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浦沢直樹論。コウモリと人間。相互引用可能性。

 

現在連載中の浦沢直樹『BILLY BAT』(2008年〜)は現実とフィクションの相互作用とでも言うべき奇妙な構造の物語だ。私はその構造を「相互引用可能性」と呼ぶことにする。

私はそのために、浦沢直樹の代表作『MONSTER』(1994〜2002年)『20世紀少年』(1999〜2006年)を読み解く必要を感じている。『MONSTER』の読解では、他作品にも通じる浦沢作品の描く人間性というテーマを浮き上がらせる。そして『20世紀少年』には、「昭和90年代」という偽史的想像力が織りなす一つの形を見出すことができるだろう。最後に『BILLY BAT』で私たちが向き合うのは、『20世紀少年』とは異なる形で描かれた「昭和90年代」以降の世界である。その世界は、多重化された「相互引用可能性」によって導かれることとなる。

 

 

第一部『MONSTER』

 

一章 終わりの風景

 

『MONSTER』の物語は入り組んでいる。東西ドイツの統合、冷戦構造、医療倫理、冤罪事件、児童虐待、家族愛など、テーマが多層的に重なり合っている本作は、その複雑さにも関わらず2000万部以上の大ヒットとなった。『YAWARA!』を1993年に完結させた後、浦沢はすぐにミステリー物の漫画を描く気でいたが、『YAWARA!』によって起こった女子スポーツ物の人気を、当時の「ビッグコミックスピリッツ」編集部は終わらせたくなかった。そして編集部の懇願によって、同年に女子テニスを題材とした『Happy!』が始まることとなる。

浦沢はこのとき既に、架空の街を舞台にしたミステリー物の企画を考えていたが、それは実現せず、フラストレーションを溜めつつ『Happy!』の連載を続けていたことがインタビューで語られている。結局、『MONSTER』の連載が始められるのは1994年の『MASTERキートン』の完結までを待つこととなる。しかし、そのタイムラグこそが結果として『MONSTER』という作品を生んだことについて、浦沢自身が「あそこの回り道は絶対にね、逆にありというか、必要だったんですよ」と述懐していることは実は重要である。なぜなら浦沢作品において、「回り道」は重要な表現技法の一つと呼ぶべき要素でもあるからだ。

前述したように『MONSTER』の物語は複雑である。にも関わらず、この作品を読む読者が、物語についていけなくなることは少ないと言えるだろう。それはこの作品が、常に「主人公テンマが、謎の美青年ヨハンを追う」という基本的な構造から逸脱していないからだ。

しかし、この事実は逆にデメリットも存在する。この構造に沿って連載を最後まで追いかけた読者にとって、興味があるのはテンマとヨハンの決着となる。だが最終巻で描かれたエピソードは、その期待に十分に応えたとは言い難い。

物語をテンマ視点で簡潔に示そう。日本人医師テンマは、銃で撃たれた幼少時のヨハンの命を手術によって救ったが、ヨハンは回復後に病院から失踪する。そして9年後に殺人鬼となって自らの前に再び現れた青年ヨハンにテンマは衝撃を受ける。自分の救った一人の命が、より多くの命を奪う結果を導き出した現実を前に、テンマは自らの手でヨハンを殺害することを決心し、ドイツやチェコを渡り歩き、ヨハンを追う旅に出る。だが、最終的にドイツの片田舎の街でヨハンを追い詰めたテンマは、ここでもまた銃弾に倒れたヨハンの命を救う選択をする。そして物語は、無事回復したヨハンが病院のベッドから姿を消す場面で幕を閉じる。

物語冒頭の反復とも取れるこの幕切れに、ヨハンとテンマの決着を期待していた読者は肩透かしを食らったことだろう。『MONSTER』の人気の理由が、複雑な物語背景を持ちながら、シンプルな構造(テンマがヨハンを追う)のサスペンスに徹したことにあったとすれば、読者の反応も根拠のないものとも言えないだろう。例えばそれは、近年のサスペンス漫画の傑作として名高い『DEATH NOTE』で、ライバル関係にあったキラとLの決着を描かずに連載が終わってしまうようなものと言える。

 

しかし、それは本作を「テンマがヨハンを追う」物語として読んだ場合である。もちろん、それが間違った読み方であるわけがない。だが読み替えは可能だ。私達はテンマ視点ではなく、ヨハン視点で『MONSTER』の物語を読み返す必要がある。

