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対話についての対話――1人から始めること

2016年1月4日 AM2:00頃 横浜市内公園を歩き回りながら

「対話について語らなければならない。まず一つには、ピーター・ブルックについて昔から思っていたことだけれども、彼が演劇の最小単位として想定しているものが、一人の俳優と、一人の観客がいればそれだけで演劇が成立すると。すなわち、場や、状況とか、脚本とか、その様なものを全て捨象した『純粋な二人』が演劇の本質である、ということを語っている。しかしながらずっと、僕はこれについて疑問を抱いていた訳だ、ね。というのも、何故『一人』ではダメなんだと。恐らくすなわち演劇の原初的な形態としての独白というものを考えることができないだろうか、という話な訳です。
ただいずれにしても、柄谷の『他者』というものについてですね。柄谷はモノローグを批判して対話をしなければならない、と言う(あ、猫。えー…目についたものを名指すと、いう事柄が、一つの偶然性の劇として重要なことだと思っている。ここで猫について言及できたのは良かった)。しかしながら例えば弁証法的な対話というのは、これはモノローグの延長でしかなく、厳密な意味で対話ではないと、いう風に言う訳です。これが何故かと言えば、弁証法において、同じコードを共有した『二人』が対話をするというのが、これは結局のところ二人が『一つの』目的に向かって、互いに論駁し合って高め合っていって、『一つの』真理を見出すと。この様な形態が…まぁ、決して対話になっていないと。結局のところ、客観的な真理みたいなものに基づいて対話を進めていくという事柄、これがすなわち、モノローグと変わらないじゃないかい、という話な訳ね。従って柄谷はそうではなく、むしろ同じコードを共有していない様な『他者』、(ヴィトゲンシュタインの例を挙げながら言っているのは)例えば外国人に日本語で喋ると、いう様なことを想定している。この『他者』の存在があって初めて対話が成立するのだと言う訳だ。
しかしながら。この程度の『他者』って別に大した他者じゃない、というのが、僕が改めて『探求Ⅰ』を読んだときに思ったことな訳だ、ね。お前の『他者』は大した他者じゃねえ!すなわち例えば、じゃあ猫ってどうなんの? だよね。結局のところ『言語能力を有している人間』ということしか問題にすることができない。じゃあ犬ってどうなんの、蟻ってどうなんの。あるいは更に言うなら、赤ちゃんや、その他言語能力を持たない人間ってどうなんの、という話。したがって植物に対して、無機物に対して我々がどの様に応答するか、ということまで視野に入れなければならないのではないですか、と。こういう問題な訳です。すなわち、ピーター・ブルックがね、演劇の最小単位として考えていた、俳優と観客の対話という問題も、僕からすれば、何で?と。例えば、今この様に『一人で』語っているというこの情景がね。何で地面や、空や、木や、あるいは猫や、彼らとの対話と言えないのかと、そういう話です。これは演劇とはならないんですか、ということです。これが一つの僕の問題圏な訳です。
しかしながら、大きな柄谷行人との問題圏とは共鳴するところがある訳だ。まあやはり、『開かれなければならない』。この『開かれ』という問題圏については、やはり我々は、恐らく共有している。さて、ウンベルト・エーコが、『開かれた作品』という本を書いています。この『作品の哲学』というのが(まさしく佐々木健一の著作にこのタイトルのものがありますが)、一つの大きな問題となる。開かれた作品というパースペクティヴ、これはすなわち、作品というのが必ずしも、それ自体に閉じこもっていないという、単純に言えばもうそれしかない訳です。しかしながらこの時、『解釈が多様である』という言い方はしてはいけない、んだよね。そう言ってしまうと、作品の中に『複数の意味』が存在する、ということになってしまう。意味というのは、極めて危険な言葉な訳です。全てのものに意味が内在しているという考え方は、極めて危険な訳です。その様な意味でニーチェが意味というものを批判していく――我々が意味というものからどの様にして脱却していくかということが問題となっており、柄谷も同じ地平に立っている訳です。
