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立ち小便とストーカー

福永信の小説ではしばしば立ち小便が描かれる。短編集『アクロバット前夜』(二〇〇一年、のちに『アクロバット前夜90°』として二〇〇九年再刊)、『コップとコッペパンとペン』(二〇〇七年)では収められた十編のうち実に四編に立ち小便の場面がある。男子校に転校してきた少女・裕美とその周辺を描いた「BOYS & GIRL」では校庭の小便小僧への言及が三度繰り返され、やがて男子校の生徒たちは裕美が思いを寄せるかつての同級生・一郎が立ち小便をしているところを取り囲み連れション(?)をはじめる。「コップとコッペパンとペン」ではやはり「娘」が転校し「登校一日目の記念すべき最初の休み時間(五分間)に、男子は全員連れションに行っ」てしまう。「三か所の二人」では木肌に残るその痕跡が示されるのみだが、「座長と道化の登場」に至っては全三三頁のうち十九頁、作品の後半全てがデパートのトイレで小便をする「彼」とその隣に居合わせた若い父親との会話に費やされている(この間、小便も延々と続いている)。

こうして並べてみれば明らかなように、立ち小便の多くは連れションとして描かれており、だからこそ立ち小便は福永作品に繰り返し描かれる。立ち小便はある一点において小説に、あるいは小説の持つある原理に似ているのだ。公衆便所では肩を並べる「一人一人の人間が、乳白色の小便器の前で決まって同じ格好を」することになる(「座長と道化の登場」)。小説と立ち小便に共通するのは、近くにあるものは似、似ているものは近づくという隣接の原理だ。隣接の原理に基づき、立ち小便は小説の最中に現われる。

福永の小説にストーカーものが多いのも当然だろう。そこに働くのもまた、隣接の原理という小説的欲望だ。「アクロバット前夜」で同級生・リッチャンの部屋に夜な夜な忍び込み、彼女の日記を読みふける「私」は完全にストーカーだし、「僕」が「君」を危険から遠ざけようと追いかけ回す「読み終えて」もまた、恋愛感情が絡まないことを措けばストーカーものだと言える。「BOYS & GIRL」で裕美の留守中にその家に上がり込んで引っ越しの荷解きを済ませてしまう男子生徒たちの行動もストーカーめいている。「三か所の二人」では、「ファンクラブの会員たち」がやはり同級生であるサチ子の行動を徹底的に調べ上げる。しかも、彼らはサチ子の行動を可能な限りトレースすることで「まるでサチ子のすぐそばで、一緒に生活しているようだ」と「毎夜目を閉じながら思うのだ」。試みられているのはまさに似ることによる接近である。

いわゆるストーカー行為が描かれているわけではない作品においてもストーカー的気配は濃厚だ。たとえば「人情の帯」の冒頭では駅の公衆電話を使う女子高生の姿が詳細に観察され、彼女の様子から取得可能な情報が次々と示される。「名前も知らない一女子高生についての情報——携帯電話を持っていない、高校名、陸上競技部もしくは手芸部所属、身長、顔、歯並び、好きなキャラクター等——をいとも簡単に、直接彼女に見られることなく、また会話をせずとも、いわば、どこの誰でも、知ることができる」「個人情報を充実させていくためには、さらなる工夫がいる」と語り手は述べるのだが、これは一体何についての(そして誰の)言葉なのか。特定の人物の視点を担っているわけではないこの語り手は「誰でも、知ることができる」と言うが、彼女のことを詳細に知ることができるのはこの小説の読者だけだ(そこには無論、最初の読者たる作者も含まれる)。この小説を読む者にかぎり誰でも「直接彼女に見られることなく、また会話をせずとも」彼女のことを知ることができる。読者は常に幾分かは小説の登場人物に対してストーカー的な役割を演じているのである。

登場人物たちもまた、彼らのすぐそばで一方的に言葉を発し続ける語り手を真似るかのごときふるまいを見せる。「読み終えて」ではトイレの個室に入った「君」が「僕」の名で呼びかけられ、「座長と道化の登場」の前半ではデパートの試着室に入った女性が「本当にすみません。娘が急に入り込んでしまって」とカーテン越しに父親らしき男に話しかけられるがそんな子供は存在しない。いずれも相手の姿を確認できない状況であり、勘違いに基づいた一方的な語りかけであるという点で共通している。「座長と道化の登場」後半の男子トイレの場面においても、若い父親は「彼」を既婚の父親と決めつけて話しかけ続けていた。しかしそもそも小説の言葉は常に一方的に発せられるものであり、しかも書かれたものはそうある他ないという意味で二重に一方的なものなのであった。

