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歴史に先行する欲望の戯画

「速度。そう、重要なのは消費される小説だけが持ちえる速度だ。屑さえも書物に仕立て上げる速度だ」自分の小説のあとがきでそんなことを書いた大塚英志には、読み捨てられる速度にこそ、今書かれるべき物語であるという確信があったのだろう。
彼の作品に、大学時代に専攻していた民俗学の知識を物語に取り入れた『北神伝綺』(1997年)『木島日記』(1999年)『八雲百怪』(2009年)という偽史三部作がある。史実に存在する人物や事件を題材にとりながら、そこに虚構の歴史を組み込んで物語を作り上げるという創作術は、大塚自身の評論でも度々言及される「大きな物語の失墜」に対する、物語作家としての彼のアクションなのだろう。大きな物語を信頼し、そこへアクセスする試みの不可能性は、思想史的にはマルクス主義=唯物史観の失墜として語られる。歴史の唯一つの答えが信じられなくなった世界で、大塚は偽史的な想像力(正解のない歴史)で物語を作っていく。
偽史的な想像力と、消費される速度。
大塚の仕事から抽出される、一見すると関連性の薄いようにも思える二つの概念は、現代社会の神の視座を導くための鍵である。そのことを、ここでは手塚治虫『火の鳥』(1954~1988年)と、浦沢直樹『BILLY BAT』(2008年~)の二作品から分析していく。

おそらく手塚の作品の中でも一、二の知名度を誇る伝奇物語『火の鳥』は、「黎明編」や「未来編」など、幾つもの編に別れて描かれた作品だ。話の傾向には二つあり、主に日本史を扱った歴史大河と、宇宙への植民や人類の滅亡などのテーマを織り込んだSF物とに分けて考えることができる。そして、それらの物語はすべて、火の鳥という人類を超越した宇宙的生命の関与によって大きな一つの世界観を形成する。
『火の鳥』では主要な登場人物が経験する出来事が、本人たちの意図しない意味(それは火の鳥の口から「輪廻転生」や「因果」といった言葉として語られる)によって説明されていく。全ての物事に通底する意味が存在する。つまりそれは大きな物語の記述の試みであり、火の鳥とはその歴史を支える超越的な存在なのだ。
伝奇物語には、例えば笠井潔『ヴァンパイヤー戦争』(1982年)のように、大きな物語との対決を描く作品は少なくないが、この主題は奈須きのこ『空の境界』(2004年)に付された解説で、笠井自身が過去のものとなったことを認めている。
ここで興味深いのは、『空の境界』で描かれる「大きな物語以降」の物語が、記憶の改ざんを主題としていることだ。そこには歴史の改ざん=偽史的な物語への導線が引かれている。

浦沢直樹の『BILLY BAT』はまさに偽史を主題とした伝奇物語である。そして浦沢の多くの作品がそうであるように、この作品は手塚治虫の作品のオマージュでもある。つまり『BILLY BAT』は、浦沢版『火の鳥』と呼べる作品なのだ。
物語は『火の鳥』と同じように、いくつかの編に分かれて後世されている。そして『火の鳥』という物語が、人々が火の鳥を追い求めることで歴史が動いていく構造になっていたように、『BILLY BAT』では、ビリーと呼ばれるコウモリをモチーフとした漫画のキャラクター(あるいはそのキャラクターの原型となったと思われる、コウモリの落書き)を人々が追い求めることとなる。何か人間でないものの存在が、歴史を大きく動かしていくという構造は『火の鳥』と同一だが、登場人物たちに永遠の命を与えるなどの関与を行っていた火の鳥に比べて、ビリーはそのような具体的な関与はほとんどしないといっていい。ビリーはただ、登場人物に囁きかけるのみだ。そしてその内容は、歴史的事件であることがほとんどである(下山事件や、ケネディ暗殺など)。
ここには非常に秀逸な諧謔が込められている。永遠の命を持った宇宙生命である火の鳥が歴史を語ることに比べて、漫画のキャラクターが歴史的事件を語ることは非常に薄っぺらく感じられる。実際、登場人物たちはほとんどの者が最初はビリーの囁きに耳を貸していない。しかし、『BILLY BAT』で描かれる歴史は、明らかにビリーの存在に支えられて動いていく。
ここに見られる、大きなギャップの正体はなんだろう。
一つには、火の鳥とビリーのギャップであるが、これは「大きな物語」が信頼されていた世界と、その失墜後の世界の象徴であると考えられる。歴史を動かすほどの存在、それは神と呼んでも差し支えないだろう。実際に、作中では火の鳥もビリーも宗教組織の象徴として担ぎあげられる描写が存在している。しかし絶対的で超越的な存在の火の鳥とは違い、ビリーは作者も複数存在し、誰でも真似をして描き上げることのできる漫画のキャラクターである。ここには我々が考える神のイメージの変化が見られる。しかし重要なのは、そのイメージの向こう側にうずまく大きな力の源泉の方である。
火の鳥が物語を動かす存在であったのは、それが永遠の生命という人々の大きな欲望の源泉となっていたからだ。その源泉を中心に、人々の愛憎劇が繰り広げられるのが『火の鳥』という物語だった。
一方、『BILLY BAT』はそうではない。ビリーの存在の向こう側には、消費という人々の小さな欲望の泉が広がっている。そしてそれゆえに、『BILLY BAT』は現代的な伝奇物語となりえている。

いまも連載中の『BILLY BAT』も、ついに最終章に突入したことが明らかにされている。その最終章に入る直前のエピソードは、2001年にアメリカで起きた同時多発テロ事件だった。物語全体を見据えても、大きなターニングポイントとなるべき地点で、この事件が描かれたことには大きな意味がある。
よく指摘されるように、同時多発テロでジャックされた旅客機がビルにぶつかっていく映像は、「ハリウッドの映画のようだ」と人々に思わせるほどの、ある意味で荒唐無稽なものだった。それは人々の想像力と、現実の社会との関係が大きく変化したことを意味している。そしてその変化を『BILLY BAT』はとてもよく描いている。
我々の消費という欲望は、現実の歴史的事件に比べてあまりにもちっぽけであり、そこにはやはり、おおきなギャップが存在している。その溝を踏まえた上で、想像力と現実との距離関係を測っていくこと。『BILLY BAT』が最終章直前で提示した主題は、まさにそのことなのだ。
現代的な伝奇物語は、大きな物語を描くことは不可能でありつつも、ビリーのように消費という欲望に支えられた神と我々の距離を問いなおしていくことは可能であることを、『BILLY BAT』は示している。

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