したがって、『意味』に限定されない開かれた作品を求めていかなければならない、という話。しかしながら作品というのは、ここが問題なのだけれども、別に芸術作品とかね、一つの本であるとか、一つの戯曲、音楽とか、美術とか、そういうものに限らない訳だ。今僕の目の前にあるこの電灯、これも一つの作品であるという風に言うことができるだろう。僕が今踏みしめている、このアスファルトというのも、作品、作られたものと言うことができるだろう。誰かによって作られたもの、という含意がそこにはある訳です。これは必ずしも人間の作品に限らない。蜘蛛が巣を作る。これもまた一つの作品と言えるだろう。それだけでなく自然界の動植物とかっていうのは、様々な物質や状況の折り重なりのもとで成立していると言うことができる。今ここにいる猫というのも、単にその両親によってのみ作られたのではなく、様々なものが彼の血となり肉となっている訳でしょう(笑)。したがって、全てのものが、意味なんかに限定されない、そもそもの初めから開かれた作品である、と言うことができる訳です。
しかしながら我々が、それでもなお我々が、作品というものを閉じられたものとして考えてしまうという、まさにそのことに問題がある訳です。良いじゃんと。作品というのはそもそもの初めから開かれているんだから、もうそれでこの話は終わりじゃん、とはならない訳です。我々が対象をどうしても閉じたものとして見てしまうということが、ここが問題な訳だ。
作品ね。フランス語だとœuvreと言いますが、これに関してジャン=リュック・ナンシーという人が『無為の共同体』という著作を書いている。このタイトルがどういうことかというと、「共同体」という事柄が一つの意味を持った作品として機能してしまっているんで(例えば国家、領土とか、イデオロギーとか)、少なくともその様に考えられてしまっているんで、そうではなくて、désoeuvré――無為と訳されているこの語ですが、すなわち脱作品的な共同というものを考えることができないかということがナンシーの問題設定だった訳です。
しかしながら同時に、このdésoeuvréというのは(元ネタはブランショにある訳ですが)、これ必ずしも、完全な作品の消去とか、純然たる脱作品化ということではないんです。というのも、当然のことながらまずもって作品が『ある』という事実が前提とされているし、また同時に脱作品化という契機は同時に別の作品化ということを意味せざるを得ないからです。脱作品化だー!やったー!と単純にわいきゃいすることはできない訳です。作品、作品…例えば私は今この公園の周りを歩いている。無意識に歩いていた訳ですが、気づけば公園とその外とを仕切っている柵に沿って、いた。『不自然』に、長方形に区切られた柵に沿って歩いていた訳です。このことの『意味』について考える必要はあるだろう、と。
この様な、脱/作品化という問題圏と同時に、語っておかなければならないのは、人間という事柄についてです。現代の哲学は、『非人間的なもの』についての思考というものに大きく立脚していると言うことができるでしょう。例えば、『実存主義はヒューマニズムである』いう、サルトルの有名な言葉を、モチーフにして、人間主義というものが大きく広まったということがある。恐らく当時、サルトルという人があまりに大きな存在であったために、そこに抗おうとした様々な哲学者が、反ヒューマニズムの術を様々に考えたと、いうことができるでしょう。勿論そこには、68年の様な政治運動の失敗という事柄も関係している訳ですが、いずれにしてもこれが極めて大きな問題な訳です。分かりやすいものを挙げれば、リオタールがまさに『非人間的なもの』という著作を書いている。機械であるとか、人間以外のものを中心に据えて、例えば形而上学や存在論を、あるいは芸術を考えていこうであるとか、この様なことが問題となっている。逆にいまですね(笑)哲学業界で『人間なるものは』みたいなことを言い出したら、どうしたどうした、みたいな感じになってしまうということが一つには挙げられるでしょう。したがって、哲学で曲がりなりにも修士を出たワタクシはですね、これはもう、『人間』ということを声高に掲げるというのは極めて難しいわけだけれども、『それでもなお』、いいですかここがやはり問題なんです、それでもなお人間と言わねばならないのではないかと。これは、人間というものの定義から始めねばならないとか、そういうことには必ずしも直結しないのです。すなわち、『人間が』哲学というものを始めてしまった、ということ、批評というものを、芸術というものを始めたというのは、一体どういうことなのかと。実際にそういう営みを行ってしまっているという、まさにその事実に改めて言及しなければならないのではないかということです。『非人間的なもの』に関わる議論にも、僕は強度を感じている訳ですが、その議論を経由して、『それでもなお人間』、改めて人間的なものについて言わねばならないのだと。…もう言いきってしまいましょう。我々が哲学や芸術や批評ということをやっているという、それは、『政治』に関わっている。すなわち『他者』との関係です。まさしく他者との関係。これを考えるために、これ問い直すために、これに言及するために哲学や批評や芸術が行われていると、もうパシッと言ってしまいましょう。したがって…他者との関係…まあ殺し合う訳だからね。そして殺し合うのが良くないと思っている訳だからね。殺し合うということを防ぎうるというのが人間だからね。ここはどうしたって捨てきれないと、ここで宣言してしまおうと、そう思う訳です。
