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「やり直しのサスペンス」から考察する『巨神兵東京に現る』

0/序『風の谷のナウシカ』

「巨大生物や街の崩壊等見た事がない画面の創造」。庵野秀明は『巨神兵東京に現る』(2012)の企画意図について触れた文章の中で、特撮作品の魅力の一つをそう語っている。それはきっと、20世紀初頭に活躍した映像作家・ジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』(1902)の時代から変わらない特撮映像の魅力に違いない。しかし、私は『巨神兵』を観た時、「見た事がない画面」というよりも、むしろ強い既視感を覚えていた。それは決して、批評家・宇野常尋が指摘するような「怪獣映画もミニチュア特撮も戦後的アイロニーも20世紀後半的(冷戦的)終末感も、すべて過去のもので、もはやノスタルジイしかもたらさない。」ということを意味しない。ノスタルジイの語が示すような安穏とした既視感ではなく、激しい緊張感をはらんだ既視感と言ったほうが実感に近い。9分03秒間の、サスペンスフルな体験だった。

その体験の秘密を探るべく、ここでは『巨神兵』の原作とも呼ぶべき作品である漫画版『風の谷のナウシカ』(1982-1994)から、長大な補助線を引くとしよう。その補助線は、『on your mark』(1995)と『フラクタル』(2011)『フラクタル/リローデッド』(2011)を経由し、『巨神兵』へと繋がっていく。補助線が示す内容を、まず簡潔に挙げておこう。一つにそれは、『巨神兵』の物語を支える「やり直しのサスペンス」の構造を分析する。この構造を踏まえて作品を鑑賞することは、各作品の新たな魅力を読者に提示するだろう。また、本論の最後で再び『巨神兵』に話が戻ったとき、『ナウシカ』の物語解釈にも新たな視点を付け加えることになる。

 
1/やり直しのサスペンスの構造。『on your mark』

映画批評家・三浦哲哉は『サスペンスの映画史』(2012)で「サスペンスとはなによりも受動性の経験を優位に置く映画」と書いている。このシンプルな定義から外れないよう、『on your mark』のチェイスシーンを題材に「やり直しのサスペンス」構造について考えていきたい。押さえるべきポイントは、「①予期される出来事、②画面外の主体の企図、③やり直しの描写」である。

この作品は、1995年に音楽デュオCHAGE&ASKAのプロモーション映像として発注された。上映時間は6分48秒。地上が放射能に汚染され、人々が地下都市での生活を余儀なくされた未来の社会が舞台となる。監督の宮崎駿は、「on your mark」という曲を「その内容をわざと曲解して作って」いると語っている。陸上競技の「位置について」を意味する「on your mark」という歌詞が流れると、作品世界では物語のやり直しが発生する。この演出によって、『on your mark』は3つの物語が描かれる。それは「①予期される出来事」を観客に提示することになる。1回目の物語は断片的で他の物語に比べて短いものの、主人公である警官二人と、翼のある少女との出会いの事件から始まり、少女が地上の青空へと飛び立っていくシークエンスまでが語られる。この1回目の結末を、観客は「①予期される出来事」として理解する。これは物語のやり直しという仕掛が可能としている演出だ。そして2回目の物語では、なんと警官たちと少女の3人は、追跡してくる警察の妨害によって地上へとたどり着くことなく物語が終わってしまう。そしてまた物語はやり直され、3回目の物語では、大幅に出来事を省略して描きつつも、大筋は2回目と同じ展開をたどり、問題の警察とのチェイスシーンで、唐突に彼らが乗っていた装甲車がジェット噴射で空を飛び、すんでのところで警察の追跡をかわすのだ。このチェイスシーンが何よりよくできているのは、装甲車を飛行させたことにある。一見するとご都合主義的な演出にも見えるが、伏線はしっかりと張られている。ただしそれは2回目の物語においてだ。警官の二人は夜遅くまで、少女を地上へと連れ出す準備と計画を練っている場面が描かれている。これは、3回目の物語では省略されているが、しかし2回目の物語を経験した観客は、主人公たちが並々ならぬ決意で計画をたてている様子を知っているので、装甲車がいきなり飛行する映像を見て驚いたとしても、3回目の計画ではここまで準備していたのだと考える余地が十分に与えられている。この、画面に映らない伏線を、「②画面外の主体の企図」として考えることで、『on your mark』のチェイスシーンで描かれている「やり直しのサスペンス」構造が明確になった。
整理すると、観客は「①予期される出来事」によって物語に対して受動的な立ち位置を強制される。しかし、「②画面外の主体による企図」がその出来事に干渉する。②は観客の視界には映らないが、それと感じさせる演出は作中に存在している。最後に、それらの要素は「③やり直しの描写」によって作品中に登場し、干渉し合う。

