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音響的表現から「大気圏突入」について考えること

『機動戦士ガンダム』(1979)の35周年を記念して制作された「大気圏突入」(2014)というシアター作品は、映像的演出を最小限にしつつ、音響的演出によって映像作品を構築することに成功している。その試みは、『機動戦士ガンダム』という作品自体に対する批評にもなり得ている。

フィクションの没入感を演出する為に使われる手法の一つに「視線の交錯」がある。
フレドリック・ブラウンの短編小説「うしろをみるな」(1947)では、物語のラストに読者の背後にせまる語り手の視線が描かれ、ノベルゲーム『ひぐらしのなく頃に』(2002~2006)では、キャラクターが画面正面からプレイヤーを見据えて「あなた」と呼びかける。いや、何もメタフィクション的な手法でなくてもいい。映画『スターウォーズ』(1977~1983)を題材としたディズニーランドのアトラクション「スター・ツアーズ」(1987)において、案内役のC3POや、敵役のダースベイダーが観客を見るというシンプルな演出も、観客とキャラクターの視線を交錯させて、観客をフィクションに没入させようという明確な意図を持っている。小説でもゲームでも体感型シアターでも、その演出は効果的に働く。

しかし「大気圏突入」では視線の交錯がほとんど描かれない。だからといって没入感に欠ける退屈な作品というわけでもない。そこには「視線=映像」ではなく、「声=音響」による演出が仕組まれている。

まず「大気圏突入」という作品の概要を確認しよう。ガンダム35周年を記念し、2014年に大阪から始まり、2015年に東京へと開催地を移した企画展「機動戦士ガンダム展 THE ART OF GUNDAM」。ダイバーシティの実物大ガンダムと同じく、老舗のディスプレイデザイン会社である乃村工藝社が制作に関わったその企画展で、オープニングシアターとして展示の最初に位置づけられた映像作品が、「大気圏突入」である。内容は『機動戦士ガンダム』の第五話「大気圏突入」(以下、原作アニメ)を原作とし、一部の場面に変更を加えつつも、基本的には原作通りに、大気圏突入直前に交戦するガンダムとザクの先頭描写が描かれる。映像は巨大なスクリーンに展開され、観客は戦艦のメインブリッジから艦外の戦闘を目撃するかのような体験が可能となっている。
特徴的なのは、通常のアニメ作品と異なり、カメラの移動や視点の切り替えが一切なく、前方のスクリーンにはずっとメインブリッジと艦外の描写だけが映し出されていることだ。また、モビルスーツの動きは大きく扱われているのに対して、人物の動きはほとんどなく、映像に登場するオペレーター、操舵手、パイロットたちは自分の持ち場で職務を行っているのみだ。そしてもう一つ、重要なポイントがある。登場人物たちは視線を合わせずに会話をし、また観客とも視線を合わせようとはしない点だ。これは、前述の「スター・ツアーズ」とは明らかに異なっている。どちらも宇宙船に搭乗して襲ってくる敵から逃げるという体験型のシアターであるにも関わらずだ。

視線の交錯は原作アニメには存在している。それも幾分露骨にだ。アニメにおいては、実際に視線が合うような位置関係にいない者同士でも、例えば画面右手前にいる人物が左に視線を向け、画面左奥にいる人物が右を見ているように描けば、両者は互いに視線を交錯させた状態で会話をしているように視聴者には感じられる(実際には、右手前の人物が左奥にいる人物を見るためには、背後を振り返る必要があるのだが、それでは視聴者にその人物の顔が見えなくなってしまう)。
擬似的な視線の交錯まで駆使する原作アニメに対して、「大気圏突入」では視線の交錯をあえて封じているかのようだ。オペレーターのセイラは画面右端の操作パネルを介してパイロットのアムロと通信を行っているが、観客にとっては画面中央のモニターに映し出されたコクピット内の映像こそがアムロのいる位置に感じられる。コクピット内の映像は正面を向いており、画面右端を見つめるセイラとは視線が全く交錯していない。同じことは、ほかの登場人物にも指摘できる。
一体なぜ、そんな演出が行われているのか。それは冒頭に示した通り、「視線の交錯=映像的表現」を手放し、「声の交錯=音響的表現」によって映像作品を構築するためだ。

