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波を中心に折り重なる二つの末路

<図:多眼の動物>
<図:多眼の動物>

 

藤田嗣治(1886-1986年)の戦争画は、『アッツ島玉砕』(1943年)に代表されるような、「無数の人物たちの群れが大地そのものの起伏と同化し、地に溶解してしまっていることに最大の特徴がある」(※1)とされています。しかし『ソロモン海域に於ける米兵の末路』(1943年)(以下『~の末路』)に関しては、この言葉だけでは収まらない作品的魅力があると言えます。

私が『~の末路』の実物を目にしたときの印象は「思っていたよりも薄暗い絵だ」というものでした。なぜなら、私は『~の末路』の鑑賞のために東京国立美術館へ赴く前に、家のPCで『~の末路』をGoogle検索してどのような絵であるかを確認していたからです。Google画像検索が表示した画像は、同じ『~の末路』でも、実物とは色味が異なっています。それらは基本的に、程度の差はあれど、明るい色調にされている。だから、私は実物とネットの画像の間にある、その明度のギャップに驚きを覚えました。
この事実を自然に受け止めれば、「ネットの画像で美術作品を鑑賞したつもりになってはいけないな」という教訓が得られるでしょう。しかし私は少し違う感想を抱きました。「この、実物と似ても似つかない程に加工されている画像は、一体何なんだ?」と。

私がここで試みるのは、私が鑑賞した二枚の『~の末路』についての考察です。
一枚は、東京国立近代美術館「藤田嗣治、全所蔵作品展示。」にて展示されている実物の『~の末路』。
もう一枚は、私がGoogleの画像検索で見つけた、色調を明るく加工された『~の末路』の画像です。

結論を先取りしてしまえば、前者が「図が地に溶解している絵」であり、一方で後者は「地から図が浮き上がっている絵」になります。この対照的構図が意味するのは、20世紀初頭のキュビズム的技法と、21世紀的Google的想像力とが実は裏表の関係にあり、『~の末路』の表現にはこの二つが折り重なって描かれている、ということです。

まずは美術館に展示されている『~の末路』について考えてみましょう。藤田の画風が、戦争画に限らずキュビズムの影響を色濃く受けていることは、例えば岡崎乾二朗(1955年-)が藤田の『裸婦』(1923年)や『横たわる裸婦』(1927年)を例にとり、分析的キュビズムからコラージュに至るキュビズムの制作技術との関連を論じています。(※2)
『アッツ島玉砕』以降に描かれた戦争画の大作は、ほとんどが上記同様にキュビズム的技法を使われており、冒頭の引用はそのことを示す言葉でもあります。『アッツ島玉砕』は、図(無数の人物たちの群れ)が地(大地)に溶け込んだような画風になっており、戦争画として見た場合に、味方も敵も入り交じった激しい戦闘を描くことに成功しています。今回の「藤田嗣治、全所蔵作品展示。」に展示されている他の戦争画についても、同様の指摘を行うことは難しくありません。
『~の末路』についても、この指摘を行うことができます。黒茶に濁った海面を漂流するボートや、そこに乗る米兵たちは、陰の強い色味で描かれており、暗い海の色に溶け込んでいきそうです。特に画面下部の暗い海とボートとの境界は、まるで陰で繋がっているようにも見えます。
ただ、私は『~の末路』と『アッツ島玉砕』などの絵を見比べたときに、引っかかりを覚えました。
なぜこの絵には陸地が描かれていないのか。戦争画のほとんどは陸上戦闘を描いたものであり、海上であれば空母や戦闘機が描かれるものがほとんどです。ですが、ここでは陸地の代わりに海が全面的に描かれています。『アッツ島玉砕』のように、人物が地に溶解してしまうことがあり得ない絵です。
そして画面右上には波飛沫を強調するように波間を跳ねる鮫の姿があります。なぜこんな風に、海と波が印象的に描かれているのか。
この疑問は、もう少し後で整理しましょう。ひとまずここでは、陸地と海の差を忘れれば、やはり『~の末路』は「図が地に溶解していく絵」として鑑賞することができるという点を覚えておきましょう。

次に、もう一つの『~の末路』について考えましょう。
これは前述した通り、私がGoogle画像検索で発見した画像です(※3)。この画像は実物よりも明るい色味になっています。では、そもそもなぜ実物よりも明るいのか?
これについては、冒頭に提示した<図:多眼の動物>に触れながら説明していきます。