これは極端な深読みを読者に求める行為とは異なる。前提として、浦沢作品に「一人の天才と、その周りで右往左往する人々」というフォーマットが頻出する事実がある。『YAWARA!』も『Happy!』も、天才的才能をもった女子選手を中心とした物語であり、『パイナップルARMY』『MASTERキートン』も主人公は天才タイプである。では『MONSTER』はどうかといえば、確かにテンマは天才的医師という設定だが、劇中での活躍は彼の本業の医師ではなく、「ヨハンを追う追跡者」であり「冤罪捜査から逃げる逃亡者」である。これは前述の作品の主人公たちとは異なる描かれ方である。それでは『MONSTER』において中心的存在として描かれる天才的人物は誰なのか。それは殺人鬼ヨハンである。

タイトルである『MONSTER』を示す人物がヨハンであることも、単純な事実ではあるがこの読み方が正当であることを裏付けている。読者に提示されたこの物語はテンマ視点で描かれているが、実際にはヨハン=怪物の視点こそが中心的であると言える。

ヨハンの視点から読む『MONSTER』は、自らのルーツを探る物語である。それは彼が「終わりの風景」へと至る道程でもある。

物語開始時点のヨハンには、多くの記憶の欠落があった。その謎を彼自身が解き明かしていくことが彼の物語だった(テンマをはじめとする彼の追跡者たちは、その解明をなぞるようにして彼に追随していく)。ヨハンは自分のことを知る人間を殺害し、また自分の存在した痕跡(写真や録音テープ)を消していくことを繰り返すが、なぜ自分がそうするようになったのかを最初は理解していなかった。

そして彼は「なまえのないかいぶつ」という絵本に出会う。そこには「ヨハン」という名前のかいぶつが、自分を知る人間に食べ尽くしてしまい、誰も自分のことを知る人間がいなくなってしまう物語が描かれていた。名前の一致は偶然ではない。なまえを持たなかった少年に「ヨハン」という名前を与えた人物は、少年が持っていた絵本からその名前をとったのだった。青年ヨハンは、「なまえのないかいぶつ」に出会うことでその記憶を取り戻す。なぜ自分を知る人間を殺し続けるのか。それは幼少期に繰り返し読んだその絵本の影響だった。なまえのない少年だったヨハンは、絵本に登場するなまえを持たないかいぶつに自分を重ね合わせていたのだ。

「なまえがない」ことが彼を殺人に駆り立てるほどの絶望だった。誰も自分を知らない世界。それをヨハンは「終わりの風景」と呼んだ。まだヨハンという名前を与えられていなかった頃に妹と二人で行き倒れた、チェコスロバキアの国境の荒涼とした枯れ果てた大地がその風景として作中で描かれている。

ヨハンの名付け親となったヴォルフ将軍は、自分を知る人間のすべてをヨハンに殺害される。自分がヴォルフであることを証明することのできない彼は、死の間際に「名前を呼んでくれ……それが…私の生きた証だ……」と口にする。テンマがそのそばで彼の名前を呼ぶが、数度会った程度のテンマの呼びかけは、彼の絶望を癒やすことはなかった。ヴォルフは「これが……ヨハンの見た風景か……名前のない世界だ……」と呟いて息絶える。彼が最後に幻視したのは、名前のない瀕死の双子が見た、枯れ果てた大地の風景だった。

 

 

二章 なまえ、手紙、郵便空間

 

ヨハンのルーツにあった「終わりの風景」は、誰も自分を知る者がいない世界だった。誰も自分のなまえを呼んでくれない世界とは、呼ばれるべきなまえを持たない者の世界だ。ヨハンの異常な人間性はそこから始まっている。ヨハンの視点で読む『MONSTER』とは、この「終わりの風景」と向き合うことを迫られる物語である。

「終わりの風景」の絶望をより明確にするために、作中に登場するもう一人の「なまえがない」人物に焦点を当てよう。その人物は、物語中で主にグリマーと呼ばれるが、それは数ある偽名の一つでしかない。彼はヨハンと同じように、非人道的実験の被験者だった。グリマーには14歳以前の記憶がほとんどなく、本名も不明とされている。そして彼は、笑ったり泣いたりといった自然な感情表現を行うことができず、表情には常に「訓練をして形だけ身につけた笑顔」を浮かべている。一見すると人が良さそうだが、息子が亡くなったときにどう反応すべきかわからずにいた彼に対して、彼の妻は「あなたの心の中には何もない」と言い放ち、彼の元を去っている。

ドイツ統一前にスパイとして活動していたジャーナリストであるグリマーは、物語中盤で登場し、テンマの逃亡を助けるなど多くの場面で活躍する人物である。彼はいくつかのエピソードを通して、自分自身の感情を少しずつ取り戻していく。物語終盤で彼は息絶えるが、その死の間際についに彼は自然な感情表現を獲得し、人間性を取り戻す。