先ほど、我々はニーチェ以降の問題圏、意味=真理にとらわれない様な思考を始めなければならないという話をいたしました。しかしながら僕が専門にしていたジャン=リュック・ナンシーは、まさしくこの意味という事柄をね、読み替えようとする訳です。そうですね、意味、これは彼の師匠であるジャック・デリダも積極的に扱わなかった事柄なんです。むしろナンシーに、『君は意味とかって言ってるけれども、それは問題あるんじゃないか』と投げかけているくらいな訳です。それほどに意味という言葉はあまりにも西洋哲学の根幹にかかわりすぎているため、西洋の伝統的な知にあまりにもまみれいるために、デリダですら思考の対象にしなかった。あるいはストレートにその言葉を用いなかった語なんですよね。脱構築の対象にならないと考えているのでしょうか。しかしながらワタクシからすれば、ナンシーとともに、だからこそ当然言及しなければならないものであるだろうと。
さてこれは19世紀から既に言われていたことだけれども、意味、フランス語でsensという語は、それ自体で『感覚』『方向』『意味』などといった事柄を同時に意味しているというのが、僕にはどうしても魅力的に思えて仕方がない訳なんですね(魅力的であるがゆえに気を付けなければいけない訳でもあるのですが)。意味、意味、意味、意味…意味、意味、意味です。意味という事柄の何が問題かって、やはり『不動の意味』が問題なのだと。意味が、極めて流動的ならそれでいいじゃん!ってことなんだよね。果たして流動的なものを意味と呼ぶかどうかという問題は当然ありますが、それでもなおそれを意味と呼ぶことが重要なのではないかと考えている訳です。ゲンロンの共同討議では『越境』という言葉が強調されているけれども、僕はこれは…意味の読み直しだと、そう思っている訳ですよ。超・単純に言えば、例えば文系理系という境界、これは文系の『意味』、理系の『意味』を読み直すことで、両者の関係を改めて問い直すという、一つには問題されている訳だと。単純に言えばそういうことだと思うんですよね。したがって問題なのは、意味を排するのではなくて、意味を考え直す。これだけだと思うんです。
この文脈で僕は、ジャン=リュック・ナンシーの『思考すること』(penser)と『重さを量ること』(peser)のアナロジーに、すごく魅力を感じているんだよね。これはどうしても、フランス語ないしラテン語系の言語に特有の、ダジャレみたいなものだと考えられてしまうのが残念な訳だけれども、peserとpenser、フランス語で言うと一字しか違わない訳です。ナンシーはこれを、語源上の一致があると言う訳だけれども、いずれにしてもまさしく重さを量るということ、他動詞的に言えば重さを量ることだけど、自動詞で考えるなら、『重さがあること』ないし『重さであること』ということ、これと思考がまさしくどこかで一致しているのではないかと。先ほどの『人間的なもの』の問題はここに関わっているのだけれども、やはり一つ気にかかっているのはね、現代においてなお『普遍的なこと』を挙げるとすれば、勿論地球上という限定つきであるのだけど(限定、まさしくこれも一つの問題なのだ、限定された普遍性?)、重力という事柄が普遍的だと言うことはできないか。我々は、空気の層、から常に圧力を受けている。普段は気づかないけれども、日常的に感じている『はず』の空気圧や重力、これを問題にしたい訳なんです。われわれが普段感じているはずの重力、しかしながら普段は感じないんだよね。言っちゃえば。言っちゃえば、この重力というのは普段は意識されない訳なんだよね。しかしながらだよ。これ西洋哲学の営みというのは実は、重力に抗うことだった、と言うことができる訳なんです。バベルの塔というのも重力に抗う技術の問題だった訳だし、東洋にはあまり例のない『噴水』という技術が西洋には多く見られるということも同じ問題系列にあるでしょう。バレエなんかも、まさしく重力を感じさせないような、純粋な身体を目指していたという風に言うことができるだろうと。しかしながら、しかしながら、僕の問題設定は、重力に抗うのではなくて、『常にかかっているこの重力を前景化すること』だと。ほぼこれに尽きる。『普段われわれがそうであるところのものを、可視化する』と。ほぼこれに尽きる。
