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Because I could not stop for…

まず不意打ちのように、古代ギリシアと思しきアニメーションの世界へ放り出される。そこで展開されるのがタイトルに採られたパラドックスであることが判りひとまず得心がゆくものの、その解決は新たな、少なくとも二重の問いの開始である。すなわち、この寓話はなにを隠喩するのか。そして、アキレスは亀に追いつきうるのか。『アキレスと亀』は冒頭のこれらの問いにより見る者を、亀を追うアキレスと同じ宙吊りに置く。
そして昭和初期の日本へと見るものを放り、『アキレスと亀』はその寓意を、宙に吊られるモチーフによって明かす。主人公の父の首吊りがそれだ。養蚕によって富を築いた父親の庇護の下、少年「倉持真知寿」は画家を志す。しかし、蚕の全滅により会社が倒産した父は芸者と心中、以降『アキレスと亀』は、生活に困窮しつつ芸術を探究する真知寿の生涯を描き続ける。換言すれば、幸福に一致していた「生活」と「芸術」が首吊りをきっかけに乖離し、「芸術」のひと真知寿は文字どおり「生活」に追われる事になるわけだ。つまり『アキレスと亀』における「アキレスと亀」は、「生活」と「芸術」である、と言いうるだろう。
だから「芸術」のひと真知寿は常に、「生活」に遅延を引き起こす存在として描かれる。彼はスケッチのために電車やバスの前に立ちはだかりそれを遅らせ、引き取り手の叔父に言いつけられた雑務を止めて絵を描きだす。転入先の教員の「ちゃんとノートと教科書みんな出てるか?」という呼びかけに生徒が応じる中、彼ひとりはまだ鞄さえ降ろしていない(直後にやはり絵を書き出し、授業に遅れがでる)。続く二部の青年期で、「生活」のための新聞配達をスケッチによって滞らせてしまうことについても同断である。彼はのろまの亀だ。
それゆえに「アキレスと亀」の矛盾が生じる。彼は決して(理想のあるいは普通の)「生活」に追いつけずにいるわけではなく、単にそれに無頓着であるからだ。叔父の命令に顕著なとおり、真知寿にとっての「生活」はむしろ、むこうから迫って=追って来るものである。つまり「生活」は、自身より遅れている「芸術」のひと真知寿を捉えられず、追いつけずにいる。
このアキレス的「生活」のひととして、二部である青年期に出会い、続く最終部中年期まで伴侶となる「幸子」が登場する。彼女は自らには「才能ない」ものの「芸術家」には「あこがれちゃう」と真知寿に惹かれ、彼を追いかける。ふたりは結婚して娘が生まれるが、これはアキレスが亀に追いついた事を意味しない。中年期で描かれるのは、幸子に仕事=「生活」を担わせ、しかも彼女に頓着せず「芸術」に打ち込む真知寿の姿だからだ。つまり未だ、真知寿には「生活」が欠如している。それゆえ家庭「生活」もまた成立しえずに、業を煮やした娘は家を出て行くだろう。アキレスは亀に追いつけない。
しかし終盤に入り、事態は一変する。幸子が真知寿に向けて、「あんた、芸術やめないでしょ」という台詞と共に別れを切り出すのだ。亀が「芸術」をやめない限りアキレス=「生活」は破滅する。だとしたら残された選択肢は、レースそのものを降りることである。これに続くシーンでは、真知寿がトースターと時計を破壊し、作品に組み込む。「生活」は破棄され、「芸術」だけが残る。暴走する「芸術」のひとは、最終的に燃え盛る炎の中で絵を描き、大やけどを負って包帯から右目だけが覗く姿になるだろう。今や彼にできるのは、たまたま足元に転がってきた「コーラの缶」を「芸術」として蚤の市で売ることだけである。「芸術」の暴走は、「芸術」の不可能性へと辿り着く。
そしてそこに、幸子が再びあらわれる。彼女が真知寿に、「帰ろう」という「生活」へ戻るための言葉を掛ける結末において、「生活」=幸子と「芸術」=真知寿は再び首吊り以前の幸福な一致を見る。ここで宙吊りは終わり、それを維持し/それに維持されてきた映画も終わる。今やこの言葉が挿入される時だ。

そして、アキレスは亀に追いついた

 

