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空気がノイズで澱んだあとで――世界の終わりについて

「サブカル」という言葉がある。この言葉が「サブカルチャー」の略であり、そのジャンルが「ヘゲモニー」を失って生じた言葉であることは宮沢章夫『80年代地下文化論講義』に詳しいが、同書の中で「サブカルチャー」的なものの対極にあった「オタク」の文化もまた「サブカル」と呼称されるようになったことは興味深い。ヒエラルキーの頂点と底辺が、中間項によって一緒くたにされてしまったわけだ。無論、これは両者の混淆を意味しない。しかし、互いに交わらず距離を置いているはずの二つの世界が、同じ想像力で結びついていることは事実なのだ。その両方の世界を繋ぐのは、「音」である。より正確に言えば、「音」が世界と接続する装置になること自体が、二つの「サブカル」を接続する。
その一方は「セカイ系」と呼ばれ、他方は「青春パンク」と呼ばれる。
この両者は、同じ時代に出来した。「セカイ系」の代表作とされる『最終兵器彼女』は2000年に連載を開始したが、これは「青春パンク」バンドの登場と重なる(GOING STEADY がファースト・シングル『You & I』を出すのが1999年、ガガガSPがデビューしたのが2000年である)。そして両者ともに、「音」こそが「僕」と「君」を繋ぎ、そして「セカイ」を繋ぐのだ。
「君」と「僕」と「セカイ」が結びつく図式は「セカイ系」の定義として人口に膾炙したが、そこに「音」の介在があることは見落とされている。例えば主人公「シュウジ」の「彼女」である「ちせ」がなぜか「最終兵器」に改造され、「セカイ」を巻き込む戦争に駆り出される『最終兵器彼女』のサブタイトルが、「THE LAST LOVE SONG ON THIS LITTLE PLANET」であることは殆ど言及されていない。コミックス版で 300 ページ超の第7巻は「ラブ・ソング」と題された最終章で占められ、そこでは「ちせの生きている音」が「うた」としてシュウジに伝わるだけでなく、ラジオから流れる正体不明の「うた」が戦下の「セカイ」を繋ぐだろう。他方で序盤から「普通の人とちょっと違う」とされる「シュウちゃんの心臓の音」はラストシーン、兵器として進化を続け最終的に宇宙船となった(!)ちせへとシュウジが乗り込む際の鍵となる。遡れば、ちせが戦争に巻き込まれるのは「ポケベル」の呼び出し「音」を介してなのであった。つまり「セカイ系」において「君」「僕」「セカイ」を繋ぐのは、「音」に他ならない。
そしてこの接続を異なるベクトルで、もう一方の「サブカル」の領域で追求したジャンルこそが、「青春パンク」である。特に、 GOING STEADY を前身として2003年から活動を開始したバンド、銀杏BOYZはもうひとつの「セカイ系」というべき世界観を持っていた。なにせそのファースト・アルバムのタイトルは、『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』なのだ。このタイトルは『最終兵器彼女』や、主人公の彼女が宇宙戦争のパイロットに選ばれる新海誠『ほしのこえ』と明確な平行線を成す。『ほしのこえ』が銀杏BOYZ結成の前年の作品であることは偶然ではないだろう。
そのバンドは「音」に乗せ、「君」と「僕」の、「世界」を巻き込む「ラブ・ソング」を歌う。実際、彼らの初期の曲の殆どにはその三つの単語が出現するのだ。一例を挙げれば、「君」が「遠い街へ転校してしまう」事態は「世界の終わりだ 第三次世界大戦だ」と受け止められ、「君を連れ去って」しまう「君のパパ」は「ヒットラーみたいな奴」になってしまう(『あの娘に1ミリでもちょっかいかけたら殺す』)。そのようなアルバムにおいて、先に触れた『YOU & I』は『YOU & I VS. THE WORLD』へとリタイトルされる。
あるいは『援助交際』では、「あの娘が淫乱だ」という「悲しい噂」が「世界が滅びてしまう」ことに直結するが、「君の事が大好きだから僕は歌う」と歌うことでその「恋のメロディー」は「眠れない夜を優しく包む」。現実の如何にかかわらず、「歌」が「君と僕」を想像(妄想?)的に繋ぐ限り、「世界」も「滅びてしま」わずに済むというわけだ。「イヤホン」を「耳に当て」ると「天の川の声」(=ほしのこえ!)が聴こえ、「世界の終わり来ても僕らは離れ離れじゃない。世界の終わり来てもきっと君を迎えにゆくよ」と歌われる『夜王子と月の姫』は、あまりに「セカイ系」的な曲である。
