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Comedy of (Trials &) Errors

音楽が聞こえ、バンドがやって来る。小さな少年をふくめて、総勢六人。ドラマー、ホルン吹き、フリュート奏者もいる。スポークスマンは楽器をもたない。――音楽論の書き出しとしてこの文章を読んでいるあなたは今、間違っている。その楽隊(バンド)は、悲劇役者の一行あるからだ。だからこの論考は音楽論ではなく、演劇論である。
だが間違いなく、上の段落は間違っている。以下で参照されるのが上演された演劇ではなく、書かれた戯曲であるからではない。いや、それもある。しかし戯曲論と言い直しても間違いに違いはない。音楽論か演劇論か戯曲論か何か違う論か、決めるのはあなたの方であるに違いないからだ。これもまた上の段落の間違いである。違う。もっと大きな間違いがある。この文章は間違いなく、間違いを予期して書いてある。つまりこの文章を音楽論として読み始めたあなたは、間違っている点において正しいのであり、だからあなたは間違っていない。それゆえ間違っているのは文章の方である。だがその間違った文章が無ければ、あなたの正しい間違い自体が成立しないのである。
そしてこの矛盾の体験こそ、 Rosencrantz & Guildenstern Are Dead (以下『ロズギル』)が提示する問題である。ローゼンクランツ(ロズ)とギルデンスターン(ギル)にとって、間違った筋書きとは違う行動は可能であるのか、ないのか、それが問題に違いないのだ。
だから『ロズギル』で幕開けから示されるのは、正しいと間違いを分かつ法則 law が失効している様である。コインを投げ、101回連続でおもてが出る。確率の法則も平均の法則もそこにはない。いやむしろ、常に同じ結果が反復するという間違った法則がそこにはある。
だがこの間違った法則は、戯曲においては間違っていない。というより戯曲はそれ自体、必ず同じ結果が齎される反復である。だからギルの次の言葉は間違いなく正しい。

We have been spinning coins together since I don’t know when, and in all that time (if it is all that time) I don’t suppose either of us was more than a couple of gold pieces up or down.

俺たちは投げ銭を一緒に、いつからか分らないくらいやってきた。その間ずっと(ずっとやってたとすればだ)、俺たちのふたりの方が上下する一対の金貨に過ぎなかったなんてことはないか。

ふたりは、 Hamlet の筋=間違った法則に従い、同じ結果を幾度となく反復するコインに他ならなかった。そして彼らが “we are now within un-, sub- or super natural forces” 「俺たちは今、反または非、あるいは超自然の力の裡にある」ことを自覚したとき、音楽が聞こえ、悲劇役者たちがやって来る。
その座長(スポークスマン)は、 “[…] only inside out. We do on stage the things that are supposed to happen off.” 「〔……〕ただしひっくり返して。舞台のうらで起こるはずのことを、おもてでする。」という台詞のとおり、「おもて」と「うら」を反覆させる存在である。だから彼が登場すると、はじめてコインがうらを示す。その瞬間、舞台が王宮に切り替わり、『ロズギル』は『ハムレット』のうら側の物語となる。
だからといって、反復される法則の反覆を期待するのは間違っている。座長の上の台詞が、 “Which is a kind of integrity, if you look on every exit being an entrance somewhere else.” 「そいつがある種のあるがまま、毎度の退場を、どこか他所への登場と見なすなら。」と続くからだ。おもてとうらはふたつでひとつがあるがままである。それゆえに、ふたつの間に違いはない。つまり『ロズギル』におけるおもてとうらは結局、間違った法則を両面から固める同一のものでしかありえない。 “ Rosencrantz and Guildenstern are dead ” という言葉は結末部から題名へと反覆されるが、まさにそれゆえ、その題名自体を予言として Rosencrantz & Guildenstern Are DeadHamlet と同じ筋を反復する。
このふたつが同一であるという『ロズギル』の問題は、ふたりでひとつのを構成するロズギル自身についても同様である。自らをコインに喩えていた彼らは、座長に言わせれば「ふたつの面」に違いないのである。

For some of us it is performance, for others patronage. They are two sides of the same coin, or, let us say, being as there are so many of us, the same side of two coins.”