漫画史研究家の宮本大人は、『美術手帖2016年2月号』の「描線、名前のない怪物」で、浦沢漫画の顔の表現力が『MONSTER』で急激に上がっていることを指摘している。それは例えば「下まぶたと鼻の間のエリア、及び上まぶたと眉間の間のエリアに、多くの細い線が描き込まれることによって、目の周りの筋肉と皮膚の動きや質感が強調され、表情の複雑なニュアンスが生み出される」ことによって示される。しかし同時に、内語による心理描写をあまり使わない浦沢の作風は、表情と内面が一致することを保証していないことにも触れている。その具体例として、宮本はグリマーの描かれ方を解説する。

「非人間的な実験によって喜怒哀楽を奪われた彼にとって、表情とはつくり方を学ばなければならないものだ。彼が見せる柔和な笑顔は彼のいかなる内面も表していなかった。この物語の中では、彼が次第に感情を回復し、感情と表情の自然な結びつきをも回復していく救済が描かれるが、読者は、人間の感情・心理・内面といったものと表情とが、乖離しうること、表情だけからそれらが読み取れるとは限らないことを、知ってしまう」

宮本のこの分析は、浦沢の絵の特徴を的確に捉えるとともに、グリマーの内面描写に対する指摘でもある。表情と感情の乖離とは、浦沢の絵の特徴であり、グリマーの内面的苦悩の現れだ。グリマーはその乖離が解消されたことを、次のように表現している。

「人間は……感情を無くすことはできない……感情は、どこかわからない所に……迷い込んでいたんだ……まるで……俺宛てに出した誰かの手紙が……何十年も経ってから届いたみたいだ……」

表情と感情の乖離の問題、つまり人間性の喪失の問題は、ここでは到着の遅れた手紙の比喩で語られている。手紙のタイムラグの比喩は「なまえがない」ことと関連付けられている。なまえがなければ、宛先人の特定は困難である。「なまえがない」人間に手紙が届くことは奇跡のようなものだ。故に「終わりの風景」に立つ人間には手紙が届かない。それは人間性の喪失を意味する。「なまえのないかいぶつ」であるヨハンは、作中で様々な人物に執拗に手紙を出していることが示されるが、彼の元へ手紙が届いた描写は一度もない。その極端な対称性は、端的にヨハンの苦しみを描いていると言える。

 

なまえと手紙の比喩は、『MONSTER』と同時期に「批評空間」に連載され、1998年に書籍化された哲学書である、東浩紀『存在論的、郵便的』にも重要な概念として登場している。ポストモダンの代表的哲学者であるジャック・デリダの思想の読解を目指した本書は、デリダの用いる謎めいた比喩である「郵便」を基軸に、ポストモダン思想が陥りがちな否定神学を回避するための思考様式を展開している。

ここでその思考の詳細に踏み込むのは浦沢論からの逸脱が過ぎるが、本章との関連性の強い議論として、固有名の訂正可能性と、郵便空間の概念が挙げられる。

東は、デリダの用語である脱構築を二種類に分類する。一つはゲーデル的脱構築であり、これは構造の中に特異点としての「思考されざるもの」を設定することで否定神学化してしまう。もう一つはデリダ的脱構築であり、郵便的脱構築とも説明される。前者と後者では、固有名を固有名たらしめるもの(固有名の剰余)の考えたかが異なる。前者では、固有名の剰余を「象徴界が抱えるゲーデル的決定不可能性の顕れとして、つまり象徴界の全体構造によって」説明され、後者では「コミュニケーションの失敗こそが固有名の剰余を生じさせる」と説明される。

少し噛み砕いて言えば、世界というシステムによって「単一的」に説明される前者の固有名に対して、コミュニケーション=伝達の経路によって「複数的」に説明される後者という関係になっている。

そして、郵便空間とは、後者のデリダ的脱構築が問題とする伝達の経路について思考するための言葉である。コミュニケーションの失敗は、手紙の誤配として説明される。『存在論的、郵便的』が言及されるとき、最も多用される用語の一つが、この誤配だろう。

ここで、浦沢の手紙の比喩について考えてきた私たちは、誤配という言葉から「失敗の可能性」ではなく、「遅れて届く可能性」こそに注目すべきだろう。『MONSTER』で描かれる人間性は、まさに手紙がもつ「遅れて届く可能性

」によって描かれていた。

 

一部の読者には、浦沢が用いる手紙の比喩と描写と、『存在論的、郵便的』で用いられる郵便空間とは、一見するとその目的が異なっているように感じられるかもしれない。デリダ、そして東がポストモダン思想、つまり社会と密接なつながりをもつ哲学として郵便空間(手紙の比喩)を用いているのに対して、浦沢はフィクションにおける人間性の表現としてそれらを用いている。

