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差延する失敗は、光より遅く。

 

高校時代、深夜に同級生から届いたメールには、「今すぐテレビをつけろ。俺の好きなバンドのライブがやってるから!」と書かれていた。彼の言うとおりにテレビをつけると、耳に心地いいリズミカルなメロディを演奏するバンドが映っていた。そのバンドの名前を僕は覚えていないけれど、その時友人に返信したメールの内容はよく覚えている。音楽を普段聴かない僕は、とっさにそのバンドの良さを説明できなくて、ネットでよく見かけるような安っぽい言葉を書いたのだ。「よくわかんないけど、不思議な感じでいい曲だと思う」と。友人からの返信はなく、僕はへこんだ。

現代社会は情報化によってずいぶんと便利になった。その中でも人々が大いに恩恵を受けている情報サービスは検索サイトだろう。ネット以前の時代であれば、好きな音楽についての言葉を探すには、雑誌を手に入れたり、音楽に詳しい友人に情報をもらったりする必要があったが、今では自宅のPCにキーワードを打ち込むだけで、それらの情報が手に入るようになった。知りたい情報が簡単に手に入る、つまり正解にたどり着くためのプロセスが簡略化された。けれど、それによって弊害も起こった。ネットには、ネット上で「正解」とされた情報についての言葉ばかりが氾濫してしまった。気になる音楽を調べると、圧倒的多数が支持する「正解」についての言葉ばかりが見つかる。そこで語られている内容と、自分の感想が異なっている時、自分はこの音楽を正しく聴くことに「失敗」したのだと思ってしまう人がいても無理はない。なにしろ、ネットでたどり着いた情報は「正解」とされた情報なのだから。

これは情報化社会の当然の成り行きと言える。でもそれは少し息苦しい。多くの人々が支持すればするほど、ネット上の言葉は画一的になっていく。誰もが同じ言葉で作品を語っている世界は、端的に言って価値観の豊かさに欠けている。しかしネットはそういうものだ。じゃあ、どうすればいいのか。私たちはネット以外の言葉を探さなくてはいけない。

不可思議/wonder boyというアーティストがいた。彼はポエトリーリーディングという、詩をパフォーマティブに朗読する表現ジャンルで頭角を表した。彼の作る曲はyoutubeに今でも残っていて視聴することができる。彼の素朴な詩の表現と、打算をいっさい感じさせない自然さを備えた語りは、多くの人を魅了してきた。彼のポエムの中には、ネットにあふれた「正解」についての言葉ではない、「失敗」についての言葉が満ちている。私たちはその言葉に、彼の表現の根元を見ることができる。そしてまた、彼の表現を通して、人間にとってのまちがいの効能とは何かを考えることができる。

youtubeの彼の作品で、最も再生数が高いのは「pellicule」という曲だ。「pellicule」は、地元の友人との再会をイメージして作られている。その友人は、日本で通用しないからと言ってタイのサッカーリーグでサッカーを続けている変わった人物で、彼との再会の会話と、かつての自分たちの失敗を歌いつつ、それでも何かがやってくることを待っている不可思議自身が、この曲では描かれている。

「寝そべって夜空を眺めてたんだけど 時間だけが流れて星なんか流れないの」
「そうやって俺たちはいつまでも待ってた 来はしないとわかってながらいつまでも待ってた」

ここで語られているのは「失敗」についての言葉だ。それは彼の人生における、彼固有の失敗である。にもかかわらず、彼の「失敗」についての言葉は多くの人の心に届いている。どうしてそんなことが可能なのだろうか。それは、不可思議の言葉が、「失敗」という経験が意味するものを、つまり誰にとっての「失敗」にも共通するある本質を語ることに成功しているからだ。それはいったいなにか?
星を見ることのできなかった不可思議は、それでも何かを待ち続けている。それは星ではない。自分のかつての「失敗」が、いつか未来の自分に届くことを待っているのだ。この曲が友人との会話を模していることには、自分自身へのメッセージを送っているという機能が込められている。
もう一つ、彼の曲を引用しよう。相対性理論の「バーモントキッス」をサンプリングして制作された「世界征服やめた」という曲だ。曲名が既に「失敗」を意味しているこの曲で、彼は歌う。

「いくら知識がついたって 一回のポエトリーリーディングにはとてもじゃないけど勝てないよ」
「どうにも抵抗できない運命みたいなものをいっしょくたにかかえ込んで 宛名のない手紙を書き続ける人間の身にもなってみろよ」