「視線」による演出を効果的に使ってフィクションへ没入させる「視線の交錯」に対して、「声の交錯」は「声」による演出を重要視する。「大気圏突入」において、それはどのように描かれているか?
実は、この作品はスクリーンを二つ使っている。前方のスクリーン以外に、観客の背後にもスクリーンが設置されており、そこには戦艦の艦長であるブライトが、ブリッジ全体(つまり観客を含めたシアター全体)を見渡せる位置に腰かけ、ほかのキャラクターへと指示を出す様子が描かれている。とはいえ、彼のセリフはごくごく僅かでしかない。また、ほかのキャラクターと同様に、アニメでありながらほとんど動かない。しかし問題は、彼の声を再生する音響装置が観客の背後にあるという事実なのだ。これによって、ブライトの声は原作アニメの「視線」に代わる重要な演出となっている。

「大気圏突入」のキャラクターたちは、誰もが視線を交わらせない。けれど、彼らは互いの声を聴くことで、互いの距離や関係を描いていると言える。そしてブライトがブリッジ要員を叱咤する声は、同時にブリッジにいる観客たちにも向けられている。ブライトは観客を見てはいない。ほとんどの観客もまた彼を見ない。だからこそ余計に、ブライトから観客への「声」が強調されることとなる。

虚構のキャラクターの視線にさらされることは、私たちとキャラクターの対等な関係を表現する。少なくとも私たちはそう錯覚することができる。「うしろをみるな」では物語の語り手は、読者を殺害することのできる存在、つまり読者と同じ世界にいる存在として錯覚させているし、『ひぐらしのなく頃に』ではプレイヤーが過酷な物語に悲しみとやるせなさを感じている時、キャラクターもまた同じ思いを共有していることを錯覚させている。そうして虚構と現実を接続しようとする試みが「視線の交錯」である。

一方、「声の交錯」は「視線」に比べると直接的に錯覚させる力は弱いと言える。キャラクターと見つめあうという行為に比べて、キャラクターと会話するという行為は実感に乏しい。見つめあうという行為の過程で、キャラクターの目という具体的な対象物が存在していることも大きいだろう。キャラクターの声は音響装置から発せられ、そして具体的対象物となることなく中空に拡散していく。そもそもこの「声」についての説明自体が、「視線」に比べて抽象的にならざるをえない。
しかしその抽象性を、逆に利用した作品も存在する。深海誠の『ほしのこえ』(2002)は、高校生のカップルが地球と外宇宙に引き離されてしまうSF作品だ。そして、距離と孤独の壁を超えて、二人の間には「声」によるコミュニケーション(「声の交錯」)が成立する。そこでなぜコミュニケーションが成立したのか、論理立てて説明することはおそらく不可能だろう。ではなぜそんなことが可能だったのか。それは「声」のもつ抽象性の力によっている。

 

思えば、『機動戦士ガンダム』の第一話も、宇宙世紀を語るナレーションの声によって始まっていた。現代社会から未来の宇宙社会を繋ぐために、ここではナレーターによる「声」が大きな役割を果たしていると言える。『ほしのこえ』で描かれた「声の交錯」と同様に、ナレーターが視聴者に向けた「声」のもつ抽象性の力が発揮されているのだ。

「ガンダム展」のオープニングシアターが、「映像的表現」よりも「音響的表現」を重視した作品であったことは、「ガンダム」の世界観の始まりに「ナレーション=声=音響的表現」があったことと決して無縁ではない。「ガンダム」という作品は、冷静に考えれば35年という長い時間を経過した作品なのだ。企画展に集められた1000にも及ぶ美術資料の数々は、ただ見るだけでは人々を感動させなかったかもしれない。35年前の美術資料が、あたかも今日と地続きであるという実感(錯覚)を覚えるからこそ、それは来場者の心を打つ美術となりうるのだ。
『ほしのこえ』で描かれた「声の交錯」は、時間も距離も飛び越えて二つの場所を繋げてみせた。「大気圏突入」の終盤は、ガンダム単独で大気圏に突入していくアムロとの通信が途絶え、生死不明となった彼との距離が離れたことを観客たちに示した後で、無事に通信が繋がり、アムロの「声」がブリッジに届くことで終演となる。
「携帯の電波が届くところまでが世界だと思っていた」という『ほしのこえ』のセリフになぞらえるなら、私たちは、音響が届くところまでが世界と認識することができるのかもしれない。たとえそれが、虚構からの声であったとしても、時代を超えて繋がる可能性がそこにはある。

 

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