない言語はないのではないか。
このアポリアを超克し、言語の「私的所有」を免れるための方策はおそらく二つある。一つには、「私」と「他者」の言葉を区別なく書きつけること。最早「引用」とも「参照」とも言えないほどに、無数の他者の言葉をあたかも自分の言葉であるかのように再構成してしまえば、その言葉は「私的所有」から離れたものになるだろう。「私」を憑坐とし、そこに「他者」の言葉を降ろすこの手法は、「近代」に対する「批判」になるはずだ。そしてこれは、単なる「近代」以前の回帰ではない。実際、現代のテクノロジーは「私」をメディア=メディウムとして「他者」と/の言葉を共有(シェア)することを常態化させた。そこでは逆に、「私」の言葉を「匿名」化することもまた容易である。つまりこの有りようは、技術が可能にした脱「近代」の萌芽としてある。
だが一方で、それが大小様々な「コピペ」、すなわち無断「引用」問題を顕在化させたことからも明らかなとおり、「近代」から見ればそれは「私的所有」制度の下でなされる剽窃=窃盗でしかない。そしてそのように見做された瞬間、その行為は「批判」としての力を失ってしまい、却ってオリジナルの「私的所有」権を強化することになる。倫理や制度が「近代」に留まったまま技術だけを更新しても、その試み自体が独善的=「私的」なものと見做されるわけだ。
だとすれば採るべき方策は、もう一つに限られるだろう。「他者」が「所有」する言葉の「共有(シェア)」が「剽窃=窃盗」に堕してしまうのであれば、反対に「言葉」によって「私」を「共有(シェア)」する他は無い。ここにおいてこの試文は、「私的」な「体験」を「論考」として「総合」するという当初の「課題」へと立ち戻る。そしてその「課題」文にはすでにこう書かれていたのだった。「言葉は〔……〕個人的なものであるとともに社会的なものである」と。だから「私」はこの試文という「困難の『体験』」を、「社会的なもの」にすることを試みなくてはならない。一体「私」はなぜこれほどまでに、「言葉と直に格闘し」ているのか。「私」が「言葉」によって「近代」を「批判」することは、なぜ困難なのか。
その理由は上で述べたとおり、「私」が「近代」を体現してしまうことにあった。「近代」を「批判的に論じ」るためには、言語の「私的所有」そのものを「批判」しなくてはならない。だがそのために「他者」の言葉を用いることはできない。「引用」はそれが誰かの「私的所有」物であることを認めることになり、「共有(シェア)」は現状では単なる「剽窃=窃盗」へと堕してしまうからだ。だから「私」は、「私的」な「体験」を、「社会的なもの」にまで抽象化し、それを「共有(シェア)」するほか無い。だがそこにはやはり、「近代」の産物である「私」が顔を出してしまう。
論理が循環し、出口が無いように見える。やはり「私的所有」を免れた「言葉」など存在しないのかもしれない。だが、本当にそうか。「言葉」が「個人的なものであるとともに社会的なものである」以上、そこには必ず「個人的」であるのと同じだけ、「社会的」な要素があるはずだ。というよりむしろ、「個人的なものであるとともに社会的なものである」という「言葉」はその実、だれにとっても先ず以て「社会的」なものとしてあるのではなかったか。「言葉」は必ず「私」に先立ち、人はそこに参入することで初めて「私」となるのだから。
つまり「言葉」はそもそも、「私」にとって外在的なものであったはずだ。だとすれば「言葉」の「私的所有」は、幻想にすぎない。だがその「幻想」自体が「近代的自我」を支えている以上、それを「自我」=「私的」な理性によって取り除くことは不可能である。言い換えれば今「私」が直面している「困難の『体験』」は、「近代思想」によってはそこから抜け出ることができない性質のものであり、だからこそ如上の論理の循環が起こる。だが「言葉」は「個人的」である以前に「社会的」なものであるという端的な事実を承認すれば、そこからは「近代思想」の、「近代的自我」の、言語の「私的所有」の枠組み自体を壊す、有効な「批判」が導き出せるはずだ。
先述のとおり、「私」は「言葉」を「私的所有」しているという「幻想」によって立ち上がる「近代的」な存在である。だがその「言葉」はつねに/すでに「無数の他者」たちのものであり/でしかない。つまり「私」という「個人的」な存在は、その実、「無数の他者」たちの「言葉」によって形成された「社会的」な存在である。あるいは更に端的に、こう換言してもいいだろう。「私」とは「他者」の「言葉」を、「剽窃=窃盗」するによって初めて生起する存在である。
これは重大な帰結である。「私」=「近代的自我」とは文字通り、「近代」によって見出された主体であった。にもかかわらずその主体が生成するためには、「剽窃=窃盗」という、「近代」的「私的所有」の侵犯が不可欠なのである。
この帰結において「私」は、「近代」を体現する存在から、その「批判」者へと相貌を反転させる。言うまでもなく、その回転軸となるのは「言葉」である。それは「私」が用いる点で「個人的なものであるとともに」、それを超えて「無数の他者」に属する点で「社会的なものである」。「私」はその「言葉」の両極の間で、真っ二つに分断(シェア)されてしまう。「個人的である」ことと「社会的」であること、「私」なにより「近代」の、その矛盾こそを体現する特異点としてある。
「近代」が外部の「他者」と出会うことによって逆説的に「私」が見い出されるという現象が様々なレヴェルで起こった時代であったなら、「批判」するべきはむしろその「近代」化の不徹底である。すなわち、「私」の外部ではなくむしろその内部に、しかもその起源に「他者」が位置することを否認し、「言葉」を「私的所有物」かのように扱うこと。「私」は「言葉」を紡ぐことで、その根源的な「剽窃」の自白によって、絶えずその「私的所有」権を犯し、「近代」を「批判」し続けている。

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