しかし、私たちは後に『20世紀少年』と『BILLY BAT』で、浦沢がポストモダンを通過した社会である「昭和90年代」の時代を描いていることを確認することになるだろう。また、東浩紀が『存在論的、郵便的』での議論をサブカルチャーを題材にして発展させた、2001年の『動物化するポストモダン』が主にキャラクター論として後続の批評家に引用されていくことも意識すべきである。両者は遠いようでつながっている。『BILLY BAT』についての読解において、このことは再び思い出されるだろう。

 

ヨハンは手紙魔である。彼は大量の手紙を送りつける。しかし、彼の元へ届く手紙は存在しない。その問題は、彼が「なまえのないかいぶつ」であることと無関係ではない。彼が抱える「終わりの風景」という絶望は、つまりは「彼の元へ届く手紙が存在しない」という事実に端的に顕れている。それはいわば、「郵便空間の機能不全」である。

『MONSTER』のラストで、テンマとヨハンの決着は描かれない。しかしヨハンのルーツを探す旅の答えは、その一端が示されている。テンマは双子の母親に出会い、彼女がヨハンにつけるはずだった名前を教えてもらう。テンマはその事実をヨハンに伝える。このことは、ヨハンにも手紙が届きうる可能性を示している。

前述したように、物語はヨハンが再び病院から失踪する場面で閉じている。それは物語冒頭の反復である。しかし失踪後のヨハンは、それまでの行動の反復をとらないだろう。彼にはなまえがあったのだから。彼は「なまえのないかいぶつ」ではなくなった。物語はそこで終わる。

 

 

第二部『20世紀少年』

一章 ふたりの「ともだち」

 

『20世紀少年』は『Happy!』完結後、「ビッグコミックスピリッツ」で1999年から連載が始まった。浦沢は当初、『Happy!』の後に週間連載をやるつもりはなかったそうだが、『20世紀少年』冒頭で描かれる「彼らがいなければ、21世紀を迎えることはなかったでしょう」というセリフと場面が思い浮かんだことから、一年と間を置かずに「ビッグコミックスピリッツ」に戻ってきている。20世紀と21世紀の横断こそがテーマの漫画であったことから、始めるなら1999年が終わる前に始めるべきだという判断があったようだ。

 

浦沢は『MONSTER』に続いてこの漫画もヒットさせる。2008年には堤幸彦監督による三部作の劇場版としても公開されている。しかし、この漫画でも『MONSTER』と同様の批判は生まれている。『MONSTER』では「テンマがヨハンを追う」サスペンス展開に対する決着の欠如が問題だった。『20世紀少年』では物語中の黒幕である「ともだち」の正体を追うサスペンスとして読者の人気を集めたが、最終的にその正体があまりにさらっと描写されていた。この『MONSTER』と同型の問題は、浦沢直樹という現代を代表する物語作家が、その高い評価にも関わらず「オチの弱い作家」という評判も少なくない現実につながっている。

ここで必要な切り替えを私たちは既に知っている。私たちは『MONSTER』についてヨハンの人間性から読解を試みたように、『20世紀少年』においても「ともだち」の人間性について着目することで物語を読み解かなくてはいけない。

 

社会学者の大澤真幸は、『不可能性の時代』で『20世紀少年』について触れている。

「このマンガは、1970年前後の時期に固有の意味を与えている。テロは、1970年に果たせなかった試みを、あるいは1970年に失敗した試みを、その30年後に取り戻すための反復として敢行されるのだ」

1970年とは日本万国博覧会(大阪万博)の年である。また、ここで言及されているテロとは、作中の2000年12月31日に敢行された「血の大晦日」のことである。主人公の遠藤ケンヂのグループが実行犯に仕立て上げられたこの事件は、すべて「ともだち」の正体であるフクベエの計画したものだった。この事件が大阪万博の反復を意図していることは、フクベエが太陽の塔を模したモニュメントに乗って、ケンヂの前に現れることからも明らかである。では、なぜフクベエは大阪万博の反復を行う必要があったのか?

1970年当時、彼らは小学五年生だった。フクベエはケンヂの同級生だったが、クラスの人気者であるケンヂに対して強いコンプレックスを感じていた。それは言ってしまえば「クラスで目立ちたい」といった程度の幼い願望ではあった。しかし彼にとっては、その思いは30年間忘れることなく胸に抱き続けるに足る復讐心でもあった。彼はその復讐の手段に、あるモチーフを取り込んだ。それが前述した大阪万博である。

では、なぜそのモチーフを取り込んだのか?