先ほどの柄谷行人の例に関連付けてみましょう。彼の言う他者が大した他者じゃないということ。つまり何が言いたいかというと、彼は同じコードを共有していない人でないと他者であるとは言えないと主張していたのだけれども、例えば同じ日本語というコードを共有していたとしても、各人の思考のプロセスって全く違う訳じゃないですか。当然のことながら。言ってみれば、全てのコードを共有しているなんてあり得ない訳だよ。必ず人は――いってみれば、その人を支えているコードというのは、もう無限にある訳です。権利上、事実上、無限にある訳だと。したがって、言ってしまえば『全てが他者である』だろうと。全面的に一致することなどあり得ない。あるいは、全く違うということもあり得ない。『他者』が可能になる条件というものが、何一つコードが合致しないことであるなら、他者というものは不可能である。あるいは、あるいはその条件が、一つでもコードが合致しないことであるなら、全てのものは他者である。これはどちらも殆ど同じことを言っているにすぎない訳です。
したがって、私の眼の前にあるこの木というものも、単に日本語が理解できないとか、私の顔を認識できないとか、『ただそれだけ』であり、木は当然『他者』でありつつも、同時にこれを他者でないなどと断定することはできない訳です。もう少し日常的な理解に近づけましょう。例えば猫も、やつらの首回りをかいてあげましょう、すると、『次はこっちをかいてくれ』とコミュニケーションを示してくる訳です。十分他者であると同時に、十分には他者ではない訳です。
他者がこの様であるならば、当然のことながら、全ての事柄は対話であると言い得るし、対話など不可能だと同時に言うことが可能となる訳です。更に同時に、『それでもなお、対話』と言わなければならない。
これに関してもう一つ。僕が一つ、先ほどのsensということで考えていたのは――僕はやはりどちらかと言えば、全てのものが他者であるという様なパースペクティヴで物事を考えたいということなんだ、というのはすなわち、あなたたちは、今、自分が感じているこの感覚というものを、本当に感じているのか、ということなんだよね。これはフロイト由来の無意識の問題系と大分通ずるのだろうけど、今感じているこの足の裏の感覚を、あなたは本当に感覚していますか、というところを問題にしている訳です。あるいはあなたが今椅子に座っていれば、足が地についていないかもしれない。それでもなお、お尻の感覚というのは確かに存在すると。そう言われると更にその存在感を増すと。足が蒸れた時に、あなたは足の感覚を嫌だな、ということで感じます。しかしそうでもない限り、足の裏というのは、意外と自覚されていない。足が痛くなければ、足が気持ち悪くなければ。これは当然足の裏に限ったことではございません。衣服というものは、当然皮膚に触れている訳だから、ここに感覚が生じている訳です。『厳密に言えば』――ここが問題なのだけど、『同じ感覚なんて持続していない』。服を着ているという風に、『服』という名詞と、『着ている』という動詞を組み合わせることで、ある、抽象的な事柄を示すことはできるかもしれないけれども、今あなたが具体的に感じているこの感覚というのは、瞬間瞬間で、度毎に偶然的に変わっているんだよ、厳密に言えば。したがって、服を着ているというこの感覚は、本来であれば。他者なんだよ。ここが問題なんだよ(笑)(咳払い)。この服を着ているという他者の感覚をいかに現前化するかということが問題な訳です。この感覚が、越境の可能性の一つの端緒だと思う訳だよ。
したがって、sensという問題。我々は、常に度毎に他者からの侵入をうけているんだけれども、それを排斥してしまっている訳だよね。単純化してしまっている訳だよね。だって、いちいちそんな『他者』の情報を、『あ、他者他者他者、これも他者これも他者!』みたいなことで内化していると、これはもう身が持たないから。その様な情報は捨象して、大きく異なる情報にだけ目を向けてしまう訳だよ。でも本当はそうじゃない訳でしょ。これはもうあまりに通俗的な言い方だけれども、『あまりにも身近すぎて気づかなかった事柄に目を向ける』ということじゃないか。『他者』を取り入れるというのはそういうことなんじゃないの。普段殆ど不可能になっている他者を、可能にすること。これが可能になるのは、まさしく足の裏からなのではないか、ということ。批評の端緒はそこにあるのじゃないかということ。
一人から始めること――これは勿論、一人にのみ終始するということを意味しているのではありません。あくまで一つの端緒として考えている訳です。ただ、他者というものの『意味』があまりに硬直化した現代の思想/批評において、少なくともそう見える状況において、ここに改めて一人という他者を侵入させることがやはり必要なのではないか、と思った訳です。一人、一つの可能な他者。」

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