このように銀杏BOYZは、「セカイ系」におけるのと同じ役割を持つ「音」を、現実世界で鳴らす。一見逆説的だが、「青春パンク」一般において音響技術が重視されない理由もここにある。その「音」は「君」と「僕」の間でさえ響いていれば、無媒介に「セカイ」に繋がる。したがって、その「音」が他者と比べて上手いか否かは問題にはならないのだ。「ハロー、今君に素晴らしい世界が見えますか?」という歌は、「君」だけに届いていればいい。
以上のように、二つの「サブカル」の間では、「セカイ系」的な「音」への信仰が通底していた。だが「音」が繋ぐ「セカイ」への一体化は今、明らかに危機に瀕している。「セカイ系」作品は姿を消し、銀杏BOYZの最新アルバム『光のなかに立っていてね』からは「世界」の語が激減する。しかもそこで鳴らされる「音」は、ノイズに塗れているのだ。そしてなにより、銀杏BOYZからはこのアルバムを以って、四人中三人のメンバーが脱退する。この変化の意味を知るためには、「セカイ系」がどこへたどり着いたのか、その足取りを探る必要がある。

とはいえ、そのゆくさきは知れている。「セカイ系」は「空気系」(=「日常系」)へ辿りついたことは既に誰もが指摘するところだ。「君」と「僕」が「セカイ」と直結するのであれば、「君」と「僕」の周辺自体が「セカイ」となる。その時もはや、「セカイ」は必要無くなる。「セカイ」は「空気」へと消化=昇華され、「日常」の中に充満している。
そしてその転換点には、やはり「音」が関与していた。宇野常寛『ゼロ年代の想像力』が指摘するとおり、「セカイ系」の極点にあると同時に「空気系」の先駆けとなる作品『涼宮ハルヒの憂鬱』では「学園祭のステージでの熱唱」が一つの山場となっている。詳述はしないがハルヒは「『神』に等しい力を持つヒロイン」であり、ここでもやはり「音」が、「セカイ」と「学園」=「君」と「僕」の周辺を繋ぐ。だがその「ヒロイン」が「神」ではなく、普通の女子高生だったら? その時、「セカイ」への回路は切断され、「日常」が姿をあらわす。『けいおん!』という姿を取って。
だが、2009年にアニメ化されたこの作品ついて、語れることは少ない。語ることの少なさ自体が同作の最大の特徴であるからだ。そこでは軽音楽部の少女四人の「日常」が、「空気」のように流れている。かつて「セカイ」を繋いでいた「音」は、部活という「僕」の周囲だけを繋ぐ。より正確に言えば、その「日常」だけが「セカイ」となったのだ。だからやはり山場となる最終回の「学園祭のステージ」では、当初目標にされていた「武道館ライブ」が、「今いるこの講堂がわたしたちの武道館です」の一言に回収される。そこでは「学園」の外部は常に捨象され、「日常」の内部に回収されるのだ。「音」はもはや「僕」の周りの「空気」だけを震わせる、軽くて楽しいものである。
しかし言うまでもなく、この部活は虚構上のユートピアに過ぎない。彼女たちのバンド名になっている「放課後」の「ティータイム」が可能なのは、メンバーの「琴吹紬」家の現実離れした財力があるからだ。彼女は作中二度、合宿の為の別荘を提供しもする。そもそも主人公「平沢唯」がギターを買えたのも、楽器店が琴吹家の系列(!)だったためである。軽音部が外部を見ずに自足していられるのは、むしろ彼女たちが外部からの恩恵を誰よりも受けているからである。「日常」は文字通り、現実離れした世界である。
そしてこの乖離こそ、銀杏BOYZの変転の理由が関わっている。ヴォーカルの峯田和伸はあるインタビューで、「自分たちを共依存関係に陥らせる〔……〕人体実験みたいなことをしていましたよね。」という問いに対し、「4人だけで結界をつくって、風通しを悪くして、そこから生まれてくるものが〔……〕その澱みこそが〔……〕武器になるんじゃないかなって思ったんだ。」と答えている。「共依存」的な「4人だけ」の「結界」、これは明らかに外部から隔絶された『けいおん!』的な「日常」と相似形である。実際峯田は、「4人だけ」の時間を「青春」に準えてもいた。
しかし彼らに、琴吹紬は居ない。だから峯田の言葉を引けば、彼らは「ロマンと現実との間で戦」わなくてはならなかった。その戦いの結果、メンバーは次々と脱退していく。「音」は現実世界では、もはやメンバー=「僕」と「君」さえ繋げない。だがその「空気」の「澱み」自体を武器にして、新たな「音」が奏でられる。『光のなかに…』のノイズは、その実践としてある。

だが、話はそれだけでは終わらない。『光のなかに…』では前半部のノイズの後、『新約 銀河鉄道の夜』に始まる極めて美麗な楽曲が収められているからだ。つまり彼らは、ノイズに行き着いた「日常」の、何らかの形での更新を試みている。
