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『映画(批評)』の再起動について。『桐島、部活やめるってよ』を「映像圏的批評」から考える。

1/「映画的なもの」と「映画的でないもの」

 今日の情報技術の発達によって、「映画的なもの」の捉え方は日々変化している。しかし、それはあくまで、1895年のリュミエール兄弟によるシネマトグラフ発明の射程内に収まっている。映像をスクリーンに写し出し、多人数での鑑賞スタイルを映像文化に定着させた意義は大きいが、その射程からこぼれ落ちるものは「映画的でないもの」とされている。

 映画批評家の蓮實重彦は、

「映画をめぐる自由と拘束」という文章の中で、「映画を見るためには、あらかじめ複数の拘束を受けいれる覚悟が必要となる。(略)ほとんどの場合、自宅を離れずに映画を見ることは不可能なので、こちらの思い通りに組まれているはずのない上映時間を確かめ、上映会場――映画館、試写館、試写室、それともメディアテーク、等々――までのおよその距離と経路を想い描いたうえで、何時に家を出ねばならぬかを律儀に考えておかなければならない」

 と書いている。この後にも、長々とその日の予定の調整や、映画館での席取りなど、事細かに書き連ね、「映画を見るということは」「徹底して不自由な体験」であると断じている。

 映画という体験をスクリーンでの上映を前提とした、蓮實のこの言葉に従えば、たとえば通勤電車に揺られながらスマホで鑑賞する映画は「映画的でないもの」とされるだろう。それは映画史的に見た場合でも、ある意味で正しい。一般的に、今日に至るまでの映画史の始まりは、リュミエール兄弟のシネマトグラフに求められる。それに対して、その前年に公開され人々を魅了したという、エジソンのキネトスコープは、スクリーンではなく箱の内側に映像を映し出す仕組みであり、仕掛け自体が大がかりかつ移動性が低く、またのぞき穴から映像を鑑賞する為、多人数が同時に見ることも不可能だった。現代の映画館での鑑賞スタイルとはかけ離れたその発明は、映画史の中でも「前映画史」とされており、「映画的でないもの」のようにみなされている。

 だが、この考え方は、果たして今でも有効だろうか?

2/『映画(批評)』再起動の手がかりを探して 『桐島、部活やめるってよ』

 それを見極めるために、映像研究者の渡邉大輔が『イメージの進行形』で提示した「映像圏」という概念を参照しよう。
『イメージの進行形』は、映画史に関する広範な知識をもとに、ソーシャルメディアの想像力が生み出す現代映像文化を映画史の延長線上で批評するという試みだった。しかし、それはあくまで表層的な読解に過ぎない。『イメージの進行形』が優れているとすれば、それは「ソーシャル的想像力を分析の対象としているから」ではない。そうではなく、「映画的なもの(映画史)」と、「映画的でないもの(ソーシャル的映像文化)」との接続を実践しているところにある。渡邉はこの接続によって形成される批評的場を「映像圏」と名付けた。この「映像圏」を足場にして、さらに新たなるクリエイティビティを、これまでの映画、あるいはこれからの映画に発見し、『映画(批評)』の再起動へとつなげていく方法を考えてみたい。

 ここで具体的な作品をひとつ挙げてみよう。2012年に公開された『桐島、部活やめるってよ』は、一見すると丁寧に描かれた青春群像劇である。学校中で一目置かれているスター的存在の桐島が、突然バレー部を退部したことで起こる、周囲の人間模様の混乱や衝突が描かれている。映画評論家の町山智浩は、「神の不在=人生の無意味性」をテーマとしたベケットの『ゴドーを待ちながら』を参照しながら、

「桐島っていうのはそのゴドーにあたる、来るわけもない、絶対最後まで現れない、世界の中心、世界の意味、世界に意味を与えているもの」

 と語り、実存的なテーマを備えた、青春物という枠だけに収まらない普遍性をもつ作品として、『桐島』を評価している。あるいは、批評家の中森明夫も「キリシマ=キリスト」という見立てに始まり、桐島という「青春映画の頂点のような男子」の不在によって始まるこの物語を「青春映画を批評する青春映画」として、やはり高く評価している。

 これらの分析には頷ける点が多いが、しかしここでは上述のような方向の批評にはこれ以上立ち入らないこととする。ここですべきは、この作品を「映像圏」的に批評することで、『映画(批評)』の再起動の手がかりを探ることである。

3/「映像圏的批評」を巡って。「ソーシャル文化と映画史」

 桐島の不在は、通信の機能不全によって何度となく強調されていく。桐島と付き合っている女子生徒は電話もメールも応答がないと愚痴をこぼし(退部の事実を知る瞬間までは、彼女は何の不都合もなくスマホを操作している)、桐島の友人の男子生徒たちも連絡がとれないことに苛立ちを覚えている。そして映画のラストシーンでも、東出昌大演じる主人公の宏樹が桐島に通話を試みている。その通信が通じたか否かは、観客には確認することはできない。このように、桐島の不在は「通信機器の機能不全=ソーシャル的空間の機能不全」として描かれている。