フクベエのテロの目的は、「クラスの中心になれなかった」という失敗の試みの反復である。人類の進歩と調和を掲げた大阪万博は、クラスどころか当時の日本中で注目された時代の中心地点だった。「家族で万博に行っていた」という内容の日記を捏造してまで大阪万博に執着したフクベエだったが、努力の甲斐も虚しく、夏休みが明けた二学期の教室で話題となったのは、ケンヂたちが肝試しで幽霊を見たという事件だった。この出来事が、フクベエを30年越しの復讐劇に駆り立てた要因の一つである。

フクベエは何がしたかったのか。それを端的に言い表せば「当事者になりたかった」となるだろう。小学生時代の教室で、同級生たちの話題が自分を中心に交わされることを望んだ少年は、大人になっても同じように、世界中の人々の話題が自分を中心に交わされることを望み、そしてそれを新興宗教やテロや政権奪取といった手段によって実現させてしまう。また、わざわざテロの容疑がケンヂたちに向かうように画策したのにも理由がある。フクベエが望んだのは、ケンヂ以上の存在感を周囲に示すことだった。フクベエは当事者としてのケンヂに嫉妬し、彼以上の当事者になることを望んだ。

 

ところで、この物語にはもう一人の「ともだち」が登場する。物語後半でフクベエが死んで以降、「ともだち」に成り代わったとされるカツマタくんだ。彼は小学生の頃に、ケンヂの万引きの濡れ衣を着せられ、フクベエから「おまえは今日で死にました」と告げられたことがきっかけとなっていじめの対象となってしまう。その苦悩は長らく続き、中学二年生の時には屋上から飛び降り自殺を行おうとする。だがそのとき校内放送でケンヂが流した「20th Century Boy」を聴いて自殺を思いとどまる。彼にとってケンヂは自殺のきっかけとなった人物であると同時に、それを思いとどまらせてくれた人物でもあった。

作中でカツマタくんの本名は描かれない。フクベエの本名は「服部=ハットリ」であることが明かされているが、彼を本名で呼ぶ人間は作中ではごく限られている。フクベエがケンヂの前に「忍者ハットリくん」のお面を被って現れても、ケンヂはお面の人物が「ハットリ」であることに全く気づかなかったという冗談のような演出すら描かれている。彼らはヨハンのようになまえを呼ばれない存在だった。そしてヨハンが「なまえのないかいぶつ」を生きる指針としたように、二人の「ともだち」もまた大阪万博の反復を生きることとなる。

『20世紀少年』とは、この二人の「ともだち」による壮大な偽史の物語である。フクベエはその途上で息絶えるが、カツマタくんは彼らの作り上げた歴史の当事者となる。それがこの漫画で描かれる「2015年以降=昭和90年代」としての「ともだち歴」である。

 

 

二章 ケンヂの自己反省は「安全な痛み」なのか

 

少年時代に死んだことにされたカツマタくんは「ともだち歴」という偽史において、世界の中心に座したと言える。しかしその世界は、昭和の反復としてのハリボテのような世界だ。

昭和という時代について、批評家の宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』(2008年)で次のように書いている。

「昭和が「安全に痛い」ものでしかないのは、はっきり言ってしまえば仕方のないことである。歴史という大きな物語が公共性と個人の生きる意味を備給していた時代が終わった以上、当事者性を欠いた「歴史」が「安全に痛い」ものになるのは当然の帰結である」

宇野の言う「安全に痛い」という表現は、自身にとって致命的な痛みを伴わない安全地帯での自己反省であり、彼はゼロ年代に流行したサブカルチャー作品の多くがその自己反省の回路を備えていると指摘している。そこでは引用箇所でも示したように、「昭和的ノスタルジー」が強い批判の対象として挙がっている。では、『20世紀少年』で描かれる当事者性も、彼の言う「安全に痛い自己反省」の範囲でしかないのだろうか?

 

その問いに答えるためには二人の「ともだち」を区別して考える必要がある。結論から言えば、フクベエは「安全な痛み」の枠内の当事者性しか持ち合わせていなかったが、カツマタくんはそうではなかったと言える。より正確に言えば、カツマタくんとケンヂとの関係は、「安全な痛み」の枠内にはない。

フクベエの当事者性は宇野の指摘する「昭和ノスタルジー」を超えることはない。そのことは、大阪万博の再現としての万国博覧会以降の彼の計画が「じんるいのめつぼう」という終わりのヴィジョンであったことからも明らかである。彼には「昭和の反復」以上のヴィジョンはなかった。

一方で、カツマタくんには大阪万博に対する執着がなかった。彼の執着はケンヂであり、「ともだち」に成り代わったのはケンヂへの復讐のためである。「ともだち歴」が始まり、彼が世界大統領に就任しても、そんなことは彼にとってなんの価値もなかった。