――などというのはハッピーエンド至上主義的なおめでたい楽観にすぎない。確かに「この寓話はなにを隠喩するのか」と「アキレスは亀に追いつきうるのか」という「二重の問い」は解決され、宙吊りは終わったかに見える。だがそれは「少なくとも二重の問い」でしかなかったはずだ。そして実際、「アキレスと亀」の寓話には他の「問い」が存在しうる。その存在に気づいた時、『アキレスと亀』はその相貌を一変させる。すなわち、なぜ「アキレスと亀」は走っているのか。
アキレスについては一言でいいだろう。彼は亀に追いつくために走っている。では亀の方は?その「遅延」の象徴はなぜ、何に向けて足を進めているのか。「アキレスと亀」の矛盾に則るなら、無論、彼よりも遅いものに追いつくためである。それは究極の停止であるところの「死」に他ならない。
そもそも上述した宙吊りの始点から、その存在は影を落としていたのだった。だがそれが顕在化するのは、父の首吊りと対になる今一つの「死」、母の身投げによってである。真知寿はその葬儀で、半面が蒼白な、半面が赤く血塗れた母親の顔を覗き込む。ここで白い顔に赤い血という組み合わせは、白紙に絵の具を塗る「芸術」の行いとあまりに似るのだ。ことさら動性を糧とする動画メディアにおいて、絵画の置かれる停止状態は「死」に等しい。その類似ゆえ、真知寿はその死に顔を絵にする。中年期における娘の死の際、その「白」い顔に「赤」い口紅を塗りたくってデスマスク=「芸術」をつくろうとする場面は、明らかにこの反復である。
そして真知寿は、母の「死」を機にクレヨンを絵の具に持ち替える。「芸術」が決定的に「死」を指向した今、その道具は血の如き液体でなくてはならないからだ。絵の具=血という等式は逆に、アクションアートの如き「赤」い血をまき散らす「死」を「芸術」家たちに齎しもする。少年期の絵かき友だちの青年「又三」はバスをスケッチしようとして轢死し、青年期の芸術学校の友人はまさにアクションアートのために「白」い壁に車で衝突し事故死、それを受けた別の友人は「ピカソ」より「おにぎり」が優れているという(「芸術」と「生活」!)話を聞いた直後、「生活」より「芸術」をとるかのように身を投げる。
ここで見るべきは、そのいずれもが自動車事故か身投げ、つまり「衝突」による「死」であることだ。その向きが水平か垂直かはさして問題ではない。『アキレスと亀』において水平に追いつくことは、垂直に吊られることの終わりでもあるからだ。本作のタイトルロゴは、「アキレスと亀」が画面奥からスクリーンへと「衝突」することで、その血飛沫のように示されていた。そのような作品における「衝突」とは、「死」に追いついてしまうことの謂に他ならない。
だから真知寿が本格的に自身の「死」と「芸術」を結びつけるきっかけが、「衝突」で血塗れになった男の絵であることも、上述の幸子との別れが同時期であることも偶然ではない。「生活」を担う者は去り、「死」を目指す「芸術」だけが残る。そのひとつの到達点は、床と天井、「白」い壁をすべて「赤」い絵の具で塗りたくった部屋の中、黒い枠の前に座り、自身を遺影に見立てるというものだ。しかもその着想は、男に殴打され、「白」い紙に「赤」い鼻血が垂れたことで得られる(映画表現上では、この血の「赤」がCG処理され部屋中に広がり、真知寿が壁を塗るシーンは後から挿入される)。「白」と「赤」のモチーフにおいて、「死」と「芸術」はいよいよ結びついたかに見える。
にもかかわらず、真知寿が実際に死ぬことは無い。風呂で溺れ搬送されても次のシーンでは平常に復し、排気ガスで自死を試みても「ガス欠」で呆気なく助かってしまう。燃えあがる炎でさえ彼の命を奪わないことは先に述べた。その理由は明らかである。それらが「衝突」では無いからだ。「宙吊り」の開始以降『アキレスと亀』的世界における「死」とは、それに追いついてしまうこと以外あり得ない。「芸術」は「死」に追いつけない。
だが物語の最後に、速いものが遅いものに追いつくことは既に見た。「白」い包帯と「赤」い缶という死兆を帯びる真知寿の前に、再び幸子があらわれる。「帰ろう」と幸子は言う。だが、今さらどこへ?ここに来て、父の死が心中であったことが暗い影を落とす。ここで宙吊りは終わり、それを維持し/それに維持されてきた映画も終わる。今やこの言葉が挿入される時だ。

そして、アキレスは亀に追いついた

 

――などというのはバッドエンド至上主義的ないまわしい悲観にすぎない。要するにこの作品は、ハッピーエンド=「生」とバッドエンド=「死」が宙吊りのまま閉じられ(損ね)るのだ。「アキレスと亀」を巡る最後の問いが、ここに生まれる。すなわち、なぜ宙吊りが問題となっているのか。
その答えは、真知寿が監督北野武自身によって演じられていることに関わる。これにより、映画における絵画制作と現実における映画制作が重ねられ、「生活」と「芸術」と「死」が現実の問題となる。作中何度か用いられる、絵画のアップから徐々に引いていくカメラワークもまた、枠の外部を意識させる紋中紋として同様の働きを持つ。つまり『アキレスと亀』は「アキレスと亀」の主題を、現実にかかわる問いとして提示している。実際、「生活」に追われつつ「死」を目指すレースとは、端的に人生そのものではないか。
この構図において、「生活」=人生と「芸術」=映画は一致する。だがこの一致は、映画を見るものの「生」が同時に、緩慢な「死」と一致することをも示している。「死」に至るまでの「生」の宙吊り、その意味で、人生とはサスペンスの一形態である。
その観客であるかのように、真知寿が描いた母の死に顔は、こちらに向けて目を見開いていた。

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