連作短編集『一一一一一』(二〇一一年)ではこのような小説の言葉の性質が極端な形で示されることになる。「——そこの旅のお方。/「なんでしょうか」」(/は改行、以下同様)というやりとりからはじまるこの連作は、以降も基本的に二倍ダーシと鍵括弧のそれぞれによって示される二者(以下、それぞれ「語り手」「聞き手」)の対話のみで進み、いわゆる地の文は連作を通して僅か四箇所五文しかない。しかし、この作品の最も奇妙な点はこのような形式ではなく、語り手の語る内容にこそある。語り手は「道が二つに分かれているのを見て、途方に暮れているのではないか」などと聞き手の身に起きた(であろう)出来事を語り、聞き手は「ええ」「そうですね」「たしかに」などといった具合に唯々諾々とそれを受け容れるのみだ(唯一の例外として「——なにか忘れてやしないか」という問いかけには「犬ですね」と応える)。にも関わらず、連作のいずれにおいても、語り手と聞き手との間に面識はないらしい。つまり、語り手は知るはずのない情報か、そうでなければ全くのデタラメを語っていることになる。だが、繰り返しになるが、そもそも小説とはそういうものなのだ。

連作は終始この調子で語り手の推論(?)の根拠が示されることもなく、しかもしばしば本筋からは脱線しつつ頓狂な物語を展開し、「なんだこれ…。」と読み進める読者はやがて、自身の思いを代弁するかのような「——なんだこれ…。」という語り手の言葉に遭遇する。「——なんだこれ…。/「なんでしょうか」/——いや、気にしないでくれ、こっちのことだ。」というやりとりは作中四度繰り返されるのだが、いずれの場面においても前後との脈絡はなく、多くの読者はこのやりとり自体に「何だこれ…。」という思いを抱くだろう。このとき、読者と語り手は一つの思いを共有しているという点においてかぎりなく類似=近接する。

そう、読者と語り手≒書き手は小説という場においてかぎりなく近接し、ゆえに類似する運命にある。福永はデビュー作「読み終えて」と最新作「未来を生きる君へのダイイングメッセージ」(すばる二〇一五年七月号)でこの主題、読み手と書き手の近接=類似を反復する。

「君は、ねらわれている」と書き出される「読み終えて」は全編が「僕」から「君」へとあてられた手紙の体裁をとっている。冒頭に示されているように、その内容は「君」に迫る危険を知らせるものだ。「君」は昨日から誘拐されそうになっており、それが未だ実行されていないのは行く先々で「僕」が計画を阻止していたからだという。「これからここに書くことは昨日の君の身に、実際に起こっていた出来事」であり、それらは危険を回避するのに役立つだろうと「僕」は言う。しかし一行の空白を挟んで続くのは「君が僕のために書いてくれた手紙の冒頭部分は、だいたいこんな感じだったと思う」という言葉であり、「ねらわれていた僕を守ってくれていた君が、本当はねらわれていたのだ」という衝撃の事実(?)が告げられる。その後にようやく「君」と「僕」の身に起きた出来事が記述されるのだが、やがて第三者による介入と手紙の改竄、そして風に吹き飛ばされた手紙の順序が入れ替わっている可能性が示されるに至り、読者にとって事態は混迷を極めることになる。「君」とは常にそれが書かれた手紙の「読み手」を指し、「僕」は手紙の「書き手」を指すが、その内実が入れ替え可能であることはすでに示されてしまっている。文字通り「君」と「僕」の遁走曲のごとき逃走=追走劇が展開され、挙句の果てに「君」は「僕」の名で、「僕」は「君」の名で呼ばれさえする。「君」と「僕」の遁走曲はその結末において、思わぬ形で現実の読者をもその射程に収めることになるだろう。

「未来を生きる君へのダイイングメッセージ」は、「変死体が転がってるからそれを見てきなさい、そしてそれを原稿に書きなさい」とメールで呼び出されたライターの男が死にかけの男を発見し、男が異様に長く馬鹿馬鹿しいダイイングメッセージを綴る一部始終を目撃するという小説である。しかし読者を待ち受けるのは、ライターの男による独り語りの体裁をしたこの小説それ自体、どうやらライターの男によるダイイングメッセージであるらしいという謎めいた、というにはやはりあまりに馬鹿馬鹿しい結末だ。冒頭でライターの男が「たおれていたのは、そうだなあんたと同じくらいの人間だったよ」と予告するように、書き手と読み手は類似する運命にある。この作品では「今」という漢字がいちいち「人ラ」という形で分かち書きされているが、これは小説において「今」が常に書くときと読むときに引き裂かれているからに他ならない。読むその瞬間において二つの「今」は接触し、ゆえに読み手は書き手との類似へと誘われる。

福永信の小説の多くは隣接の原理に貫かれており、その意味で小説そのものに似ている。福永信の小説の奇妙さは小説それ自体に似ること=近づくことを追究するがゆえのものであり、小説という営為そのものが本来持っている、しかし巧妙に隠蔽している奇妙さに由来するものなのだ。

文字数:3995

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