ケンヂもまたそれがわかっていた。ともだち歴元年〜3年までを描く物語終盤は、壮大な偽史としての物語はなりをひそめ、ケンヂとカツマタくんの個人的な問題へと徐々に収斂していく。例えばそれは、「最悪」を自称する「ともだちの部下の男」が、ケンヂの前で極端な小物のように描かれることに示されている。昭和の反復によって生まれた歴史の当事者性は、フクベエの死とともに急速に消えていく。

1970年の大阪万博の存在が薄くなり、代わりに浮上したのは1970年のケンヂによる万引き事件だ。『20世紀少年』はケンヂが万引きの事実をカツマタくんに謝ることによって幕を閉じる。まさにケンヂの自己反省の物語がそこでは展開されている。

では、それは果たして「安全な痛み」の自己反省だろうか?

ケンヂの謝罪は二重に行われる。一度は現実の(現代の)カツマタくんへ。そして二度目は、仮想現実の中学校の屋上で、中学生の(虚構の)カツマタくんへ。

虚構の存在に対しての謝罪は「安全な痛み」に思えるかもしれない。しかし『BILLY BAT』においての読解を通じて、私たちはそうではないことを知るだろう。

 

 

第三部 『BILLY BAT』

 

一章 描いて描いて描きまくれ

 

2016年3月現在、『BILLY BAT』は残り数話で完結することが予告されている(現在、連載は休止中で、再開は6月と予告されている。そこから単行本一冊分のエピソードで完結することが予想される)。

また、東京都の世田谷文学館では浦沢直樹の初の個展「浦沢直樹展 描いて描いて描きまくる」が開催されている。この個展のタイトルは『BILLY BAT』を読む上で避けては通れないものと言える。というのも、このタイトルは「モーニング2016年No.12」に掲載された『BILLY BAT』第156話「見えるといえば見える」の最終ページでほぼ同じセリフ「描いて描いて描きまくれ」として登場しているからだ。

『BILLY BAT』の物語の要約は難しい。これまで見てきた『MONSTER』や『20世紀少年』に関しても、善悪の定義を明確にしない作風が複雑さを生んでいたが、それでも「ヨハンを追うテンマ」や「ともだちから世界を救おうとするケンヂ」など、シンプルに語ることのできる構造も持っている。しかし『BILLY BAT』は違う。誰と誰が敵対し、どんな脅威から地球を救えばいいのか、それは常に不明瞭なまま物語は進んでいく。

それでも物語の一部のみを抜き出そうとすれば、「歴史を変える力をもったコウモリと、そのコウモリを描く漫画家の物語」とでも言うしかない。物語はキリストから9・11までを縦横無尽に語り継いでいくが、最も重要なキーパーソンは漫画家である。『20世紀少年』が浦沢自身の少年時代の経験に依っていたように(物語の核心だったあの万引きも事件浦沢の実体験だ)、『BILLY BAT』は漫画家浦沢自身が投影されている。しかし『BILLY BAT』から浦沢という人物を読み解くというようなことは避けよう。個展からも明らかなように、浦沢直樹とい漫画家の考える「描いて描いて描きまくる」ことは、『BILLY BAT』の物語の本質の一部である。それでは私たちは、この「描くこと」の考察から始めよう。

 

歴史を変える力をもったコウモリの謎は、連載されている話までではすべてが明かされたわけではないが、断片的なコウモリの言葉をつなげると次のような世界観が『BILLY BAT』では描かれているようだ。コウモリは地球誕生以前から存在し、時間を操ることができる(例えばある人物を過去に戻して人生をやり直させるなど)。どうやらコウモリのその力は、平行世界を自在に移動できるものであるらしい。しかし物語開始時点で、その力はもう使うことができなくなっている。なぜなら、既に現在の(つまり物語で描かれている)世界以外の平行世界では地球が滅んでいるからだ。故に、あらゆる平行世界を渡り歩けたとしても、人類が暮らすこの地球はたった一つしかない。コウモリの言葉によれば、それでも歴史を改変することは可能だが、同時にそれは最後に残ったこの地球の消滅を招くのだ。

だが、コウモリの「歴史を変える力」を追い求める多くの人々はそのような世界の背景を知らないでいる。だから彼らの誰かが、コウモリの力で歴史を変えた瞬間に、地球は滅んでしまう。コウモリは漫画家をはじめとする「感度のいい」人間たちにこのことを断片的に知らせながら、地球が滅びる「さいしゅうかい」を防ごうとしている。また、コウモリたちはひとつの意思のもとに存在しているわけではなく、地球が滅ぶことも厭わないコウモリが存在することも示唆されている。

