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起業という希望の選択

あえて「希望」などという、使い古されたつまらない言葉を使おうと思う。

阪神・淡路大震災、神戸連続児童殺傷事件、東日本大震災、度重なる首相交代、消えた年金、秋葉原通り魔事件・・・。「平成」という時代は、”内外、天地とも平和が達成される”というその由来もそっちのけ、恐怖、疑惑、不信、そんなものにまみれた時代のように思う。

しかし、その中で生まれたものがある、その中だからこそ生まれたものがある。それは、「起業家」である。いや、起業家そのものはもちろん昔から存在していた。しかし、平成の時代においての起業というものは今までのそれとはまるで違う意味を持っている。
平成18年に施行された「新会社法」により、1円より株式会社を設立することが可能になった。情報技術の急速な進化と普及により、製品やサービスの開発と発信が容易になった。会社を設立するのに300万円も1000万円も用意する必要はない。そしてせっかく集めたそのお金を製品開発だけに溶かしてしまうこともない。「平成」という世は技術の進化と相まって、「起業」という行為のハードルをこれ以上ないくらいに下げた。これの持つ意味はとてつもなく大きい。

昭和の時代は、十分な選択肢などなく、極端な話、消費者は企業側から提案されたものを受け取ることしかできなかった。大企業が文字通りの大きなパワーを持ち、「これが欲しいだろう、あれが欲しいだろう。この金額でくれてやろう。次はこれが欲しいだろう、あれが欲しいだろう。次はこの金額でくれてやろう。」こういう態度を取っていた。そして消費者はそれに喜んで従っていた。次々に登場する新しい製品に心を躍らされていた。これが昭和の時代のビジネスの形である。要するに、昭和というのは、消費者が生産者( = 大企業)にコントロールされていた時代、言い換えれば、大企業による絶対王政の時代なのだ。

しかし、今は違う。GoogleやAppleに代表されるような新たな巨大な資本勢力が誕生し、昔ながらの大企業は追い込まれつつある。また、単なる新しいビジネスだけではなく、UberAirbnbDropboxSpotifyのような、既存ビジネスを破壊するようなプレイヤーも登場して来た。(日本では、リネットラクスルのようなサービスがこれにあたる。)これらのプレイヤーに共通するキーワードはいずれも、「Disrupt(革新的破壊)」である。まさしく、既存勢力への抵抗勢力である。これは既得権益が蔓延る現代において、極めて健全な構図と言える。さらに、既存ビジネスの置き換えというのは、新しいビジネスをゼロから検討する場合に非常に発想しやすい(今ある産業の中からイノベーションの起きていないものを思い浮かべるところから始めれば良い)ため、一気にこの流れが加速した。

海外のプレイヤーに引っ張られるかのように、日本でもここ数年で学生や20代の起業家の数が爆発的に増えた。平成に生まれた彼ら彼女らに話を聞くと、やはり今の世の中に大きな不満を持っている。というよりも、希望を見いだせずにいる。これは言うまでもないことだろう。むしろ、こういう時代に生まれ育ったせいで、希望などというものに出会ったことがないのだ。信じるものをそもそも持っていない。持っていた経験もない。だからこそ、自分たちの手でそれを手に入れようともがいている。平成の起業家にとっては「起業 = Disrupt = 破壊」こそが、初めて見つけた「希望」なのかもしれない。

しかし、この活動は同時に批判の目にも晒されることになる。インターネット上のメディアでは、「数億円で事業を売却」「上場承認」などという記事が定期的に起業家界隈を賑わす。そして、そのニュースと同時に、起業家へたくさんの「おめでとう」というメッセージが届く。本来は事業拡大の一つのステップに過ぎない事業売却やIPOに対して「おめでとう」と言うことは確かに違和感がある。もちろんそれは事業拡大のための次のフェーズへと進んだことに対する賞賛の表れであるのだが、あたかもそこで起業家人生が完了したかのように見えてしまうからだ。そして、その起業家の懐に、株を手放した分の金銭が入る(株主の構成などにより、もちろん単純にそうでない場合もあるが)ことも手伝って、まさにそこで一丁上がり、「上場ゴール」などと揶揄されることも多い。
この現象は、起業家でない人たちからすると、「一攫千金を狙っているだけ。自分たちのお金儲けのためにインターネットを使っている。」という風に思われていることが多く、そういった批判の声も大きい。「けして単なるお金儲けのためにやっているのではない」、そう大きな声で社会にプレゼンテーションできる起業家の存在が、これからもっと必要になってくるだろう。起業家の倫理が問われる。

この現象は外から見ると滑稽かもしれない。世の中のイロハもわかっていない子供が、自分たちだけの小さな世界の中で騒いでいるだけだと思うこともあるかもしれない。
しかし、少し考えてみたい。なぜ彼ら彼女らが小さな世界で騒いでいるように見えるのか。それはおそらく、社会を知らないからに他ならない。外の社会を知らないからこそ、自分たちの社会の中でのみ活動するのだ。しかし、生まれたときから不信にまみれ、疑惑の中で生き、大人になってもゆとり世代とどこか蔑まれ、国に対して希望を持つことなど一度もなかったそんな若者に、この国の社会に興味など持てるのだろうか。起業家は起業したくて起業したのではなく、起業するしかないほどに時代に追い詰められて起業したとも言えるのだ。

しかも、情報時代の起業家というものは、実に歴史が浅い。WWW(World Wide Web)が誕生したのは今から僅か25年前。まさにこれからなのだ。彼ら彼女らの業界に歴史などない。そして他の時代の歴史に興味を持つチャンスもなかった。彼ら彼女らを特別擁護したいわけではないが、彼ら彼女らだけを責めるわけにはいかないこともまた事実だろう。

数億円で事業を売却、IPO、一攫千金。そういった起業の雰囲気に違和感を持つ人も多いだろう。だが、もちろんそればかりではない。誰にも気づかれることなく、失敗し、転落した者も多い。いや、むしろその数の方が圧倒的に多い。起業したとしても、1年以内に6割、5年以内に8割が倒産すると言われている。成功する確率など、ほとんどないのだ。希望を見出したものの、事業に失敗し、再び不信と疑惑の中で生きるしかなくなった者も多い。

若い起業家は失うものがないと言う人もいる。いくらでもやり直せばいい、確かにそういった点もあるかもしれない。しかし、自分の人生の一部を、確率の低い起業という希望に賭けながらこの時代を生きることを選択した。この姿勢は十分に認められるべきものではないだろうか。

なぜここまで起業家という存在、そして起業という行為を持ち上げるのかと言うと、平成における起業という行為の持つこの「破壊という希望の形」は、今の時代にこそふさわしいものであるからだ。ビジネスだけではなく、政治も教育もまた、新たな破壊的勢力の登場を待ちわびているのだから。

まず彼ら彼女ら起業家が、未熟な部分がありつつも、批判される部分がありつつも、ビジネスの領域で行動してみせた。既得権益に抵抗してみせた。破壊可能性を発見してみせた。次はどの領域がやってみせてくれるだろうか。

平成に生まれ生きる彼ら彼女らから生まれた可能性。私はこれを「希望」と呼んでみることにしたい。使い古されたつまらない言葉だけれども、今の時代が必要としているのは、この言葉なのだから。

 

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