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中村雄二郎の反演劇的知――ディレクションへのアンビヴァレンス

 

70年代中期以降、思索の中で常に「演劇と哲学」という問題系を推し進めてきたのが中村雄二郎である。主著の一つ『魔女ランダ考――演劇的知とはなにか』に代表される様に、彼はまさしく「演劇的」なる事柄を自らの哲学の一端として語るのであるが、ここで演劇的とはどの様なものなのか。そして彼が演劇について語るとき、その語とその使用とはどの程度演劇的なのか。

中村雄二郎の議論は、現代からするとやや単純化がすぎる、という印象を受ける。彼が議論を展開する際、その中心には「近代的なイデオロギーに対する批判」が据えられているのだが、「近代」ということで念頭に置かれているものは、随分単純化されたものである。彼の言葉で言うなら、近代的な知は「普遍主義」であり「論理主義」であり「客観主義」であるとされている(『臨床の知とは何か』、p.133)。この様な知に即して、ひとはあたかもあらゆる客体を統御できる様な気になってきたのだが、現実の世界はそう容易く認識可能になるものではない。したがって中村雄二郎は、現実へのより良い接近の仕方を模索するために、「近代的な知」に「演劇的な知」を対置するのである。

さて演劇的な知とは一体何を意味しているのだろうか。彼はこれを、臨床的な知と言い換えている。すなわち「物事と自己との間に生き生きとした関係を保つようにする」、「個々の事例や場合を重視し、したがってまた、物事の置かれてあるトポスを重視する」、「総合的、直観的、共通感覚的である。いいかえれば、表層の現実だけでなく深層の現実にも目を向ける」(『魔女ランダ考』p.157)という知のあり方である。演劇(とりわけ中村雄二郎はバリ島の演劇と、それを中心とした社会構造を体験し、そこから多くを着想しているのであるが)はまさしく具体的な場を伴い、視覚だけではなく五感の全てを動員して感得せざるをえないものであるという様な意味で、彼の扱おうとする臨床的な知との親和性が高かったのである。

したがって中村雄二郎は演劇という語を、戦略的に用いているということになる。彼は別の場所で「ホモ・ドラマティクス」という小論を書いているのだが(『哲学的断章』、pp.151-163)、この様な語の使用をしているからといって、決して演劇の存在論などといったものを意図しているのではない。「演劇と哲学」という問題設定のもとでは、「人間は常に既に演劇的な存在である」などといった仕方で、より本源的な意味での演劇性に言及するという方向性も考えられるのだが、彼は決してその様な議論の展開を目指さない。

『魔女ランダ考』の最終章で強調されている「仕掛け」という単語に注目してみよう。「機械」の言い換えとして用いられたこの語で、中村雄二郎はフーコーやドゥルーズを評価しつつ「偶然性、意外性をもったさまざまな出来事をもたらす〈仕掛け〉、作者の意図を越えて多義的な意味を産出する不透明な〈仕掛け〉」のことを言わんとしている(『魔女ランダ考』、p.292)。演出家・鈴木忠志との対談では「哲学のほうで、機会偶因論というのが十七生世紀にあるんだけれどもね。われわれの現実を見ていけば、何かをきっかけとして自分が顕れる、あるいは物が顕れるというあり方は歴然としてあるわけだ。〔…〕言語とか型が仕掛けになるようなことを理論的に説明しろと言われたら、機会偶因としか言えないでしょう」と語っている(『劇的言語』、pp.183-184)。この二つの引用では、偶然的でしかあり得ない「きっかけ」の重要性が扱われている。中村雄二郎は、演劇の上演がその様な意味での大きな一つの仕掛けとなると考えており、同時にまた、彼の「演劇論」が仕掛けとなる様に努めているのである。彼にとっての演劇/論とは、まさに普遍的な原理とはなり得ない様なきっかけに過ぎないものなのである。彼は演劇のディレクション=演出にこだわった思想家であると言うことができる。フランス語で言えばmise en scène、舞台を作動させることを意図しているのである。

しかしながら、中村雄二郎は「感覚の組織化」ということで、感覚の本来的なあり方を志向している。時代や文化などによって、五感のなかで何が重視されるかという比率は変化するのだということを『感性の覚醒』以来一貫して主張しているのだが、それでもなお彼はあたかも「正しい比率」が存在するかの様に振る舞っているのである。純粋な感性――この中性的なものへの志向が、果たしていかなる方向を向いているだろうか?

 

中村雄二郎はバリ島の文化について語る際、先行研究であるギアーツの『文化の解釈学』を評価しながら、そこに存している問題点について次の様に語っている。「ギアーツの強調する〈劇場国家〉の見世物的な演劇性〔シアトリカリティ〕はよく出ていても、ダイナミックな内的演劇性〔ドラマティズム〕が欠けているのである」。theaterという語を回避した理由はいくつかあるだろう。例えばそれが「見る」というギリシャ語を語源としており、多分に近代的な知と結びつくということも念頭にはあっただろう。しかしいずれにしても彼は演劇ということでドラマのダイナミズムを強調していたのであった。「そこにズレがあることが、すでにドラマの発生なんだな。ドラマの元型が対立にあるのじゃなくて、むしろズレにあるということが、はっきりしてきたように思う」(『劇的言語』、p.125)。

ただし『感性の覚醒』では、ルソーの「花を一本街の中心に置けば、そこが既に舞台となり演劇となる」という純粋な演劇観を批判的に扱っていた。しかしながら「ズレ一元論」の様な彼の議論は、果たして演劇でありうるのかどうか?

 

 

参考文献――中村雄二郎の著作、対談

『感性の覚醒』(1975、岩波書店)

『共通感覚論』(1979、岩波現代選書)

『哲学的断章』(1986、青土社)

『臨床の知とは何か』(1992、岩波新書)

『現代情念論』(1994、講談社学術文庫)

『劇的言語』(1999、朝日文庫)

『魔女ランダ考』(2001、岩波現代文庫)

 

 

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