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「君はヒーローになれる」――スマートフォンとルネサンスのあいだで

映画は今や、自身が「映画的」だと言われることに戸惑っている。「映画的なもの」は既に、そう言う世間の側にこそ溢れているからだ。「映画的なもの」とは「複製可能性」である。かつて映画は、彫刻と絵画に代表される「映画的でない」「複製不可能」な芸術作品と一線を画する形で、「複製可能性」をその原理として登場したのだった。

 今日ほど芸術作品の技術的複製が高度に、そして広範に可能となったことはかつてなかった。その芸術性格が徹頭徹尾、複製可能性によって規定される形式を、私たちは映画においてはじめてもっている。(ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』p.601)

 しかし「今日」から80年を経た今日、「複製可能性」はさらに「高度に、そして広範に」社会を埋め尽くした。原理的に「複製可能」なウェブの普及に加え、3Dプリンターの登場により、「複製不可能」な芸術の代表とされた彫刻においても「複製可能性」を前提としうるようになった。つまりかつて「映画的」とされた「複製可能性」は、まさに「複製可能」であるがゆえに、映画のプロパティを離れて世へ流通してしまったわけだ。人は今や、映画以上に「超-映画的」な、「複製過剰」とでも言うべき世の中に生きている。

 無論この「複製過剰性」は、映画の受容のされ方も変容させる。例えば、動画投稿サイトの登場による「複製可能性」(及び加工可能性)のさらなる増大と、それに伴う違法な「複製」の横行。流行した「NO MORE 映画泥棒」という悲痛な訴えは、映画の置かれた現状をよく反映している。「複製可能」な映画は今や、自身以上に「超-映画的」な、「複製過剰」な世の中に戸惑っている。

  そして映画には、この動揺を正確に反映するテーマがある。アメリカン・コミックのスーパーヒーローがそれだ。一事は、スーパーヒーロー自体が「複製」物であることに関わっている。

 好例となる作品として『マイティー・ソー』がある。同作において重要なのは、北欧神話の雷神が超人に翻案されて主人公に据えられていることだ。つまり同作は、「複製不可能」な神話――彫刻の主要な題材――を、「複製可能」な映画へと換骨奪胎した作品であるといえる。そしてこの構造は、スーパーヒーロー全体の構造と相似形である。ヒーローの第一義とは、他ならぬ神話の英雄であるからだ。神話の主神オーディンの息子である「ソー」に顕著なとおり、アメリカのスーパーヒーローとは神話の英雄(ヒーロー)の息子=「複製」として、その位置を代理し超越(super)(父殺し?)するべく捏造された似姿なのである。だからこそアメコミは現代版の神話としてナショナリズムと結び付くのだし、アメリカ映画の特権的な被写体として君臨してきたのだった。スーパーヒーローとはまさに、「複製可能」=「映画的」な英雄の謂に他ならない。

 しかし今日では、その「映画的」存在もまた「超-映画的」な世間からの影響を免れ得ない。『マイティー・ソー』では「ソー」が、「Face Book」に上げる写真のために笑顔を求められるシーンが挿入される。今やヒーローは、単なる有名人と同じくウェブによって「複製(シェア)」されうる、「複製過剰」な存在となりつつある。そして名声と「複製」の関係が、「有名だからシェアされる」から「シェアされるから有名になる」(「生主」「You Tuber」を見よ)へと移った時、そこには『キック・アス』が誕生する。

 『キック・アス』はまさに「複製過剰性」が産んだ(超-)スーパーヒーローである。「ソー」たち超人と異なり、「キック・アス」は特殊な力を一切持たない。スーパーヒーローに憧れる一介のコスプレイヤーだった彼がヒーローとして認識されるのは、暴漢と戦う動画が「You Tube」にアップされたからであり、「キック・アス」として「My Space」のアカウントを取得したからである。つまり同作は、「複製過剰」な世の中ではウェブで「複製」さえされれば誰もがヒーローになれるという、「超-映画的」状況を描いた映画である。そこでは英雄(ヒーロー)とは神ではなく、超人ですら無く、単に人間でしかない。

 したがって、彼が取替え可能な労働力として無限に「複製」しうるのは自明のことだ。続編『キック・アス ジャスティス・フォーエバー』では、「キック・アス」のフォロワーたちがマスクを被ってヒーローとして活動し、SNSを通じて「ジャスティス・フォーエバー」なるチームを結成するだろう。今やヒーローは「複製過剰」な存在となった。

