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誤読の愛

「愛してる」という彼女の言葉を僕は端から信じていなかった。その言葉を信じるには僕はあまりに彼女に騙され過ぎていた。だがそれでも僕はその言葉を信じてみせた。彼女の言葉が本心からのものだったのか、それとも僕が思ったように嘘だったのか、それは今でもわからない。彼女の言葉を僕が全く信用していないことさえも彼女は知っていただろう。そのこともわかっていた。そのうえであえて、僕は彼女の言葉に乗ったのだ。いや、率直に言おう。僕は彼女の嘘に魅せられ、それゆえ彼女を愛したのだった。

誤読、誤解、行きちがい。恋愛に失敗はつきものだ。だが失敗とはなんだろうか。たとえば誰かに愛を告白して振られたとする。その告白が付き合うことを目的としたものならばそれはたしかに失敗だ。しかし一方で思いを告げることそれ自体を目的とした告白もあるだろう。あわよくば付き合いたいという欲望が隠れている場合も多いかもしれないが、では告白する相手がすでに結婚しているとすればどうか。付き合うことを前提としない、思いの丈をぶつけるだけの告白というのは十分にあり得る。むしろこの場合、相手が告白を受け入れて付き合うことになったとして、それこそが「失敗」であるということにもなりかねない。道ならぬ恋を望むか否か。告白という行為ひとつとってもその「失敗」には様々なバリエーションが考えられる。「失敗」を「思い通りにいかないこと」と言い換え、まとめてみることもできるかもしれないが、その場では「思い通り」に進んだことこそが実のところ失敗だったということもまたしばしば生じる事態だ。「思ってたのと違う」ことが新たな魅力の発見となればそれもまた恋愛の悦びの一つだが、期待への裏切りは多くの場合失望を招く。知らぬが仏か秘すれば花か。

彼女の話に戻ろう。たとえば彼女は煙草を吸うが、友人の多くはそれを知らないのだと言う。恋人の前でだけ煙草を吸う女。恋人が喫煙者かどうかで彼女に対する評価は分かれることになるだろう。友人たちは彼女を非喫煙者だと誤解しているが、それが誤解であることを彼らは知らない。さて、このとき、彼らの認識は果たして「誤解」と呼び得るのだろうか。彼女が喫煙者であるという事実に照らせばもちろんそれは誤解以外の何物でもないのだが、しかしその事実を知らない友人たちがそれを誤解と認識することはない。誤解は正解を与えられることではじめて誤解として認識される。つまり、正解だと思っていたものはいつでも誤解/失敗へと反転し得るのだ。

彼女の部屋ではじめて事に及ぼうとしたとき、彼女は恥じらい、男に触られるのははじめてだと言った。思えばそれも嘘だった。僕はすでにそれを知っている。ここまで来るともはや誤解や誤認ではなく完璧な嘘だが、童貞にはそう言っておいた方がいいという判断だろうか。ありそうなことだ。実際のところ、彼女があのとき他の男とも付き合っていることを正直に言っていたならば、その後の二人の関係は全く違ったものになっていただろう。「彼女は処女だった」と考えることは事実のレベルで考えるならば「誤認」だが、その後の二人の関係を考えればそのように認識することこそが「正解」だったと言うこともできそうだ。

では、彼女の嘘をはじめから知っていて、なおかつそれに乗った場合はどうか(つまり僕の話だ)。彼女の意図通りに騙される僕は、果たして彼女に騙されていることになるのだろうか。騙されていることを僕は知っているのだから、彼女の嘘は失敗しているということになるのかもしれない。だが僕は騙されていることを知りつつ彼女の言葉に乗ったのであり、結果として彼女の嘘は意図通りの状況をもたらしている。いずれにせよ、僕と彼女の関係を成立させていたのはあえての「誤解」に他ならない。