この設定はゼロ年代に流行したループ物の系譜にあると言える。『Air』(2000年)などの美少女ゲームの比喩を用いれば、コウモリたちはプレイヤー視点からいくつもの分岐するシナリオをクリアし、最終的にこれ以上の平行世界が存在しないトゥルーエンドの世界へとやってきたと考えることもできるだろう。プレイヤーであるコウモリだけが『BILLY BAT』の世界は最後の世界であることを知っているが、コウモリのようにプレイヤー視点を持たない登場人物たちは、まだこの先にも平行世界があると考えている。

ここには興味深い転倒がある。それは、本来であれば現実の人間とキャラクターの関係を、プレイヤーとキャラクターの関係で表そうとすれば、前者がプレイヤーで後者がキャラクターとなるだろう。しかし『BILLY BAT』では逆の関係になっている。現実の人間が、キャラクターから「プレイヤー視点」で語りかけられている。

 

村上祐一は『ゴーストの条件』(2011年)の中で、人間とアンドロイドが人間的なコミュニケーションを交わす短編アニメーション『イヴの時間』(2008年)について、そこで描かれる人間とアンドロイドの関係が「人間とキャラクターの関係の寓話となっている」と指摘している。

「これは想像力の問題だ。物語が見えないものを現実化させる営みであるとすれば、それを支える、見えないものを捉える力こそが想像力である。そして、ここにおいて見えないものとは、まさに自分に語りかけてくる声である。それは誰の声だろうか。何も聞こえてなど来ない。いったい誰が自分に語りかけているというのだ。ましてや、まさかキャラクターが語りかけてきているなど、ありえるはずがないではないか……」

ここで村上が反語的表現で語っている内容は、そのまま『BILLY BAT』で描かれているものについての言及として読むことができる。作中ではコウモリの実在こそは揺るがないものとして描かれているが、それを見ることのできる人間が、「果たして本当にコウモリが見えているのか」は明言されていないことが多々ある。それは単に登場人物の妄想である可能性が常につきまとう。しかし、「ありえるはずがない」と考えつつも、登場人物たちは「コウモリの声が聞こえる」ことを前提にして行動することをせざるをえなくなっていく。コウモリたちの声は、空気を震わせ鼓膜に届く現実的な声ではないかもしれない。だが聞こえてくる以上は、「ありえるはずがない」と思いつつも耳を傾ける他にない。その声の内容は、実際に、登場人物たちの生きる現実と呼応しているのだから。

 

 

第二章 相互引用可能性

 

物語前半の中心人物であるケヴィン・ヤマガタは、漫画「BILLY BAT」の作者である。この作中作は『BILLY BAT』の連載第一話で、なんの説明もなく浦沢直樹の新作として掲載された。冒頭の題字のそばに、ケヴィン・ヤマガタの名前が書かれており、よく見れば手のこんだ作中作の演出であることがわかるようになっている。この演出によって、「BILLY BAT」の主人公であるビリー(コウモリの擬人化キャラ)が、「本当に紙に書かれた漫画のキャラクター」であることが強調されている。この時点ではあくまでコウモリはキャラクターだ。しかし、ケヴィン・ヤマガタが昭和49年の下山事件の闇に巻き込まれ始めた辺りから、実体化したビリーが彼の前に現れ、謎めいた助言を与えるようになる。このコウモリの助言は、ケヴィン・ヤマガタを助けるようでもあるし、あるいはコウモリの目的を達成するためだけに彼を利用しようとしているようでもある。彼にはコウモリの真意を測ることはできない。キャラクターの層(オブジェクト・レベル)にいる存在が、プレイヤーの層(メタ・レベル)の存在の思考を読むことができないように。

故にケヴィン・ヤマガタはコウモリに大いに振り回され、アメリカと日本を往復し、その度に事件に巻き込まれていく。しかもコウモリの助言の真意は全く汲み取れない。また漫画の執筆の際にもコウモリの声はケヴィン・ヤマガタに未来を指し示すことがあり、単行本4巻から8巻にかけて語られるケネディ暗殺のエピソードでは、ケヴィン・ヤマガタは自分が描いた大統領暗殺計画を止めるためにアメリカの都市を駆け回る。そして暗殺を防ごうとテキサス州ダラスでのパレードに近づくが、結局大統領は助けることができない。ケヴィン・ヤマガタにできたのは、事件のそばにいて流れ弾に被弾しかけていた少年を身を挺して助けることくらいだった。しかし、コウモリがケヴィン・ヤマガタに期待していた働きは、まさにその少年を助けることだったことが判明する(助けた少年はケヴィン・グッドマン。本作の真の主人公である)。