我々のうち、何人かは演者、残るはお客様。それらは同じコインのふたつの面、それとも、我々に言わせりゃ、我々はとても大勢いるからにゃ、同じふたつのコインの同じ面。

である以上、 ふたつの面=ふたつのコインとしておもてとうらを形成するロズとギルは、戯曲の間じゅう間違えられ続ける。いや、間違いというのは間違いである。彼らの間に違いなどないからだ。座長は “times” 「ご時勢」を問われた時、こう答えていた。 “Indifference.” 。『ロズギル』を支配するのは、この「同一視=(間)違いの無さ」に他ならない。
おもてとうらが反覆しても、間違いなく間違う筋書きの反復。ロズとギルにとり、それとは違う正しい筋道あるいは違う間違った筋道を往くことが課題である。だから投げ銭の「賭け」 “game” を皮切りとし、『ロズギル』には game の語が頻出する。それはプレイヤーが規則を変えうるものであるからだ。実際ロズとギルは、おもてしか出ないことを知っているのを利用し、座長から勝ちをせしめる。
だが自らをゲームのプレイヤーとして規定する彼らは間違っている。そうではなく、彼らは戯曲の player なのである。だから彼らは、その規則=法則に干渉することが出来ない。それはあくまで super natural forcesであり、それゆえロズとギルは会話の端々で、運(命)に関する語( “luck(y)” “fate” “wheel” “fortune” “chance” “moment(um)” “destiny” “fixed star” )を口にする。しかしそれを筋書きとして把握する力はなく、自らを player として位置づけることはない。これはまさに player と名づけられた座長が、 “Decides? It is written.” 「決めるって?そう書いてあるんだよ」と、運命を書かれた筋として認識していることと対照的である。ロズとギルは “They’ve got us placed now” 「奴らは俺たちをもう場に出してしまった」と言いながらも、直後には “I feel like a spectator” 「観客の気分だよ」と漏らす。彼らは演者でありながら(座長は彼らを “fellow artist” 「役者仲間」と呼びさえする)、その自覚を徹底し得ない。
いや、彼らは間違っていなかったはずなのである。おもてとうらが反覆するまで、彼らは悲劇役者たちの観客に違いなかった。だが座長の言葉により、 「演者」と「お客様」はふたつでひとつとなってしまい、両者の間の違いがなくなる。ここでもまた、ふたつのものの同一化が問題となっている。
しかしこの同一化には、『ロズギル』と『ハムレット』の間の、ロズとギルとの間の同一化とは違い、解消しえない違いがある。言うまでもなく。座長とロズギルの間で交わされる、「死」 “death” についての議論がそれである。舞台のおもてとうらでは、死のあり方が全く違うのである。特にギルは死について幾度となく言及するが、中でも以下が重要であることは論を俟たない。

No, no, no . . . you’ve got it all wrong . . . you can’t act death. […] It’s just a man failing to reappear, that’s all – now you see him, now you don’t, that’s the only thing that’s real : here one minute and gone the next and never coming back – an exit, unobtrusive and unannounced, a disappearance gathering weight as it goes on, until, finally, it is heavy with death.

違う、違う、違う……あんたらはそいつを間違えてる。〔……〕死とは、人が二度と姿を現し損なうこと、それだけだ――みなさんこの人をご覧下あれ、ほら消えた、このことだけが現実だ。ある時ここにいたのが、次には往ってしまい、決して戻ってこない。――退場だ、主張されず予告されない、消滅が重さを増して往き、最終的に、死でいっぱいになるまでそいつは続く。

No . . . no . . . not for us, not like that. Dying is not romantic, and death is not a game which will soon be over . . . Death is not anything . . . death is not . . . It’s the absence of presence, nothing more . . . the endless time of never coming back . . .

