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モンタージュせよ、とエイゼンシュタインは言った。

映画『ゼロ・グラビティ』(2013)のファーストショットを覚えているだろうか。映し出されるのは宇宙から見た地球の姿だ。本稿は『ゼロ・グラビティ』という映画を通して、現在における「映画」あるいは「映画的なもの」とその価値を見出だそうとする試みとしてある。なぜ『ゼロ・グラビティ』か。それはこの作品がまさに「映画」についての映画であるからだ。冒頭の地球の姿はそれを予告するイメージとしてある。

アルフォンソ・キュアロン監督による映画『ゼロ・グラビティ』は、ハッブル宇宙望遠鏡の修理作業中に不慮の事故で宇宙空間に放り出されたライアン・ストーンが地球へと帰還するまでの過程を描いた作品である。映画の大半を宇宙におけるストーンの試行錯誤が占めるこの作品には、映画はおろか映像と呼べるものさえほとんど登場しない。そのような作品をなぜ「映画」についての映画と呼べるのか。それを説明するためにはジョナサン・クレーリーの『観察者の系譜』を経由しなければならない。

クレーリーは『観察者の系譜』において、16世紀末から18世紀末にかけて支配的となっていった「知や観察する主体」に関するパラダイムを「カメラ・オブスキュラ的な視覚モデル」と呼んだ。カメラ・オブスキュラとは暗く密閉した箱に小さな穴をあけた装置であり、内部の観察者は穴から差し込む光が対面の壁に映し出す外の風景の倒立像を見ることができる。クレーリーはこの装置における観察者を「機械的・超越的なかたちで世界の客観性を再-現した像に対する、非身体化された目撃者」であり「再現=表象化の仕掛けからより独立した、周縁的で補足的な存在として、暗闇のなかにあって自由に浮遊する存在」であると述べ、非身体的な観察者という視覚モデルをこの光学装置に象徴させる。

『ゼロ・グラビティ』の冒頭において、ストーンはまさに宇宙という「暗闇のなかにあって自由に浮遊する」観察者として登場する。彼女たちがいるのはハッブル宇宙望遠鏡という「観察装置」であり、足下にあるべき地球は今や彼女の頭上にある。冒頭の場面は「世界の外部に立ちその(倒立)像を眺める観察者」というカメラ・オブスキュラ的な視覚モデルをほとんど完璧に再現しているのだ。

この場面が『ゼロ・グラビティ』の「映画についての映画」としての性質を予告するものとなり得るのは、カメラ・オブスキュラが光学装置としての映画の祖先と見なされてきたからなのだが、ここで留意しなければならないのは、『観察者の系譜』におけるクレーリーの主張に従えば、映画はカメラ・オブスキュラ的な視覚のパラダイムから逸脱したメディアだという点である。

クレーリーはいくつかの視覚玩具を例に挙げながら、19世紀に支配的となる視覚的モデルを身体にこそ基盤を置いたものとして見出だし、そこにカメラ・オブスキュラ的な視覚モデルとの切断を見る。たとえばフェナキスティスコープと呼ばれる視覚玩具は、私たちの身体に生じる網膜残像という現象を利用して静止画の連続に運動の効果を生じさせる。あるいはステレオスコープは、両眼視差(「左右の眼が同一点に焦点を合わせたとき、視軸のずれが作る角度」)を利用して、二つの平面的な図像を統合することで立体的な図像を提示する。いずれの視覚玩具においても、本来そこにはない運動や立体の効果を生み出すのは人間の身体機能なのであり、そこではもはや観察者は透明な存在ではいられない。

映画も同様である。1秒あたり24コマの連続する静止画でしかないものが運動として認識されるのは、そこに私たちの身体が介在しているからだ。『ゼロ・グラビティ』は3D映画としても大々的に宣伝され体験されたが、3D映画の仕組みも基本的にステレオ・スコープのそれと同型であり、人間の身体の介在は不可欠なのだ。

実際のところ、『ゼロ・グラビティ』においても、冒頭で示されるカメラ・オブスキュラ的な構図はハッブル宇宙望遠鏡と宇宙ゴミとの衝突事故によってすぐさま崩され、映画の中心には常に身体の問題が置かれることになる。ストーンが宇宙で生き延びられるかどうかは、まずは酸素の有無という極めて身体的な問題として突きつけられるからだ。あるいは観客の側に視点を移しても、『ゼロ・グラビティ』を見る体験は極めて身体的なものとなるだろう。3D映画はしばしば初期映画と類比される。リュミエール兄弟による映画『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1896)の上映会において、迫り来る列車が映し出されるのを見た観客が一斉に逃げ出したというあまりにも有名な逸話が示す通り、映画はその初期において直接的な刺激をもたらすスペクタクルとして受容されていた。映画研究者トム・ガニングが「アトラクションの映画」と呼ぶこのような映画の側面は、3D映画の隆盛に伴い再び前景化してきている。『ゼロ・グラビティ』においても、登場人物の限定と単純な筋はアトラクションの映画としての作品の機能を追究した結果として見ることができるだろう。宇宙空間における様々なアクションはスペクタクルに事欠かない。効果的に用いられている完全な無音状態も観客に真空を体感させるものとしてある。『ゼロ・グラビティ』は二重の意味で身体をその中心に置いた映画であり、そこでは非身体的な観察者というカメラ・オブスキュラ的な規範は有効ではない。では見出だされるべきは、観察者とその身体とが密接に結びついた19世紀的な視覚モデルなのだろうか。私たちはここで、カメラ・オブスキュラ的な視覚モデルの根底にある逆説的な身ぶりに目を向けなければならない。