ここでの「知識」と「ポエトリーリーディング」の対立は、ネット検索によって手に入る「正解=知識」と、一回性をもち、それゆえにステージ上での「失敗」の可能性をもつ「ポエトリーリーディング」の対立であると読み替えることは難しくない。(彼のステージを記録した映像作品では、彼がステージ上で歌詞を間違えるシーンが印象的に演出されている)
「どうにも抵抗できない運命」を抱えて「宛名のない手紙を書き続ける」というくだりは、前者をステージ上で、あるいは人生の中で起こる「失敗」を抱えたまま、未来にいる相手(現在に存在していないので「宛名がない」)へと言葉を送り続ける彼の表現を的確に表している。
では彼が歌う「失敗」についての言葉は、いかにして未来へと運ばれるのだろうか? それは「pellicule」で歌われていた。

「そうやって俺たちはいつまでも待ってた 来はしないとわかってながらいつまでも待ってた」

彼は「来はしないとわかって」いても、自分の「失敗」が届くのを信じていもいる。ここで彼が信じるのには理由がある。彼は「失敗」についての言葉がもつ特性を理解している。それは、「失敗」についての言葉は、差延を発生させるということだ。

「十年後のお前は今のお前を余裕で笑い飛ばしてくれるって」
「十年後の俺は今の俺を笑い飛ばしてくれるって 間違いないよ」

不可思議/wonder boyを知る者にとっては今更説明は不要ではあるが、彼は2011年に24歳という若さで不慮の事故でなくなっている。しかし彼の残した曲は、今もファンを増やし続けているし、彼の曲が好きな者は彼のことを忘れていない。彼の詩が、その「失敗」についての言葉が、差延を生み、何年間もずっと忘れられずに残っていることは、彼の表現の本質を静かに証明している。

また、「世界征服やめた」の歌詞には、次のような一節もある。

「俺たちはもうどこから来たのかもわからないくらいに遠くに来てしまったのかもしれないな」
「そして、どこへ行くのかもわからない」
「まっくらな宇宙の中で どこかに進んでるってことだけがはっきりと、わかる」
「どうにも抵抗できない運命をかかえこんで俺はまだ書き続けるから 詩を書き続けるから」

この歌詞をそのまま組み込んだような遊戯が存在する。ロールプレイングポエムという、即興演劇とゲームを混ぜ合わせたような遊びで、勝ち負けや得点は存在せず、参加者たちが一つのシチュエーションを体験することを目的とする。
ここでは『光より遅く』の詳細なルールは省き、概要だけを取り出すことにする。まず紙とペンを用意し、プレイヤー間で共有した設定(別々の宇宙船で旅立った仲間が、少しずつお互いの距離を広げていく)を前提にし、ほかのプレイヤーに手書きの通信(書く時間は30秒程)を送る。それを12回繰り返す。プレイヤーたちは少しずつ互いの距離を広げているので、通信は徐々に差延を生む。12回目の通信が終わった時、必然的に未達の通信が発生するが、それら未達の通信はプレイヤーたちが解散し、各人が一人になってから開封して読むことが許されている。そこでようやく、一つのセッションが幕を閉じる。
遊ぶごとに固有の物語と叙情が発生し、それを体験することのできる非常に魅力的なこの遊戯は、不可思議の表現と同じように「失敗」と差延のメカニズムによって支えられている。12回繰り返されるターンは、1回が1年の経過を意味しており、長い時間を差延するという表現手法もまた、ルールの時点で仕込まれている。ポエトリーリーディングのような技術を必要としないこの遊戯は、誰にでも開かれた「失敗」の表現媒体と言える。

「失敗」についての言葉は、現代社会において、人がまちがえることの意味を示唆している。今の日本の社会では、「失敗」の記憶は驚くほどの早さで忘れ去られていく。アイドルの交際問題も、政治家の失態も、等しく忘却されていく。誰かが犯したまちがいは、特にネットの言葉の荒波にさらされた話題程、驚くほどの早さで存在感を失っていく。だが、ここまで不可思議/wonder boyの表現に見てきたように、人にとってまちがうという行為は、もっと長い時間を越えることのできる可能性を秘めているのだ。そしてそれは『光より遅く』が示すように、簡単なルールで実現のできる素朴な表現でもある。
人がまちがうという行為には、現代社会において、広く遠く、人々に届く可能性が秘められている。「失敗」についての言葉は、それを表現することのできる手法なのだ。

文字数:3740

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