コウモリの助言や指示は常にこのように意図が読めない。大統領暗殺という歴史的事件に関わっていたと思い込んでいたケヴィン・ヤマガタは、実は地球の滅亡というより大きい事件のために奔走していたのだった。

コウモリとケヴィン・ヤマガタの関係を先ほどはプレイヤーとキャラクターの関係で説明した。しかし、この大統領暗殺のエピソードからはまた別の関係を導き出すことができるだろう。

もともとケヴィン・ヤマガタ自身にとって、大統領暗殺も地球の滅亡も本来であれば関わりのない事件である。しかしコウモリはその事件とケヴィン・ヤマガタを関わらせている。まるで、ある物語の登場人物を、別の物語へ引用するかのようにだ。コウモリは人間に話かけることを「通信」と呼ぶ。そして人間を時にメッセンジャーのように扱っている。

第一部で予告したように、ここで示す関係は東浩紀の「郵便空間」の概念、あるいは『動物化するポストモダン』で提示される「データベース理論」に通じている。平行世界を渡り歩き、人間に呼びかけるコウモリたちから見た時、人間という存在はデータベースに登録された無数の人格の一つに過ぎない。彼らは必要に応じて、データベースから人間をピックアップし、歴史の流れに干渉するための手段としている。

「キャラクターが語りかけてきている」状態と、「キャラクターによって引用される」ことは大きく異なっている。『BILLY BAT』においてキャラクターとは、語りかけてくるだけではない。キャラクターが人間を引用する。そしてもちろん、漫画のキャラクターであり、詰まるところ「絵」であるコウモリは人間によって、様々な絵柄、様々な物語、様々なグッズに引用されている。ここには、人間とキャラクターが互いに互いを引用しあう関係が描かれている。そのような「相互引用可能性」が『BILLY BAT』には描かれている。

 

「相互引用可能性」の想像力は、第二部『20世紀少年』で触れることとなった、当事者性の問題とも繋がっている。『BILLY BAT』のアイディアの一つには、これまで浦沢が描いてきた漫画の内容が、まるで現実の予言のように機能していたことが浦沢によって語られている。『YAWARA!』の女子柔道ブームや、『Happy!』の伊達公子の活躍などポジティブなものもあれば、『20世紀少年』連載中に新宿副都心が爆破されるエピソードの直前に起きた9・11など、ネガティブなものも存在する。こうした事例の一つ一つは、なにも浦沢の特権的なものというわけはなく、創作にまつわるエピソードとして似たような話はいくつも見つかるだろう(例えば大塚英志は『多重人格探偵サイコ』で、ハイジャックされた飛行機が自爆テロを行うエピソードを9・11以前に書いている、など)。

このように漫画の内容が、まるで予言のように機能した事象が『BILLY BAT』で活かされていることは間違いない。ここで注目すべきは『20世紀少年』の新宿副都心爆破のエピソードが、アメリカの事件の影響で差し替えられていることだ。浦沢はインタビューで、「なぜ(新宿副都心の爆破は)描けないんですか?」と訊かれ、「描けないでしょう。あなたは描きますか? ぼくは描かない」と答えている。この浦沢の言葉は、自分の漫画とテロ事件とに関係があることを実感しているからこそ出てきたものだろう。言うまでもなく浦沢は9・11の当事者ではない。にも関わらず、まるで自分の漫画が引用されているかのような現実の事件に対して無関係でいることはできない。引用は、当事者、非当事者とは異なる関係を結んでいる。

無論、だからといって浦沢が9・11に対して何か特別な発言力や、立場を有していると考えることは間違っている。引用可能性があろうがなかろうが、非当事者は非当事者のままである。そこを誤解してはいけない。

 

『BILLY BAT』のケヴィン・ヤマガタのエピソードに戻って、この文章を締めくくろう。彼はコウモリによって、大統領暗殺事件ではなく、ケヴィン・グッドマンの命を助ける役割として引用された。ケヴィン・グッドマンの父から感謝の言葉を言われ、はにかみながら彼は「そんな……ヒーローだなんて……」と返す。

その50年後。ケヴィン・グッドマンと再会したケヴィン・ヤマガタは、あの時ダラスにいたのは大統領暗殺を防ぐ目的ではなく、漫画の取材のためだったと語る。興味深いことに、ここでは引用は(おそらく意識的に)忘却されている。引用をどこまで自分の経験として語るべきか、その線引きについての慎重な態度が、ここでは示されている。

相互引用可能性という観点からの『BILLY BAT』の読み解きはまだ行うことは可能だが、今はここまでとする。

 

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