カメラ・オブスキュラは観察者を世界の外部に置くことを可能にした。だが忘れてはならないのは、カメラ・オブスキュラによって世界の外部に立つためには、まずはその内部に観察者が入らなければならないという事実だ。世界と関係を結び直すためにはあらかじめの切断が必要となる。そしてこの切断と接続こそは『ゼロ・グラビティ』を貫くモチーフの一つでもあった。

宇宙に放り出されたストーンは、切断と接続の繰り返しを経て地球へと帰還する。注目すべきは、切断と接続がそれ単独では機能しないものとして描かれている点である。ストーンは当初、同僚のマット・コワルスキーと「接続」されることによって九死に一生を得る。しかしマットとの「絆」は後に二人を窮地へと追いやり、今度はマットがストーンとつながるロープを外すことでストーンは生き延びる。その後もISIS(国際宇宙ステーション)、ソユーズ、宇宙船・神舟と接続と切断は繰り返される。どちらか一方ではなく、接続と切断の繰り返しだけがストーンを地球へと導くのだ。

ここでさらに、『ゼロ・グラビティ』にはまた別のモチーフとして生命の誕生/進化が描かれていたことを指摘しておこう。ISISに辿りついたストーンが体を丸める様子は胎児のようであり、ストーンの乗った神舟が周囲の瓦礫とともに大気圏へと突入する様子は卵子に殺到する精子のそれに酷似している。地球へと帰還したストーンが海中から陸へと上がるシークエンスで提示されるのは人間へと至る生命の進化のイメージだ。ストーンの地球への帰還はまさに人間の誕生として描かれている。そして言うまでもなく、人間の誕生にはへその緒という「接続」とその切断が不可欠だ。胎児は母親と切断されることで生を得る。『ゼロ・グラビティ』が描くのは接続と切断の繰り返しの先にある(再)生なのだ。

ここまで来れば『ゼロ・グラビティ』の示す「映画的なもの」、いや「映画的な身ぶり」の意味は明らかだろう。それは一時的な引きこもりの身ぶりだ。かつてモンタージュはフィルムの、そしてそこから生じるイメージの切断と接続として映画の基本的な枠組みを作り上げていた。だが今や私たちは不断のモンタージュ(=切断と接続)を世界への身ぶりとして採用しなければならない。いつでもどこでも映像を視聴できるということは、体験が常に外へと開かれていることを意味する。テレビの視聴体験はリアルタイムでTwitterへと投稿され、ニコニコ動画ではコメントという形で他者の視聴体験が自身のそれに侵入してくる。そこに生じる新たな可能性もあるだろう。だが、どこまでが自らの体験かさえも曖昧な世界において、孤独はあらかじめ奪われている。だから私たちは映画館へと足を運ばねばならない。逆説的に思えようが、それこそが2015年現在における「映画的」身ぶりなのだ。映画館は常時接続の世界から我が身を引き剥がし、自らの身体のみで世界と向き合うためのシェルターとしてある。カメラ・オブスキュラの意義は反転した。現代のカメラ・オブスキュラたる映画館は、自らの身体を消し去るためにではなく、むしろ自身に固有の身体=視点を再認識するためにこそある。もちろん、引きこもりは一時的なものに過ぎない。『ゼロ・グラビティ』には画面に水滴が付着する演出が施された場面が二度ある。アトラクションとしての機能を優先するならば不要なこの水滴は、映画と私たち観客との切断を予告するものとしてある(水滴の演出のうち一つはまさに映画のほぼラストに置かれている)。映画が終われば私たちは映画館を後にし、再び世界へと生まれ直す。『ゼロ・グラビティ』の冒頭に置かれていたのがハッブル宇宙望遠鏡という観察装置の修理作業だったことを思い出そう。切断と接続の反復こそが新たな視点の獲得=再生を可能にする。私たちはそのために映画館に通うのだ。

 

参考文献

ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』(遠藤知巳訳、以文社、2005)

トム・ガニング「アトラクションの映画 初期映画とその観客、そしてアヴァンギャルド」(中村秀之訳)、長谷正人・中村秀之編訳『アンチ・スペクタクル』(東京大学出版会、2003)所収

文字数:3996

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