二人の恋の結末を僕は知らない。だから、騙されることが「正解」だったのか「失敗」だったのかもわからない。おそらく死ぬまで答を知ることもないだろう。ただ一つ言えるのは、僕が今でも彼女を、くるみを愛しているということだ。それは予期せぬ裏切りが明らかになった今でも変わらない。いや、それを裏切りだと思うこと自体、僕のエゴに過ぎないだろう。それもわかっている。だが僕は出会ってからかなり長い間、くるみのことを女性だと思い込んでいたのだ。もちろん、くるみが男性だろうと僕が注ぐ愛情に変わりがあるわけではない。だが、このような形で裏切られるのは薫に続き二度目なのだ。またかという思いを抱きつつ、そのような裏切りもまた心地よく感じてしまう自分がいる。

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前田敦子主演で映画化もされた乾くるみの恋愛小説『イニシエーション・ラブ』は恋愛における誤認の効用を描いた作品だ。1998年に『Jの神話』でメフィスト賞を受賞しデビューした乾くるみは多くのミステリ小説を発表している。そう、恋愛とミステリーはよく似ているのだ。主人公・たっくんとマユは合コンで出会う。合コンでは男女ともに大なり小なり自らを繕うものだろう。それは決して悪いことではない。参加者の大半はそれも込みで、つまり、騙し騙され、あるいはそれを見抜くことの遊戯性も込みで合コンというゲームを楽しんでいる。このような態度は言うまでもなくミステリの(殊に本格ミステリと呼ばれるジャンルの)読者と共通するものだ。

ミステリというジャンルははじめから読者の「誤読」を前提としている。ミステリにおいては「誤読」こそが「正しい」読みであり、読者を「正しく」誤読へと導くことのできない作品、はじめから真相という「正解」が見えてしまうような作品は駄作と見なされることになる。ここには奇妙な捻れがある。「誤読」こそが「正しい」読みであるならばそれはもはや誤読とは呼べないのではないか。しかも、貪欲なミステリの読者は騙されることを期待しつつ、常に期待以上の驚き=真相を待っている。驚きはそれを予期していないときにこそ最大になるにも関わらず、ミステリにおいてそれは常に予期されたものとしてしか存在し得ない。結果、読者の予期をいかにかわし、新鮮な驚きを用意するのかという点こそがミステリ作家の腕の見せどころとなる。

叙述トリックという手法もまた、読者の不意をつくものとして用いられる。主に文章上の仕掛けによって読者に何らかの誤認を植え付け、最後にそれをひっくり返してみせることで読者の読みをひっくり返すこの手法は、読者が物語に没頭すればするほど大きな効果を上げることになる。ミステリのトリックの多くは犯人から探偵や刑事(や事件に巻き込まれた人々)に向けられたものであり、言わば物語の内部で完結している。一方、叙述トリックの多くは物語とは関係のないレベルで、作者から読者へと直接に差し向けられるものであるがゆえに、物語に没頭する読者に対しその死角から大きな驚きをもたらすことになるのだ。だからこそ叙述トリックは事前にそれが仕掛けられていることを悟られてはならない(にも関わらず、叙述トリックが用いられた作品の帯文や煽り文句でそのことがほとんどあからさまに告げられてしまっていることが多いのは極めて残念なことだ)。

いずれにせよ、ミステリにおいては真相が開示され、「誤読」が「誤読」たるゆえんが明らかになるその瞬間にこそ悦びがあるわけだが、一方、恋愛において真相=真実の開示が必ずしも悦びに結びつかないことは明らかだ。恋愛(に限らず人間関係全般)において、相手の全てを知ることが必ずしも幸福につながるわけではないというのは一つの真理だろう。ミステリの極意が秘すれば花にあるならば、恋する二人は知らぬが仏なのだ。傑作『イニシエーション・ラブ』は「誤読」の機微を鮮やかに描き出している。

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失敗とはつまり予期せぬものとの出会いだ。人生の全てが思い通りになるならば、それほどつまらぬことはない。驚きはミステリのみならず、人生の悦びでもある。誤読に気づくということは、新たな視点を得ることだ。たとえそれが望まぬものであれ、失敗は世界の新たな側面を明らかにするだろう。災い転じて福とはならずとも、失敗はそれ自体、世界の可能性を広げるものなのだ。劇作家サミュエル・ベケットは「よりよく失敗せよ Fail better.」と言った。私たちはこの言葉を人生=世界を豊かに生きることの謂いとして誤読しよう。世界と出会い続けるために。

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