印刷

末路へ/の抵抗

1.抵抗としての世界とその現前化

 「不可逆的な何ものかの抵抗」――岡崎乾二郎は、批評が立脚しなければならない点についてこの様に語った(『絵画の準備を!』p.389)。この言葉を私なりに理解するなら次の様になる。現実の単なる反復や、伝統的な表現形式への反抗、あるいは理念的な何事かの表象――これらの意図に還元されることのない、絵画それ自体が持つ物理的な暴力性とその諸効果を現前化させるのが批評の役割だということである。
 「抵抗」という語は一つには、規定的な権/力と闘い、それを乗り越えていく力である。岡崎もまた、とりわけ政治的な文脈で、文化を、歴史を、我々を秩序づけ矮小化せしめる権/力への「抵抗」という事柄を強く念頭に置いている。しかしながらこの語は同時に、諸力の錯綜としての世界の中で必然的に生起し続けている反力をもまた示している。前者の抵抗が可能となるのは、後者の絶えざる反力としての抵抗が前景化される時のみである。従って問題は、常に現働的であるはずのこの抵抗、しかしながら常に隠されてしまっているこの抵抗、これを改めて現前化させるということにあるのである。
 現実を完全に画布の上に反復しようという意図を持つ「リアリスム」、これは人間が表象するに際して、自らの身体や絵筆などの道具といった物質性の抵抗を受けることなく、無欠の技術を行使することができる、あるいは少なくともそれを目指すべきだという信念に支えられている。前の時代の諸形式を意図的に乗り越えていこうとする「アヴァンギャルディスム」は、弁証法的に新たな形式を産み出すにすぎず、その新たな形式がまた一つの支配的な権力に成り代わるという限りで殆ど徒労に終わる。そして純粋な精神、純粋な国家、あるいは純粋な身体などを描こうとする「イデアリスム」は、まさしく絶対に到達し得ない理念的な何ものかへのノスタルジックな欲望を満たすことが目的とされており、かの純粋性に余分な諸抵抗は排除されることになる。
 ここでは、これらの「主義」をその様なものとして批判しようというのではない。無数に展開されてきた芸術運動が、何らかの主義に(のみ)還元され、抵抗の場が失われていくことに抵抗しようというのである。批評なるものは、まさしくこの様な抵抗のうちで可能となるのであるから。

 

2.アフォーダンスと船の表象

 ここで一つの導き手とするのは、アフォーダンスという考え方である。この概念は、或る物体の価値が、それを観察する主観性とは独立に実在しているということを言わんとしている。例えばカナヅチと呼ばれているものについて考えてみよう。細長い木の棒の先に、重い鉄の塊が接合されているこの物体は、まさしく釘を打つのに極めて適したものであるという価値を持つことになる。しかしながら、人間にとって都合の良い形と大きさであるこの道具は、小動物からすると単なる奇異な形の何かという価値しか持つことはない。あるいは人間であっても、釘などという概念の存在しない文化圏ではこれを肩叩きの道具として見たり、更には闘争の際の投擲の道具と見なしたりするだろう。すなわち物体の価値は、物体それ自体にもそれに相対する主体にも存していない。それを用いる主体や、釘、肩、敵といった対象物などとの関係の中で初めて価値は生じる。従って、厳密に言えば物体それ自体に価値が存しているのではなく、環境こそが価値であるということになるのである。
 では、この様なアフォーダンス理論を出発点として「船」について考えてみよう。船(ここでは、殆ど木材だけで作られた小舟ないし筏のこと)の表象は、絵画史の中に繰り返し登場する。船はとりわけ、何かしらの「運命」に結び付けられるものとして描かれてきた。そこには、大きく分けると3つの表象の傾向を見て取ることができる。一つは絶望をなんとか打破しようとする勇敢な人間主体の表象(Copley ‘Watson and the Shark’ 1778)。もう一つは絶望を受け入れるしかない悲劇の表象(Géricault ’Le Radeau de la Méduse’ 1818-1819)、最後の一つは、その多くが聖書に基づいているが、絶望を打ち破る救世主の表象(Delacroix ’Christ Calming the storm’ 1853)である。勇敢な主体、悲劇、救世主という三つの表現をするに際して、船というモチーフが選ばれたことは全面的に恣意的な訳ではない。船をとりまくアフォーダンスが、これらの表現を導出したとさえ言い得るのである。
 それ自体で動力を持たない船は、風が吹くのに抵抗せず、その進路を決める。多少ともバランスを崩せば転覆してしまうという緊張状態にありつつ、なおも偶然に任せてただ海を漂うというのが「平穏状態」における船の価値である。しかしながら平穏なる例外は持続しないだろう。嵐などの強烈な力が船に加わった場合、ここには人間の力ではどうしようもないほどの決定力が働くことになる。天候の変化、あるいは乗船者たちの疲労や空腹なども船は含意している。
 この様な意味で、アリストテレスが言うギリシャ悲劇の筋にあたるものを海と船は常に既に代行しているのであり、まさに人間の力が及ばないというそのことによって、船は悲劇という価値を有しているのである。勿論、この悲劇に打ち克つ主人公の登場も予期されうるし、明るい未来を指し示す神の存在も考え得る。いずれにしても重要なのは、船が永続的な時間を決して担保しないということである。乗船者たちが海難事故によって全滅してしまうにせよ、引き上げられるにせよ、船は未来へと方向づけられた一つの舞台であり、何かしらの終焉/終演に導かれている。それらは「船」をめぐって考え得る帰結の一つとして選択されており、この「どの終わり方を選択したか」ということの周りにおいてのみ、恣意性が作用することになる。したがって上述した三つの表象の価値は、人間が全面的に船の表象に付随させたものなのではない。何らかの帰結を導かねばならないというまさにそのことが、(少なくとも人間を乗せた)船のアフォーダンスとして考えられるのである。
 さてここで船の表象を悲劇になぞらえて論じたが、果たして「人間の力が及ばない」のは船の上だけであろうか。我々の生きる世界とは、そもそもその様なものではなかったか。この様な「末路」にあってもなお、通俗的ニヒリズムに陥ることなくそれに抵抗することが肝要なのではなかったか。藤田嗣治の『ソロモン海域に於ける米兵の末路』は、まさしくその様な問いに答える一つの抵抗それ自体として考えることができる。