 この解釈が深読みのように感じられる読者に対しては、原作者である朝井リョウが、Twitterをモチーフに、ソーシャルネットワークを介した人間関係の表裏を巧みに描いた『何者』で直木賞を受賞していることを挙げておきたい。朝井がソーシャル的リアリティを捉えることに長けた作家であることを考えれば、『桐島』にもその萌芽を読みとることも荒唐無稽とは言えないだろう。

 ただし注意すべきは、原作小説がソーシャル的リアリティで組み上げられた青春群像劇であるのに対して、映画はそれとは別のリアリティを持ち込んでいる点だ。

 原作にはない映画独自のシーンとして、神木隆之介演じる映画部部長の前田涼也が、桐島を追いかけて撮影現場の屋上を荒らした生徒たちと対峙する場面がある。原作では青春物を撮影していた前田は、ここではゾンビ映画を撮影している。桐島を中心としたソーシャル的空間=青春群像劇に対して、ゾンビ映画は明らかに非ソーシャル空間として映画に呼び込まれている。死者であるゾンビに青春も何もないし、ソーシャル空間のような共時性も起こりえない。また、『映画秘宝』を愛読し、教師に自分の撮りたい映画を説明する際にジョージ・A・ロメロの名前を引いてくる前田は、映画史的な文脈も作品内に持ち込んでいる。

 前述の屋上の場面で、前田はゾンビに扮する映画部員たちに、「(撮影の邪魔をした宏樹たちを)喰い殺せ!」と指示を出す。ここでは明確に、ソーシャル的空間と映画史との衝突を描いている。その撮影の中で、前田は(妄想の映像ではあるが)自身のインスピレーションを最大限に発揮したかのような美しい映像を8mmのレンズ越しに見る。
作品中で最も美しいと言っても過言ではない映像は、こうしてソーシャル的空間と映画史の衝突=接続の上で成り立っている。

 だが、ここで批評を止めてはいけない。

 先ほども述べたが、これでは単に「映像圏」を表層的に考えたことにしかならず、「映像圏的批評」とは呼ぶことはできない。
ではどうすれば「映像圏的批評」は可能だろうか?
そのために、ここで再び「映画的でないもの」としての、エジソンのキネトスコープを思い出してみよう。一度に一人までしか鑑賞できない、この映写の仕掛け箱は、共時性のあるスクリーンと比べたとき、さながら「密室」的な映画館と言えるだろう。
外部との共時性を絶たれた「密室」的な映像経験。ここにこそ、「映像圏的批評」の本質がある。

4/「密室」から考える「映像圏的批評」

『桐島』には、屋上の場面以外にも、重要な原作からの変更点が幾つかあるが、ここで挙げておきたい点は、映画部の部室である。

映画部の部室について、原作では詳細に描かれていないが、映画では剣道部の部室(更衣室)の一部を間借りしている様子が描かれている。暗幕で剣道部の部室と境界を作った部室の中で、漫画や映画の話に興じている部員たちの様子は、外部との接触を絶った密室でのやりとりのようにも見え、オープンなイメージのソーシャル空間とは大きく印象が異なっている。些細な変更点のようにも思えるが、「映像圏的批評」にとっては最も重要な要素である。すなわち、「密室の映像文化」と「外部に開かれた映像文化」との接続こそが、「映像圏的批評」の対象となりうるのだ。

 ニコニコ動画などのサービスは、疑似同期性があっても、鑑賞は自室で一人行うことが普通だろう。それもやはり「映画的でないもの」なのだ。『イメージの進行形』は、「映画的でない」と思われていたソーシャル文化を、「映画的なもの」に接続していることにこそ批評的価値があった。『桐島』でも同じだ。「ソーシャル文化」と「映画史」の衝突ではなく、「密室の映像文化」と「外部に開かれた映像文化=映像圏」の衝突こそが、この作品の本質である。

 今、求められている『映画(批評)』があるとすれば、それは『イメージの進行形』や『桐島』が示している問題系について考えることの他にない。

 屋上の場面の終わりに、前田の映画に対する情熱に興味を持った宏樹は、「どうしてわざわざ映画なんて撮っているのか?」という意味の質問を投げかける。それに対して前田は「時々ね、俺たちが好きな映画と、今自分たちが撮っている映画が、つながっているって思える時があって」と答える。

 この言葉で前田が言わんとしていること、そして『桐島』という作品が描いていることは、ここまで読んで頂いた読者にとっては既に明らかだろう。

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