 しかし無論、誰でも特別(ヒーロー)でありうるということは、本当の特別(ヒーロー)などいないことと同義である。である以上、作中「本物」と称されるスーパーヒーローたちは、『キック・アス』においても続編においても、死によって退場することになる。そのヒーローが、前者では「ビッグ・ダディ」、後者では「スターズ・アンド・ストライプス大佐」と名づけられていることはあまりに象徴的だ。かつて神話の英雄の「複製」として大文字の(Big)父性(Daddy)を担うアメリカの象徴(Stars and Stripes)だったスーパーヒーローたちは、「複製過剰」な世界ではもはや特権的な位置を占められない。そして彼らに変わって敵を倒すのは、バックパック型ジェットエンジンを身につけ、ガトリングガンを掃射し、バズーカ砲を発射する「キック・アス」であり、金属バットやレンガ・ブロックで武装した「ジャスティス・フォーエバー」の面々である。大量生産品=「複製」の武器さえ持っていれば、誰でも英雄になれるというわけだ。

 つまり『キック・アス』シリーズに描かれた「超-映画的」なヒーローの可能性は、同時にその不可能性でもある。それゆえ『キック・アス ジャスティス・フォーエバー』の結末で「ビッグ・ダディ」の娘である最後の「本物」のヒーロー「ヒット・ガール」は舞台である街を去り、「キック・アス」らはマスクを取って善良な市民へと姿を変える。正義が永遠だとしても、それがヒーローという形を取るとは限らない。

 ではその「複製過剰」な、「超-映画的」な時代に、「映画的」な「本物」のスーパーヒーローはもはや不可能なのだろうか。この問いに可能だと答える作品がある。『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』(以下『TMNT』)がそれだ。そしてその解答は、「複製」しなければいい、という極めて単純なものである。

 2014年の実写映画『TMNT』は、かつて実験動物として投与された「ミュータジェン」なる物質による突然変異で超人化した四人の「タートルズ」を描く。彼らは記者「エイプリル・オニール」に悪の組織「フット軍団」と戦う姿を目撃され、その旨を師匠の鼠「スプリンター」(同じくミュータント)に話す。すると彼は、エイプリルが彼らのいた研究所の研究員の娘であり、彼らを逃して救った「保護者」だと教える。一方エイプリルも彼らの正体に気付き、父の元同僚にその事を報告するが、彼は実はフットの首領「シュレッダー」に育てられたスパイであり、「タートルズ」はその生存を知ったシュレッダーによって狙われることになる。

 この作品において、エイプリルのスマートフォンが重要な小道具であることは留意すべきだろう。彼女はそれで「タートルズ」を撮影し、彼らはその写真を消去する際に彼女の名前を知る。彼女は「タートルズ」の現れた痕跡を収集する為に ‘googling’ をし、さらに「タートルズ」のアジトがフットに知られるのもそのGPS機能を通してである。つまり彼女は、「複製過剰」なメディアの所有者として設定されている。これは彼女の目的である「タートルズ」の報道(シェア)ともパラレルである。

 興味深いのはこの目的が、フットのそれと類似することだ。彼らは「タートルズ」の血中の「ミュータジェン」から解毒剤を作った上でニューヨークに毒ガスを撒き、解毒剤を餌に市民を支配する計画を立てている。この遠回しな計画が、毒ガスに耐性のあるヒーローの量産の隠喩であることは見やすいだろう。つまりフットの計画は、ヒーローの「複製過剰」化であると言ってよい。

 しかしこの計画は「タートルズ」によって阻止され、エイプリルも彼らを報道しないことを選ぶ。つまりこの映画では最後までスーパーヒーローの「複製過剰」化が回避され、そのことがハッピーエンドとなる。この時、「タートルズ」の面々の名前が「レオナルド」「ラファエロ」「ミケランジェロ」「ドナテロ」であり、かつての動物実験が「プロジェクト・ルネサンス」と称されていたことは決して偶然ではない。言うまでもなく、この名は絵画と彫刻=「複製不可能」な芸術の巨匠の名である。つまりここでも、神話からスーパーヒーローへという構図が反復され、そして『キック・アス』とは逆に、「複製過剰」よりもむしろ「複製不可能」の側にあることが是とされている。言い換えれば、「映画的なもの」の「超-映画的なもの」への拡散を防ぐために、「映画的でないもの」へと回帰することが示唆されているのだ。

 だから『キック・アス』と『TMNT』の間にはある決定的な違いがある。すなわち、前者は2Dで上映され、後者は3Dで上映される。後者が前者より「複製可能性」に乏しいことは明らかだろう。3D上映とは、映画館の「いま・ここ」でしか体感できないという、「複製不可能」な身体性の復権に他ならない。

 『キック・アス』=「複製過剰性」へと突き進むか、『TMNT』=「複製不可能性」へと立ち戻るか。映画は今や、スマートフォンとルネサンスのあいだで戸惑っている。

参考文献

ヴァルター・ベンヤミン著 浅井健二郎編訳 久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』筑摩書房2013

文字数:4025

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