 

3.末路、あるいは一つの抵抗

 陸軍美術協会に所属していた藤田嗣治には、国のために戦争画を描くことが要請された。アッツ島の戦いの記録を求められた藤田は、それを敗北として描くのではなく「玉砕」として美化するため、理念的な身体の描出を試みたと言うことができる。『アッツ島玉砕』の画布の7割を占める兵士たちの身体は、強烈な力動性を示している。死ぬ間際まで勇敢に戦いぬく様、その迫力は、見る人に崇高さをも感じさせるほどのものである(『絵筆のナショナリズム』pp.119-121)。しかし、この絵は「記録」の理念とは程遠いところに位置していると言えよう。というのも戦いに臨む兵士たちは、この様な形で戦うことは決してないからである。銃撃戦が基本となる近代以降の戦争で、一人一人の身動きが制限されるほどに重なり合って戦うことはまずないし、少なくともアッツ島の戦いに際してその様な白兵戦が行われたという記録は残っていない。
 ある意味で藤田は、実際的な身体の抵抗を無視した描出を行いつつ、かつ理念的な身体を演出する実際的な工夫もいくつか行っている。例えば、画面背後から駆けつけてくる日米両軍の兵士たちの動きは、いままさに戦っている兵士たちの四散の可能性を排除している。同様に画面の前面につまれた死体の山もまた、戦闘領域を狭める障害物として機能している。翌年に描かれた『血戦ガダルカナル』でも、彼は岩と大木に囲まれた不自由な空間を創出し、そこでも何とか戦おうとする人々の身体の抵抗を示している。
 確かにここで描かれる身体はある種の説得力を持っている。この様に藤田は、人間の身体を描こうとする時、物質的なものによる制限を強く念頭に置いていたのである。『ソロモン海域に於ける米兵の末路』において敵国の兵士を描く際、物理的に逃げ場のない船というモチーフが選ばれたことは偶然ではない。ただし、物理的な制約がかかっているという意味で前二つの絵画と事態は似ているが、その位相はかなり違った内実を孕んでいる。伝統的な船の表象と違わず、ここで船は悲劇的な筋の途上にある。船は荒波の最中に位置し、背後には複数の鮫が描かれている。国のために制作されたこの絵画は、米兵の悲劇的な未来を暗示しているかのようである。しかし、この絵が伝統的な船の表象と比して特異なのは、米兵の意志が一つの方向に向いていないことにある。片腕を失いつつも仁王立ちをして、一点を見据える米兵の視線は、船の先端とは逆方向を向いている。船が偶然に左右されて行き先を決めるとはいえ、生き残りの希望を賭けている人物は、必ず船の先端の方角を見る。船の先端が「来るべき未来」という価値を有しているからである。この人物はしたがって、どの様になるか分からない未来を見据え、様々な状況に対応できる様に身構えているということになる。
 波の具合を見る限り、複数の鮫がこの哀れな船をめがけて一直線に向かってきているとは考えられない。鮫が実際、嵐の際には海底深く潜って殆ど海面に顔を出さないことを考えても、米兵たちが鮫によって最期を迎えるという可能性は高くないだろう。「末路」という語は、必ずしも「終わり」のみを意味しない。『末路』の米兵たちが極めて危機的な状況にあることは間違いないが、それでもなお生き延びることが賭けられている人々であることもまた確かである。立っている兵士以外には、生き延びることを諦め、絶望にくれている者の姿を見ることもできる。しかしながら存命のまま海に出ているということそれ自体が、結末の確定していない筋を示していると言えるだろう。彼らの思惑とは別に展開される筋、あるいは彼らの思惑に抵抗する筋、我々は『末路』にこの可能性を見ることができるのである。
 藤田自身がこの様なことを意図していたとは決して言えない。それでもなお、彼の物理的な制約への眼差しがこの様な絵画を構成してしまったことそれ自体が、絵画の抵抗の可能性を指示しているのである。

 

参考文献

西島照男『アッツ島玉砕――十九日間の戦闘記録』(北海道新聞社、1991年)。
Jean-Luc Nancy, