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映画的なものの脱出不可能性

映画とは、映画館で「見せる」ものである。これが本稿を貫くテーマである。

フランスの映画監督フランソワ・トリュフォーと、イギリスの映画監督アルフレッド・ヒッチコックの有名なやり取りにこんなものがある。

トリュフォー:あなたの映画はたしかに具体的なものは何もない<マクガフィン>のうえに築かれているので、よく批評家たちからは「ヒッチコックにはテーマがない」とか「ヒッチコックは何も言うべきものを持っていない」などと非難されるわけすが、この批判に対する答えは、ただひとつ、「映画作家は何かを言うのではなく、見せるだけだ」ということではないでしょうか?ヒッチコック:そのとおりだ。
(定本 映画術  p.127)

この何気ないやり取りの中に、ヒッチコックの映画作家としての性格が垣間見える。これはヒッチコックのマクガフィンを巡るやり取りの一つであるが、ここでは内容そのものには触れず、トリュフォーの発した「見せる」という表現についてヒッチコックが同意している点に注目したい。この文章内の「見せる」という箇所には傍点が打たれており、強調して伝えたい様子も伺える。「見てもらう」ではなく、「見せる」。特に深い意図などなくつい発した言葉という可能性も十分に考えられるが、例えそうであるとしても(いや、もしくは、そうである方が尚更)、恰も作家側に主導権があるかのような表現をしているこの点について、我々は見逃してはならない。

この二人の会話から、ヒッチコックは物語の解釈をひたすら受け手に委ねていることがわかる。これは傲慢な映画作家を批判する受け手こそを信じた活動とも言えるが、しかし逆に、宛先も書かず、ただ投瓶通信的にコンテンツを提供する暴力的な活動とも言える。会話の中に登場した「見せる」という表現がまさに後者のそれを証拠付ける。「見せる」という表現は、「見る側」よりも「見せる側」に優位性があり、潜在的にハラスメントの可能性を含んでいる。

 ヒッチコック:観客というものは、映画を見ながら、いつも映画そのものよりも一歩先んじて、「そうか、もうこれからどうなるかわかったぞ!」と思いたがるものだ。この観客心理をわきまえたうえで観客をうまく完璧に誘導してやらなければならない。
(定本 映画術 p.280)

この口跡からわかるように、ヒッチコックは観客に対する敬意など持ちあわせていない。自分自身(=映画作家)を、観客よりも優位性のある場所へと位置付けている。それどころか、多少乱暴な解釈をすれば、観客を、ただ映画を「見せる」対象としてのみ取り扱っているようにすら感じられる。この発言によって我々の期待は裏切られ、ヒッチコックによる暴力としての映画の存在を知ることになる。そしてさらに我々はすでに、その暴力を最大化するための方法を知っている。映画館である。

映画館はその暗闇によって視界を限定し、椅子によって身体を拘束し、またその静けさは周囲の人間との会話を原則的に許可せず、席を立つことすらも困難へと向かわせる。映画館のアーキテクチャは原則として脱出を許さない。この映画館の仕組みはヒッチコックの映画にとってまさに理想の場所である。

映画と映画館、双方の組み合わせによって初めて、かつ、理想的に、ヒッチコックの「見せる」は達成されることになる。映画と映画館の間にあるこの関係性こそが、ヒッチコックにとっての(さらには、ヒッチコック同様に、映画作家を観客より優位な場所へと位置付ける他の映画作家にとっても)「映画的である」ものと言える。

では逆に、「映画的でない」ものはどういうものだろうか。それは映画(=コンテンツ)と映画館(=場所)の関係性が希薄なものであると考えられる。ヒッチコックからは少し話が飛ぶが、身近なものから、Huluを例に挙げよう。
Huluはアメリカ発のインターネットサービスで、2011年より日本でも正式に利用することが可能になった、定額制の動画配信サービスである。Huluは様々な企業と連携することで、2015年6月現在、13,000本以上の映画やドラマ、アニメなどのコンテンツを提供している。Huluは「Anywhere, Anytime」のコーポレートスローガンのもと、スマートフォンを利用して外出先で映画を観ることができるといったように、観客に高い自由度を与えている。これはつまり、映画の映画館からの解放を意味する。Huluにとっての映画は「見せる」ものではなく「見てもらう」ものなのである。
Huluは、観客による映画からの脱出を可能にする。先述した通り、「映画的である」ということは、暴力的に映画を見せられることであり、(原則として)観客に脱出の権利があってはならない。あったとしてもその権利は限りなく弱いものでなくてはならない。脱出不可能なアーキテクチャこそが「映画的である」を可能にするのであり、つまり、脱出の権利が観客にあるHuluを「映画的である」と言うことは不可能である。
同様に、テレビやアニメ、ゲームも映画的であるとは言えない。「映画的である」ものと「映画的でない」ものの大きな違いは、コンテンツではなく、そのコンテンツを鑑賞する「場所(=アーキテクチャ)」にある。場所を前提としないコンテンツはデータに過ぎない。

2014年、堀潤によるインターネット上の映画館「THEATRE TOKYO(シアタートーキョー)」がオープンした。これもまた「映画的でない」と言える。
THEATRE TOKYOはインターネット上の映画館と謳っているものの、Huluの例で挙げた理由から、このサービスを映画館と呼ぶことは困難である。映画館の条件は物理的に存在していること、観客を物理的に束縛できることにある。したがって、映画館はサイバー空間上には成立し得ない。
帰するところ、THEATRE TOKYOはインターネットを利用した映像配信サービスでしかなく、映画館的でもなく、もちろん映画的でもない。「インターネット上の映画館」はメタファーの域を出ない。
これは単に映画館とTHEATRE TOKYOの性質の違いを指摘するものであり、THEATRE TOKYOのコンテンツや意義を否定するものではない。また、Huluを「映画的でない」としたが、これもまた同様に、そのサービス自体を否定するようなものではない。

これまでの話からわかるように、「映画的である」ということは場所(=アーキテクチャ)に重きが置かれているということであり、「映画的でない」ということはデータ(=コンテンツ)に重きが置かれているということである。
「映画的である」はその脱出不可能性により、「見せる」を最大化させる。映画は常に映画館で鑑賞されることを望んでいる。しかし、当然のことながら、観客がそれを望んでいるとは限らない。インターネットが普及した今、「映画的なもの(=場所)」は死へと向かっている。「映画的でない(=データ)」ものによって。

映画作家は映画館を手放してはならない。もしくは、映画館的な別の何かを手に入れなくてはならない。それができなければ、映画的なものは弱体化の一途を辿ることになる。映画館なくしてヒッチコックの言う「見せる」は達成し得ない。

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