まず、Googleの検索エンジンはページランクという概念を使って、検索結果の表示順位を決定しています。端的に言えば、ページランクとは「どのリンクが最も重要性が高いか」の指標です。そして基本的には、多くの人がアクセスする情報が重要性が高いものと認識されます。つまり、検索結果上位にヒットする画像とは「多くの人がアクセスする(重要性が高いと思われる)画像」となります。
そして多くの人がアクセスする画像は、ほとんどの場合、「実物と同様に何が描いてあるのかわかりにくい(図が地に溶け込んでいる)画像」ではなく、「何が描いてあるのか明瞭な(図がはっきりと視認できる)画像」です。
Google画像検索のメカニズムは、ネット上に多数ある画像の集積(地)から、明瞭な画像(図)を選別しています。

実はこのことはGoogle画像検索のみならず、現代の情報技術とネットワークが支える想像力の根底に共通するものと言えます。例えばビッグデータは、膨大なデータの集積(=地)から、有意味な分析(図)を取り出す技術と言えます。あるいは2015年より始まったマイナンバー制度も、数字によって均一に管理された国民(地)から、特定の個人(図)を選び出すことのできる制度です。
つまり現代社会は、Google画像検索が示唆する「地から図を選別する想像力」に支えられていると言えるのです(その是非は、ここでは問いません)。

冒頭に提示した<図:多眼の動物>は、この想像力の産物と言えます。この図は、二つ目の『~の末路』を「Deep Dream」に入力して生成された画像だ。ボートと米兵たちが、緑色の眼の多い動物の姿に変化しているのがわかるだろう。
「Deep Dream」とはGoogleが開発した人工知能です。入力として渡した画像を、人工神経ネットワークに解析させて、その出力結果を表示してくれます。人工知能の画像解析と連想によって、サイケデリックな出力結果となることが多く、その出力結果は「人工知能の見た夢」と称されています。
興味深いのは、「Deep Dream」の出力結果である<図:多眼の動物>では、画面全体で大きく変化しているのはボートと米兵とその周辺ということです。
「Deep Dream」は明らかに「図」の部分を強く認識している反面、「地」の部分は「図」に比べるとあまり変化せずに残っています。先ほどのGoogle的想像力を補強するような結果ですが、ここから読みとれるのはそれだけではありません。
<図:多眼の動物>は、文字通り眼が多い動物が描かれています。この奇妙な動物の身体の向きは、画面右から左へ流れています。多数の眼は、まるで画面左部分に、まだ「図」が残っていないか探しているようにも見えます(元の画像の米兵たちも、画面左へ視線を向ける者が数名描かれていたことも思い出されます)。
「Deep Dream」は同じ画像を入力しても、異なる結果が出力されることがあります。多眼の動物が見つめる画面左には波が描かれています。この波は、「図」として浮かび上がることもあれば、「地」として変化が起こらないこともあります。
まるで多眼の動物が、波を「図」として浮き上がらせることに成功したり失敗したりしているようです。このように捉えると、この動物がGoogleの人工知能が画像解析の際に見ている夢の中が描かれているように思えてきます。

二つの『~末路』を通して見えてきたものをまとめましょう。
両者から浮かび上がったのは対照的な構図(「図が地に溶解している絵」と「地から図が浮き上がっている絵」)です。しかし、両者はネガポジの関係にあるとも言えます。
ここまでを踏まえて、改めて美術館の『~の末路』について考えてみます。注目すべきは画面左上の「波」です。
この波を「地に溶け込む図」として解釈し、そのように見れば、この絵は「二十世紀の総力戦という新しい戦争の形式が、キュビズムの表現形式と通底していたもの」(※4)になるでしょう。
逆に、波を「地から浮き上がる図」として考えれば、この絵は21世紀的なGoogle的想像力を表現していると考えられます。

『~の末路』は、このように「波」を中心にして、二つの時代の二つの想像力が折り重なって表現されている絵画作品なのです。

 

 

※1:岡崎乾二朗「主体なき悲劇」111p(『ユリイカ』2006年5月号 青土社)

※2:「この時期達成されるフジタ・スタイルーー乳白色の下地の上に、超絶的な精度と巧みさで加えられた描線ーーを考察するためには、まずはキュビズムとの関係を述べなければならないでしょう」岡崎乾二朗「主体なき悲劇」102p

※3:「ソロモン海域に於ける米兵の末路」を検索ワードとして入力して検索上位に上がっていた画像です。(2015年11月19日時点)

※4:岡崎乾二朗「主体なき悲劇」112p

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