印刷

日本近代思想と「骨」

 

日本近代思想とは、日本人の意識の底に深く眠る無自覚な様式にある。それは「主体」と「主体未満」という二区分である。
そしてその限界は、その区分からこぼれ落ちる「客体」についての思想を持ち得なかったことに表れている。

祖母が亡くなった時、私は初めて骨上げに立ち会った。
それは奇妙な体験だった。箱のなかに散らばった焼骨の一つ一つを、「これは顎の骨です」「これは喉仏です」と説明を加えつつ、火夫の方が祖母だったものを箸でつまんでいる。それを聞きながら、私はたぶん、少しキョトンとした顔をしていたはずだ。私はその骨の一つ一つが、祖母であるのか否か、判断に困っていた。そばにいた親族たちは、何も言わずに焼骨を見つめ、目に涙をためている。私の困惑をよそに、骨上げは滞りなく行われ、火夫の方の丁寧な所作によって、祖母の遺骨は骨壺に納められた。
遺骨は生きてはいない。人の姿もしていない。そして動くことも話すこともない。けれども人は、遺骨に生前の人物の姿や思い出を見ることができる。それは理性的なものではなく、感覚の錯誤なのではないかと、かつての私は疑問に思った。人が遺骨に接する際の、あの静かなリアリティについて、私はよく考えるようになった。

この問題は、私個人の疑問であると同時に、日本近代思想において失われた可能性を示唆するものでもある。
それを考えるために、まず日本近代思想とは何だったのかを考えよう。

日本の近代化は、諸外国からの圧力によって起こったと言っていい。その始まりを、明治政府の創始に定めるか、あるいは江戸時代末期の倒幕運動に定めるかは大きな問題ではない。重要なことは、外部からの力によって300年近い平和の時代が終わりを迎え、新しい時代が始まったということだ。外部からの力とは、一言で言えば「主体」についての思想である。
それは植民地主義や自由の思想である。植民地主義の意味する支配国ー被支配国の関係は、「主体」として振る舞う国と、それに従う「主体未満」の国という二区分を作り出した。自由の思想は、近代的主体に成熟した人々が「主体」であり、そうでない人々は未成熟な「主体未満」であるという考え方を日本に植え付けることとなった。

この「主体」と「主体未満」という区分を受け入れるということは、例えばコミュニケーションの場において、目の前の相手を「主体」か「主体未満」かで考えることに等しい。そこには、すべての人が「主体」となることが善いことであるという強迫観念と、「主体未満」と見なした相手に主体的な振る舞いを要求するメタメッセージが隠れている。
このような近代的思考は実のところ現代にも残っているが(「選挙に行くことが主体的な政治参加である」と考える人は、選挙に行かない人を「主体未満」であると見なすと同時に「選挙に行くこと=主体的に振る舞うこと」を要求する傾向がある、など)、それが近代日本の人々の意識に、おそらく無自覚に強く表れたのは、近代と現代の境目とも言える戦後処理の時代においてだった。
それは、GHQのマッカーサー元帥による発言「日本人は12歳の少年である」に対する日本国内の反発である。

当時の日本人はその言葉を「日本人は未熟な子供である=主体未満である」と揶揄されたと感じ、強い反発を示したが、しかしその理解は本来の文脈を外れた、ある意味で的外れなものだった。
1951年5月の米国議会で、マッカーサーは例の言葉を発するのだが、それは「日本はドイツのように民主主義を捨てて、再び国際的規範を破ることがないとなぜ言えるのか?」という軍事・外交合同委員会からの厳しい質疑への回答だった。「ドイツ人は成熟した人種であり、国際的規範を理解しつつそれを破った。一方、日本人はその歴史の厚みに比べて国際的規範には明るくない。彼らは12歳の少年のようなものであり、これからそれを学ぶことができる。だから日本人とドイツ人が同じ過ちを犯すことはないだろう」つまりここで彼は、日本人は十分に国際的国家となる資質があると言っているのだ。決して日本人を揶揄したのではなかった。
なぜこの言葉が誤解されてしまったのか。その原因の一つには、上述の委員会の議事録が偏向的に報道された事実が挙げられる。だがここで重要なのは、日本人の理解が、「主体(=アメリカ)」が「主体未満(=日本)」を揶揄したという構図を反映しているということだ。この構図への過敏な反応は、逆説的に自分たちが世界をそう認識していることを物語っている。

本来、そのような文脈で考えるべきでない事象に対して、無理矢理「主体未満」という区分を押しつけていたように、近代的二区分の限界は、主体かそうでないかでしか対象を計れないということにある。そして、そのような認識はある種の存在についての言葉を妨げている。

その存在とは、生きていないものたちだ。非生命は普通「主体」としては扱われない。同時に、「主体」となる可能性も持たない為、「主体未満」でもない(非生命に「主体的になれ」というメタメッセージは向けられない)。そのような存在をここでは「客体」と呼ぼう。

「客体」とは何だろうか。それは「もの」のことだ。「もの」とは、決して「主体」になりえない存在。この存在を認めることが、「すべての人が主体となるべき」という強迫観念から抜け出す一手となる。つまり「客体」は、「主体」「主体未満」の近代的二区分を無効化するのだ。