ところで、『on your mark』は幾つかの点で『ナウシカ』との関連性を指摘されることが多々ある。『ナウシカ』完結の翌年に製作されたことや、汚染の進んだ世界観、翼の少女のデザインなどが『ナウシカ』の世界観と繋がっているようにもとれることが主な理由だ。私もまた『ナウシカ』で描かれる「人類文明の滅びと再生」というテーマは本作にも受け継がれていると感じるが、しかしその点に関しては別の作品をもって分析しようと思う。次に扱うのは、2011年に放映されていたテレビアニメ『フラクタル』と、そのノベライズ作品「フラクタル/リローデッド」だ。

 
2/やり直すことの意味。ゼロではなくイチに戻る。『フラクタル』『フラクタル/リローデッド』

この章では、「やり直しのサスペンス」の構造分析を深める為に、映像作品だけでなく小説作品も扱っていく。
「時代をゼロから始めよう」と歌った『仮面ライダークウガ』(2000)は、ゼロ年代を象徴する作品の一つだが、いまや放射性廃棄物というゼロにできない負債を国土に抱えたこの国ではその言葉も力弱く響いてしまう。十年代に歴史に対してとるべき姿勢とは何だろうか。それを考えるヒントが、2011年の作品『フラクタル』だ。この作品について、山本寛監督は「ラピュタのような冒険物」をやろうと考えていたと発言している。また、作中に登場する重要人物モーランの声を担当する声優は、映画版『ナウシカ』のナウシカ役を務めた島本須美であり、彼女とヒロインのフリュネが議論する場面を、山本監督は「新旧ナウシカ対決をやりたかったんです」と語っている。彼が『フラクタル』を宮崎作品から連続したものと捉えているのは明白だろう。
また、作品の世界観も『ナウシカ』と『フラクタル』には共通点がある。現代から数千年後を舞台としていること、世界が緩やかに終わりに向かっていること、世界の秘密を管理するのが宗教組織であること、などが大きい相似点だろう。『ナウシカ』のラストは、旧人類の作り出した世界の浄化システムと、やがて現れる穏やかで人間的欠点を克服した新人類とを、ナウシカが否定し、それらを滅ぼすという衝撃的な展開が描かれている。ここには作者である宮崎駿の力強い思想が息づいている。では、『フラクタル』の物語はどこへ向かっただろうか。世界を安寧のまま管理するフラクタル・システムの老朽化という現実を突きつけられた主人公の少年クレインは、システムの再起動と破壊とを選択する立場に立たされる。これは山本監督による『ナウシカ』の物語のやり直しにも見える。監督は「今この世界に対してクレインにできることは、この程度しかない。それでいいと思ったんです」と語っている。フラクタル・システムは再起動されたが、数千年後には再びシステムは老朽化し、その時にはもはや再起動の技術は存在しないだろうことが示唆される。その意味でクレインの選択は、「世界の前提となるシステムをなかったことにする=ゼロに戻る」ではなく、「再び緩やかに終わりに向かう世界(物語の開始点)=イチに戻る」のだと言える。
この選択に異を唱えていたのが、原作・原案としてスタッフクレジットされていた哲学者の東浩紀だ。彼は企画の初期段階から、「フラクタルシステムは壊れないといけない」と、自らの物語への考えを主張していたが、放送された内容が示すように、その主張は却下されている。そして彼に『フラクタル』のノベライズの話がやってきた時、東は自分なりに「フラクタルという物語をイチ(企画段階)から語り直す」ことを始めた。ただし、そのノベライズ『フラクタル/リローデッド』は未完であること(また、この論文のテーマが「映画」であること)から、東の試みの詳細な分析は割愛させて頂く。ただ一つ言えることは、アニメ版『フラクタル』を偽史として扱い、アニメ本編とは全く違う世界の姿を創出した『リローデッド』の物語の中心に置かれていた謎が、クレインの最終回での選択(小説では「大初期化」と呼ばれる)であることは、山本と東が、意見を異にして決裂していながらも、何を物語の核心に据えるかという部分では意外にも共通性を有していたことを語っているようであり興味深い。そしてまた、そこで着目された「ゼロではなく、イチに戻ること」とは、「on your mark = 位置につくこと」との関連性にも気づかされる。「やり直しのサスペンス」とは、「なかったことにする」のではなく、「始まりに戻ること」が重要であり、それこそが十年代的な歴史に対する想像力と言える。

