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エリオット少年のTRPG

本文中の図1~3

 

異星人とのファーストコンタクトSFの傑作として名高い『E.T.』(1982)の冒頭には、RPG『D&D』(1974)を子供たちが遊ぶ場面があります。この映画を観たことのある読者は多いと思いますが、この何気ない場面が、実はこの映画全体の物語を示唆していることに気づかれた方は少ないのではないでしょうか。
この映画の物語について人々が抱くイメージは、おそらく少年と異星人の出会いから別れまでを描いた青春の冒険譚でしょう。しかしこの映画は、同時に、監督スピルバーグが少年時代に経験した両親の不仲による不安を克服する物語であるとも言われています。
確かに、主人公のエリオットの両親の間には軋轢があることが何度もほのめかされています。とはいえ、物語の結末は少年と異星人の友情を感じさせる別れのシーンです。その結末へたどり着くことが、なぜ両親の不仲の克服になるのでしょうか?

実はその二つのテーマの溝を埋めるのが、前述のRPGなのです。
冒頭のRPGを遊ぶ場面を少しずつ解説します。まず遊んでいるゲームについて。
『D&D』とは、日本では主にTRPG(テーブルトーク・ロールプレイングゲーム)と呼ばれる卓上遊技です(注1)。参加者たちの内、一人はゲームマスター(以下、GM)を務め、他の参加者はプレイヤー(以下、PL)となります。DMがダンジョンの地図やシナリオ、怪物の情報などを用意・管理し、PLたちは冒険者を演じながら財宝を求めてダンジョンを冒険していくのが基本的な遊び方です。
この遊技が変わっているのは、「冒険者を演じる」という行為です。PLはキャラクターシート(冒険者のデータを記述するもの)を作成し、そこに書かれた冒険者を声によって演じるのです。『E.T.』ではこんな会話が交わされます。

少年1「Oh, great」(やられた!)
少年2「You got an arrow right in your chest」(お前の右胸に矢が刺さったぞ=お前は死んだ)
少年3「Don’t worry. I got resurrection」(大丈夫。俺が生き返らせてやる)

 
ここで子供たちが行う冒険者の演技は、実際には「冒険者の代弁」と言えるでしょう。子供たちの身振りや手振りは、ダンジョンに潜る冒険者の行為を意味しているわけではありません。
TRPGの構成要素を図1のようになります。

次に、この場面で主人公エリオットがどう描かれているか確認しましょう。実は『D&D』を遊んでいるのは、エリオットの兄とその友人たちであり、エリオット自身はゲームに参加させてもらえません。
このことはとても重要です。つまりこの場面では、エリオットは「冒険者の代弁」に参加しようとして失敗しているのです。(ゲームに入れてもらう前に、庭でE.T.と遭遇してしまう為)
結論を先取りしてしまえば、『E.T.』はエリオット少年が「冒険者の代弁」に失敗し、後に「異星人の代弁」を果たす物語です。そしてその「他者の代弁行為」によって生まれる「対話」によって、エリオットは自身の内面的葛藤を克服するのです。
構造だけでなく、物語の水準においてもエリオット自身がTRPGへの参加を意識し続けていることは明らかです。E.T.と初めて会話をする場面で、彼が最初に口にする質問は「Can you talk?」です。そして彼が兄にE.T.を紹介するとき、彼は「I have absolute power」と言います。これは冒頭の『D&D』を遊ぶ場面で、兄にゲームに入れてくれと頼むと「Ask Steve. He’s game master.he has absolute power」と言われたことへの意趣返しです。Steveは『D&D』を一緒に遊んでいた兄の友人の一人で、このときは彼がGMでした。TRPGでは、ダンジョンやシナリオを用意するGMがある意味で最も発言力がある参加者と言えます。兄が「he has absolute power」と言ったのは、TRPGのそうした性質からです。また、エリオットがその言葉を踏襲したのは、彼にとっての冒険=TRPGがここから始まることを意味しています。
エリオットはGM役に名乗り出ました。彼と会話を行いTRPGを進めるPLはE.T.です。先ほども触れたエリオットの「Can you talk?」は、単純に「君はしゃべれるの?」という意味の問いかけに重ねて、E.T.にPLが務まるかどうかを確認していたのです。
E.T.が明確にPLとしての行動を見せるのは、エリオットが学校で授業を受けている間にE.T.が一人で家の中を歩き回るシーンです。この場面では、E.T.がアルコール飲料を飲んで酔っぱらうと、教室のエリオットも酔っぱらって椅子から滑り落ちたりするコメディ調の演出が描かれます。また、E.T.がテレビに映った俳優と女優のキスシーンを見ると、その俳優たちと同じ動きをエリオットが反復し、クラスメイトの女子にキスをします。
ここでは、E.T.とエリオットの身体がリンクしていること、そしてそのリンクはE.T.が主導権を握っていることがわかります。これはPLとPCの関係に酷似しています。また、この教室のシーンの後で、E.T.は英語を学習し、「home」「phon」などの片言の会話が可能になります。この会話能力の獲得も、E.T.がPLの立ち位置を得たことを物語っています。

PLの役割は「冒険者(PC)の代弁行為」です。つまりE.T.の役割はエリオットの代弁行為になるはずです。このことを確認するには、もう少し物語を分析する必要があります。