ここで興味深いのはこのアルバムからやはり一年ずれ、もう一方の「サブカル」において「セカイ系」-「空気系」を更新する「音」が登場したことだ。2015年の春に放送された『響け!ユーフォニアム』がそれだ。『けいおん!』と同じ京都アニメーションによって制作され、高校の吹奏楽部に取材した同作は、明らかに「空気系」と一線を画すことを企図している。その部活動は、「全国大会出場」と「楽しくやること」の二者択一のうち、後者を切り捨てることで幕を開けるのだ。だから主人公「黄前久美子」が「本気で全国行けると思ってたの?」と失言し同級生「高坂麗奈」の激昂を買った中学時代は、「武道館」を目標に掲げた『けいおん!』的な「空気系」を暗示している。
そしてより重要なのは、その決断が「多数決」という政治的プロセスを経て下されることだ。つまりそこでは、「君」と「僕」が「セカイ」と繋がる為に、あるいは「空気」を保つ為に排除した外部=「社会」が復活をしている。四人の軽音楽部とは異なり、六十人超の吹部は一つの「社会」である、作中そのことは「パーリー(パートリーダー)会議」や「係」の描写を通して再三示される。彼らははじめから繋がった存在ではなく、役割を担って「社会」を繋ぐ存在である。
だから『ユーフォ』の部員は、徹頭徹尾思考が読めない。久美子は幼なじみの先輩「葵ちゃん」が部活を辞めそうなことを見抜けないし、オーディションで負かした「夏紀先輩」からの呼び出しの真意も分からない。優しい顔でスパルタな「滝先生」に対し部員全員が疑心暗鬼になりもする。作中もっとも飄々とした人物として描かれる「あすか先輩」に至っては、最後まで心の裡を明かさないまま物語の最後を迎えてしまう。極み付けに久美子は、上の一件以来避けていた麗奈から「愛の告白」を受けてしまうのだ。
その「愛の告白」の裏では、久美子の幼なじみ部員「塚本修一」への、友人部員「加藤葉月」の「告白」が行われていた。これ自体どうということはない。葉月は普通に告白して振られる。問題はそれをけしかけた「川島緑輝(サファイア)」の方である。「すべての音楽は恋から始まる」と葉月に訴える彼女は、一話で「音楽はいつだって世界中の人々の心に訴えることができる、強力な言語のひとつだって信じてる」と語っていた。つまり緑輝だけは「音」を、「君」と「僕」と「セカイ」を繋ぐものと「信じてる」わけだ。だがその幻想は葉月が振られたことで崩れ、緑輝はスランプに陥る。「セカイ系」的存在である彼女には、「僕」の想いが「君」に届かない事態は本質的に想定外なのである。
このように『ユーフォ』において、「セカイ系」的な繋がりは通用しない。だから『けいおん!』部員を繋いでいた心内語(彼女らはそれで会話すらする)は、久美子の失言癖として、矯正の対象に転化される。麗奈のセリフに現れるとおり、久美子もまた「いい子ちゃんの皮」を被っているわけだ。部員たちは、バラバラの存在であり、互いに、「セカイ」に、繋がっていない。
だからこそ彼女たちは、「音」を練習する必要がある。個人練習から始まって、二人で合わせ、パート練習をし、合奏へ。「音」はもはや無条件に「君」と「僕」を、「セカイ」を繋がない。それでも、なんとか他者に、「社会」に接続するために、彼女たちは練習をする。これは『けいおん!』に練習風景がほぼ無かったことと好対照をなす。「音」は無条件に繋がるものから、努力して繋げるものへと変化した。だから「青春パンク」とは異なり、そこでは演奏技術が問題になる。「社会」と繋がれているかどうかは、「音」の美しさによって測るしかないからだ。
おそらく、銀杏BOYZが辿り着いた境地もここにある。アルバムのリード曲である『ぽあだむ』は、「君」と「僕」について歌う。だがそれは、「6時から計画停電! さみしーから手繋いで!」という歌詞のとおり、「社会」の中でなんとか「繋」がろうとする「君」と「僕」である。だから『光のなかに…』の最後の曲は、『僕たちは世界を変えることができない』と題されている。僕たちは世界を変えることができない、なぜなら「空気」にはノイズが入り、「僕たち」は「セカイ」と繋がってなどいないことが露呈してしまったのだから。それでも僕たちは努力して「音」を繋げ/「音」で繋がらなくてはならない。銀杏BOYZはこのアルバムで「青春が終わっ」て「音楽」が始まったという。その「音楽」の美しさが今、「セカイ」が終わったあとの希望である。

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