 
3/震災以降で考える、やり直しのサスペンス。『巨神兵東京に現る』

ここでようやく、『ナウシカ』という「人類文明の滅びと再生」を描いた作品から引き始めた「補助線=やり直しのサスペンス」が、2012年の『巨神兵』にまでたどり着いた。この章では、『巨神兵』という作品に満ちたサスペンスフルの分析と、そこから描かれる「人類文明の滅びと再生」の表現だ。
まず強調しておきたいことは、『巨神兵』という作品が東日本大震災後に製作された作品であるということだ。震災と時期を同じくする『フラクタル』や、ここまで扱ってきたそれ以外の作品はすべて、震災以前に製作されている。この事実は、『巨神兵』の「やり直しのサスペンス」に大きく関与している。
では、『巨神兵』の物語を、「やり直しのサスペンス」の構成要素(①予期される出来事、②画面外の主体による企図、③やり直しの描写)について確認しつつ追っていこう。物語はシンプルである。ある日突然、東京上空に巨神兵が現れ、街を焼き払い、『ナウシカ』で終末戦争として語られた「火の七日間」が始まりが描かれる。映画はそこで終わりだ。大いなる災厄の蹂躙を、日本屈指の特撮技術で表現した超技術の特撮短編映画。単純にまとめれば、『巨神兵』とはそういう映画である。ただし、ここではむろん、それで追われない。破壊の物語には、林原めぐみによる語りが重ねられ、不可思議な物語が重奏される。「僕は警告だよ」と名乗る弟そっくり男の子に、語りの女性は「この街は明日全部壊れるよ」と告げられる。その助言を、警告を、女性は活かすことができず、街は滅ぼされる。ここでは、観客に「①予期される出来事」が告げられると同時に、映像に姿を表さない男の子によって「②画面外の主体による企図」が描かれている。しかしの企図は失敗する(『on your mark』で2回目の物語の脱出が失敗に終わったのを連想させる)。巨神兵が現れ、東京は壊滅する。「やり直しのサスペンス」は不完全に終わったかのようにみえる。
しかし、もちろんそうではない。ここでは視点を変えて、物語を捉える必要がある。あるいは、今までよりずっと素直に考える必要がある。物語の中心に、災厄に巻き込まれた人物ではなく、災厄を引き起こしたもの、つまりは巨神兵を中心として、その役割、その視点から考えよう。
ここには何重にも「物語のやり直し」が隠れている。特殊撮影という緩やかに滅びつつある技術の再生の物語。東日本大震災を経験した日本にとっての、災厄の物語。『ナウシカ』で描かれた「火の七日間」という終末戦争と、そこからの世界再生計画の物語。これらの物語が、僅か9分程の映像に濃縮されているのだ。その密度、物語の厚み、過去と未来への視野の広さ。どれをとっても圧倒的である。

最後に、『巨神兵』を巨神兵の視点から見た場合の「やり直しのサスペンス」について言及して、この論文を幕としたい。
改めて「やり直しのサスペンス」の構成要素を確認しよう。『ナウシカ』が完結してから20年弱の時間を経てやり直された「火の七日間」という物語(「③やり直しの描写」)。それはやり直しであるからこそ、結末はすでに『ナウシカ』にて描かれていると言える(「①予期される出来事」)。そして、ここで予期されている出来事とは、『巨神兵』の映像に登場しないナウシカによる世界再生計画の妨害である(宮崎駿が巨神兵の使用許可を出した際に、「ナウシカは絶対にだめだよ」と念を押したことは、興味深い偶然だ)。こうした視点に立った時、私たちは巨神兵の立場にいる。それは、私たちが災厄の主であることを意味しているが、それは何も突飛なことではない。震災によって起こった原発事故は人間の作り出した技術の暴走であり、巨神兵もまた人類が造り出した裁定者としての神という設定だった(ついでに言えば巨神兵は日本製だ)。『巨神兵』で描かれる災厄とは、私たち今を生きる人間を蹂躙するものであると同時に、私たちが望んで造り出した技術の結晶でもあるのだ。前者と後者では、破壊に対する立場が逆(受動的/能動的)だが、しかし「再生/復興」を強く望んでいるという点では一致しているというのは、私たちの文明の大いなる矛盾と言えるだろう。
「やり直しのサスペンス」から見えてきた『巨神兵』という作品の内実。誰が再生を成し得るのか。そして、誰が(かつてナウシカが遂げたように)その再生を妨害するのか? 人間が抱く、破壊と再生への両義的な欲望が、この作品にはみっしりと詰まっている。

 

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