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インテリゲンチャの運命

主人公が死ぬ。よくある話である。だいたいの映画では主人公の死は華々しく感動的に描かれる。しかしこの映画の場合、主人公の死が淡々と実行される。倒れた最後の姿すら映らない。主人公の呻き声と、倒れたのであろう、少しの描写があるのみだ。途中参加のもう一人の主人公も、自ら灯油をかぶり、ライターで火をつけ、燃え盛る炎の中で死んでいく。こちらの方は多少派手であるものの、やはり感動的とは程遠い。

この映画は、死に至る病を抱えた二人の男性の物語である。

主人公であるゴルチャコフは「過去と今の果てしない距離感」に絶望し、途中参加のもう一人の主人公ドメニコは「未来と今の果てしない距離感」に絶望し、お互いその絶望の中、死へと向かう。

ゴルチャコフにおける「過去と今の果てしない距離感」については、定期的に訪れる過去への回想から読み取ることができる。回想の中に何度も登場する故郷に置いてきた妻や子供たちの姿。しかし、妻への連絡はしないゴルチャコフ(途中、通訳の女性に電話を勧められるが断っている)。ゴルチャコフは心臓に病を抱えており、余命が僅かである。それについて家族が知っているかどうかは定かではないが、ゴルチャコフ自身、過去に戻ることはできないということは理解しているのだろう。
このゴルチャコフの感情は、フランスの哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィッチの郷愁論と同様のものであると考えられる。ジャンケレヴィッチの言うところの「時間の逆行不可能性」、つまり、「もう手に入れることのできないものに対する欲求」である。

一方ドメニコの場合は、少し様子が違う。ドメニコは常に世界の救済を求めていた。家族を7年間閉じ込めたことも、ゴルチャコフにロウソクを持たせて温泉を歩かせたことも、マルクス・アウレリウスの像の上で叫んだことも、すべて世界の救済を願ってのことだった。ドメニコは生涯に渡って、あるべき世界の姿と今の世界の姿の距離に悩まされていた。これがドメニコの「未来と今の果てしない距離感」に対する絶望である。
前進しない自転車をドメニコが一生懸命に漕ぐシーンがある。いくらペダルを漕いでもその自転車は前進することはない。これは、理想の未来に向かって進もうとするドメニコと、けして縮まることのないその距離を表していると考えられる。
このドメニコの感情は、ジャンケレヴィッチの言う「時間の逆行不可能性 = もう手に入れることのできないものに対する欲求」では説明することができない。しかし実に単純な話、「もう手に入れることのできないものに対する欲求」から、「(過ぎた時間を表す、)”もう”」の二文字さえ取り去ることができれば説明は瞬時に可能となる。「手に入れることのできないものに対する欲求」。対象となる事象が過去か未来かどうかには実際のところ関係がなく、それが辿り着くことのできない時間なのであれば(到達不可能な時間が存在するということに対する実感を得られるのであれば)、それは死に至る病となり得るのだ。

このことについては、この映画の監督自身も、著書「映像のポエジア」の中で以下のように語っている。
“この映画での私の基本的課題とは、世界や自分とのあいだに深い不和を体験している人間、現実と望ましい調和とのあいだの均衡を見出すことができない人間の内的状態、つまり、祖国から離れているということばかりでなく、存在の全一性にたいするグローバルな憂愁によって引き起こされるノスタルジアを体験している人間の内的状態を伝えることである。(映像のポエジア p.304)

ただ、ドメニコは死へ向かうと同時に生も渇望していた。冒頭の温泉のシーンでドメニコは足だけ温泉に浸かる。これは彼が温泉に入ることを拒否されているからということもあるだろうが、ドメニコの発した「温泉は不死への欲求である」という言葉を忘れてはならない。つまりドメニコは不死への欲求(もしくは、不死を超越する欲求)を持っているものの、足元だけしかそれを達成できないのである。これは、彼が生を渇望しつつも死に向かうしかない様子を表しているようにも見える。
反対にゴルチャコフは、温泉に入りもしない。入ろうとする素振りすら見せない。救いの象徴である聖母画を見に小さな村に訪れたときもゴルチャコフは一人車の中に残っていた。ゴルチャコフは生を求めてなどいない。淡々と死へ向かっているだけである。

ゴルチャコフに比べると、ドメニコは勇敢である。狂人と思われようが、確固たる自分の意思があり、理想とする世界の想像があり、その実現を心から願っているし、行動も起こしている。その一方で、ゴルチャコフはなんとなく死に場所を探しているだけのような(いや、本当は死にたくすらないような)、そんな風にも見えてしまう。それは全体を通して見られるゴルチャコフの鬱屈した態度からも明らかである。

監督は書籍の中でこんなことも言っている。
“私が興味をもっているのは、より高いものに奉仕する心構えができている人間、月並で通俗的な生活上のモラルを受け入れようとしない人間である。なによりも、生きていくことのなかで、精神的な意味において少しでも高い位置に登ろうとするために、われわれの内部にある悪と戦うことが、人間の存在の意義であると意識している人間に、私は興味があるのだ。(映像のポエジア p.309)
これはまさしく、エドワード・サイードの知識人論であるが、これを体現していたのはゴルチャコフではなく、ドメニコである。(ここでは特別引用しないが、この文章の直前でインテリゲンチャについて言及もしている。)

しかし一方でこうも言う。
私にとって重要だったのは、<弱い>人間というテーマを取り続けることであった(映像のポエジア p.307)
そう、確かにゴルチャコフは弱い人間だった。通訳の女性に軽く殴られただけで鼻血を流しうろたえる男だった。ドメニコからの依頼を手放して故郷へ帰ろうとする男だった。何度も消えるロウソクの火にすぐ心が折れそうになる男だった。

それでもゴルチャコフは、この映画の中でインテリゲンチャとして位置づけられている。それは監督のこの発言からも明らかである。
信仰、理想、善を熱狂的に探求するという魂の状態、これこそ私がゴルチャコフの性格のなかでもう一度強調したかったことなのだ。(映像のポエジア p.307)
つまりこの映画が表現したかったものは、「強く逞しい狂人ドメニコと、狂人ドメニコに影響された弱きゴルチャコフ、二人のインテリゲンチャが共に散っていく姿」なのだ。

クライマックス、二人は互いに知り得ぬ状況で、それぞれがそれぞれの死へと向かい、そして、死んでいく。誰にも理解されることなく、ただ死んでいく。

以上が、映画「ノスタルジア」(監督:アンドレイ・タルコフスキー)によって表現された、インテリゲンチャの運命である。

タルコフスキーはこう言いたいのだ。

世の中にはインテリゲンチャが必要である。
しかしインテリゲンチャは絶えず、過去や未来と現在の距離に苦しむことになるだろう。
そしてその苦しみは死に至るほどである。
その全方位からの時間の病を「ノスタルジア」と呼ぼう。
しかしそれでも、インテリゲンチャがその病から逃げることは許されない。
それがインテリゲンチャの使命であり、運命であるからだ。

文字数:2980

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