現代日本の葬儀形式の主流は火葬であるので、遺体を火葬した後に行う骨上げに立ち会った経験のある方は多いだろう。二人一組となって竹の箸を持ち、三途の川を無事に渡れることを祈りながら遺骨を骨壺に入れていく。葬儀の進行の中でも、特に故人との別れを強調する儀式である。
そこで人は、相手が「主体」か「主体未満」かという区別は全く意識しない。極めて自然に、遺骨が「客体」であることを受け入れながら接している。
そのことは、遺骨を無闇に「擬人化」しないことに表れている。火夫の方は遺族に対して言葉をかける際、冒頭に示したように骨の部位名や、形状から判別できる特徴を説明する。故人の内面を勝手に推し量るようなことは慎まれる。その配慮は、遺族の感情に対してはもちろんだが、同時に過度な「擬人化」を抑制しているようにも思える。

火夫の方は、遺骨から故人の内面を勝手に読みとったりはしない。なぜなら遺骨に内面はないからだ。もし遺骨に内面を見出し、それを語るとすれば、それは遺骨の「擬人化」に違いない。そのような行為を取るとすれば、それは「客体」に対して「主体」であることを求める心性から生まれたものだ。「客体」の「擬人化」は、結局のところ「客体」を「主体未満」に押し込めようとする意識の表れなのだ。
いわば親愛なる「客体」を「客体」のまま扱う丁寧な所作こそが、人が「客体」として接する方法なのである。
もし人が「客体」に向き合うことのできる「主体」足りうるなら、その時「客体未満」という区分は必要なくなる。そして「すべての”人”が主体となるべき」というテーゼは、「すべての”存在”が主体となる必要はない」と書き換えられる。

しかし、この文章をここまで読んできた賢明なる読者はこう思うかもしれない。「客体」と向き合うという行為は、葬儀という非日常的な儀式のなかで行われる特殊な経験でしかないのではないかと。
そう思われるのも自然なことかもしれない。だが結論から言えば、その考えは間違いである。人は皆、実はもっと日常的に「客体」と接する機会を持っているし、そしてその機会は今後増えていく。

今後増える機会としては、人工知能ロボットの問題がある。
ペットロボットとして1999年にSONYが販売を開始したAIBOは、公式の修理対応「AIBOクリニック」を2014年3月で打ち切られた。この事実は人間で言えば、世界中の医療施設の消滅に等しい。「死なないペットロボット」であったはずのAIBOの死がやってきたのだ。
AIBOは非生命であり、自立的に動いたり考えたりすることもない。AIBOは「客体」である。それでもAIBOに親愛の情を向ける人々はいる。
修理対応の終了後、AIBOを葬送することを決心したオーナーたちはAIBOの合同葬儀を行った。そこで葬られたAIBOたちはドナーとなり、パーツを分解され、それを必要とするAIBOの元へ分配される。ここには人間の葬送とは異なる文化形式があり、それはAIBOが「ロボット=客体」であることを尊重した上で執り行われている。

2014年に発売開始されたPepperにも、AIBOと同様の事象がそう遠くない未来に起こり得る。そして今後増えていくであろう、生活密着型のロボットたちについても同じことが言える。そして、そこには常に「客体」と接する為の思想が求められ続ける。

そして話は何もロボットに限らない。人間についても考える必要はある。人は時に、人に対して「客体」として接する必要に迫られる。
例えばそれは赤ん坊に対してである。自他の区別もなく、論理的コミュニケーションも取れない赤ん坊には、主体的に振る舞うことは難しい。だからといって赤ん坊を「主体未満」としては近代に逆戻りである。私たちは赤ん坊を、ポジティブな意味で「客体」として捉える必要がある。
もちろんそれは赤ん坊をモノ扱いすることとは全く違う意味である。「主体」ではない(一人でやれない事が多い)けれど、「客体」としての相手の性質(つまり生理現象)をよく理解して接するように意識するということだ。
赤ん坊のお腹が空いたらお乳をあげる。うんちが出たら処理してあげる。目やにがたまったら拭いてあげる。手持ち無沙汰にしていたら楽しいことをしてあげる。「客体」として接するということは、そのような当たり前のことを意味している。

赤ん坊の例からは、人間も時に「主体」ではなく「客体」として他人と接する機会があるということがわかる。人生は長い。そのすべてを「主体」として生きることは難しい。赤ん坊の時期だけでなく、大怪我をした場合や、老衰した老人の場合にも同じことが言えるし、それ以外の可能性だって考えられる。

「客体」の思想とは、詰まるところ次のようなものなのだ。
相手の性質を無視して「擬人化」や「主体化」を求めないこと。そうではなく、相手が例え何者であっても、その性質から目を背けずに接すること。一言で言えば「相手に敬意を持って接すること」だ。

生活様式が多様化し、それらが交差する機会自体が減少していくであろう今後の日本社会では、「客体」の思想はより重要度を増していく。
誰が、何が、「客体」であるのか(「客体」と呼ばれる状態であるのか)。そのこと自体もまた、近代の限界を越えて生きていく私たちの生活の課題である。

 

 
◇参考資料
『「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった 誤解と誤訳の近現代史』多賀敏行 2012年7月27日(新潮新書)
『近代火葬の民族学』林英一 2010年3月20日(佛教大学研究叢書9 法臧館)
『仏教民族学』山崎哲雄 1993年7月10日(講談社学術文庫)
『火葬場の立地』火葬研究会立地部会編 2004年12月5日(火葬研究叢書1 日本経済評論社)
『火葬後拾骨の東と西』日本葬送文化学会編 2007年3月26日(火葬研究叢書2 日本経済評論社)

 

文字数:4610

課題提出者一覧