まずエリオットのTRPGにおける「ダンジョン」とは何かを考えます。これにはE.T.がやってきた「宇宙」が相当します。本来の『D&D』では、PC=冒険者は、ダンジョンに潜む怪物を倒し、宝物を見つけるというシナリオがオーソドックスです。
ではエリオットのTRPGはどうかというと、E.T.を地球に置いて宇宙へ帰ってしまった宇宙船に、通信を行うという目的がE.T.によって提案されます。これがPLによるPCの「代弁行為」となります。
宇宙へ向けて通信を行うという行為は、一見するとE.T.の為にエリオットが代弁を行う(代弁を行う装置作成を手伝う)ようにも見えますが、実際には「宇宙への通信」は、E.T.がエリオットの言葉を代弁しているのです。
それは映画前半部でも示されています。E.T.を最初に目撃したエリオットは、家族や友人にその話をしますが誰も信じてくれません。落ち込んでいる彼を見て、母親は父親へ電話をかけてその話をするといいと助言しますが、ふてくされたエリオットは、父親は愛人とメキシコに旅行中だということを母親にバラしてしまいます。結局、エリオットは父親に電話をかけたくても、かけることができません。
E.T.は宇宙への通信機を「phon=電話」と呼びます。この二つの「電話」は響き合っています。どちらの「電話」も、別れを内包しているからです。宇宙船が迎えに来ればE.T.とエリオットは離ればなれになります。また、メキシコの父親と電話をかけるということは、父親の不倫という、両親の不和の現実を認めることになります。それが意味するのは離婚による父親との別れです。また、通信機を作るために材料を集めているとき、エリオットが父親のシャツを見つけて、父親の記憶を思い出す場面からも二つの「電話」の関係がわかります。
エリオットの内面には、父親に電話をかけたい気持ちと、かけたくない気持ちが対立しているのです。

二つの呼びかけがこのように意味を響かせ合うことを「ポリフォニー」と呼んだ人がいます。20世紀のロシアで活躍した文学者のミハイル・バフチンです。
バフチンの文学理論は、「対話」を重視しました。彼はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(1880)などを例にとりつつ、ある自己と他者の間で行われる実際の会話を「外的対話」、その自己の内面的な葛藤を「内的対話」としています。そしてドストエフスキーの小説の特徴は、「外的対話」としての主人公たちの言葉が、話し手の「内的対話」に対する応答になっていることにある、と指摘しています。
「ドストエフスキーの主人公たちの発話にきわめて深く確信的なアクセントが付されている場合、そのほとんどは、発せられた言葉が内的対話の応答であって、それが話者自身を説得しなければならないということの結果にすぎない」(注2)
この「主人公たちの発話=外的対話」と「内的対話」の響き合いが「ポリフォニー」であり、それこそがドストエフスキーの書く「対話」であるとバフチンは言っています。二つの対話の関係は、図2のようになっています(他者の部分には、主人公の分身、家族、幽霊、妄想など様々な存在が当てはめられることをバフチンは指摘しています)。

ここでバフチンの「対話」を説明した目的は、『E.T.』の中で行われる「代弁行為」の役割を考える上で適切であるからです。
「対話」についての構造を、エリオットのTRPGに当てはめると図3になります。

図の上段では、GM=エリオットと、PL=E.T.は親交を深めて会話しながら、「宇宙への通信」という目的を共有する層があります。
E.T.は、エリオットという「代替身体」を利用して「宇宙船を呼ぶ」という目的を達成しようとしています。これは図の中段部分に相当します。この行為をTRPG的に解釈した場合には、E.T.は自分(PL)の目的達成と同時に、エリオット(PC)の目的を「代弁行為」によって達成しようとしているはずです。それが先程も触れた「宇宙への通信」と「メキシコへの電話」の関係です。どちらも別れを引き寄せる呼びかけなのです。
そして、エリオットの内的葛藤=両親の不和は、図の下段に相当します。下段は、バフチンの対話の構造における「内的対話」の部分です。この内的対話に響きあう外的対話が、上段と中段の層の会話になります。

物語の最後は、迎えに来た宇宙船にE.T.が乗り込む場面です。ここでE.T.は、別れを悲しむエリオットの額を指さし、「I’ll be right here」と囁きます。離れてもここにいる。これまで見てきた構造で考えるならば、この言葉は彼らの別れを意味するだけでなく、エリオットの内的対話へと響く「対話」となっています。だからこの物語は、少年と異星人の出会いと別れを描きながら、同時に両親の不和という現実を受け入れる少年の姿を描くことができているのです。

 
注1:もともとアメリカでは、RPGという名称は『D&D』のようなアナログゲームを指します。しかし日本では『ドラゴンクエスト』(1986)などのCRPG(コンピュータ・ロールプレイングゲーム)が先に有名になった為、知名度の逆転現象が起きてしまいました。結果、CRPGのことをRPGと呼び、RPGのことをTRPG(あるいは会話型RPGとも)という造語で呼ぶ習慣が定着しました。しかし本論の分析がRPGの「代弁行為」に大きく依っているように、この偶然の命名は、もともとのRPGの本質を鋭く描き出しているとも言えるでしょう。

注2:『ドストエフスキーの詩学』549p ミハイル・バフチン 望月哲男/鈴木淳一:訳 ちくま学芸文庫 1995年

文字数:4589

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