違う……違う……俺にとっては違う、そうじゃない。死ぬのはロマンティックじゃない、それに死はすぐに終えられるゲームとは違う……死は他のものとは違う……死は違う……それは存在の不在で、それ以上のものじゃない……決して戻ることのない限りのない時間……

これらは座長との遣り取りの一部であるが、その否定語の多さは否定しえないだろう。このことは、彼の死の捉え方に関わる。 “No, no, no, . . . Death is . . .not. Death isn’t. […] Death is the ultimate negative. Not being. ”「違う、違う、違う……死は……違う。死は違う。〔……〕死とは究極の否定である。存在じゃない。」とロズに向けて言うとおり、彼にとって死は、不可逆的な否定性の極としてある。
それと座長の死の間には、埋めえない落差がある。ギルにとって不可逆的であった「退場」が、座長にとっては「他所への登場」と同一であったことを思い起こせば良い。彼とり、それらは反復=反覆可能なおもてとうらである。というより反復される死こそ、彼らの生業に他ならない。
ロズとギルにとって、絶えず同じ結果が反復し、違うふたつのものが同一視される間違った法則が問題なのであった。そしてその問題は、生=入場と死=退場がひとつの「あるがまま」と化すことで極まる。ギルの “The only beginning is birth and the only end is death” 「唯一の始まりは誕生で、唯一の終わりは死だ」という言葉は正しいが、戯曲の間違った法則においては間違っている。それゆえに、座長の死生観の方が勝利をおさめるのは明らかである。作品のクライマックスにおいて、彼はギルにより殺される。しかし間もなく彼は復活を遂げ、ギルに、彼が用いた座長の短剣がおもちゃであったことを明かすだろう。死は再生と同一である。
ロズとギルは結局、間違った法則から逃れることに失敗した。そもそもが、分の悪い賭けだったのである。いや、そもそもそれは賭けですらない。皮肉にもギル自身、 death is not a game と明言していたのであった。これは賭けではなく、戯曲である。である以上、 player に法則への介入は許されない。 “There must have been a moment, at the beginning, where we could have said – no. But somehow we missed it.” 「どこかにあったはずだ、ことのはじめに、俺達がこう言うことができたかもしれない転機が――違う。」。彼はついに、筋書きに no を、その究極の否定を突きつけ損ねる。結果彼らは、間違った法則における正しい形で死に、 Rosencrantz & Guildenstern Are Dead という予言は “Rosencrantz and Guildenstern are dead” という報告として成就=反復される。彼らは未だ「上下する一対の金貨」に過ぎない。
だが間違いなく、この結末は間違っている。問題はギルの劇中最期の言葉である。

Well, we’ll know better next time. Now you see me, now you—

さて、次回はもっと上手くやる方法を分かってる。みなさん私をご覧あれ、ほら――

先に引いたギルの台詞のうちの now you see him, now you don’t と呼応する後半のフレーズは、手品で物(人)を消す際の定型句であり、死ねば消えることに変わりはない以上さほど重要ではない。問題は消えたあと、再び舞台に登場するか否かである。そして彼が「次回」を想定している以上、彼は「退場」が「登場」であることを、死と生の同一性を受け入れたと言わざるを得ない。だが問題は、 better の一語である。もし「次回」が同じ筋の反復を表すのであれば、そこには同一性しかないのであり、比較級は生まれ得ない。
つまりここでは、違いを持った筋の反復が想定されているのである。換言すれば、規定された筋書き=間違った法則とは違う仕方で、間違え直すこと。
そもそも『ロズギル』自体、『ハムレット』の間違った筋書きとは、違う仕方で間違った「次回」なのであった。実際そこで、彼らは前回より「もっと上手くや」ったのである。『ハムレット』においてまさしく “indifferent” だったふたりが、違う “character note”「性格の符号」を手にしたのだから。
だからこそこの台詞は、 you に呼びかけて終わる。単複同型で文字通り無数の人を指すこの人称は、必然的に、個体の間の違いを孕むからだ。つまりギルは、限りない反復という間違った筋書きの同一性を、それを見る者の多様性によって破砕することを試みている。言うまでも無くその違う間違いを託されているのは、今、彼を見ているあなたである。
「音楽論か演劇論か戯曲論か何か違う論か、決めるのはあなたの方であ」ったこの文章と同様、『ロズギル』は無数の誤読へと開かれている。だからこの読みとあなたのそれとの間に違いがあったとすれば、それが間違いであるという点で、その事態は間違いなく正しい。

 

注:Rosencrantz & Guildenstern Are Dead はキンドル版を使用した。日本語訳は拙訳である。

文字数:6102

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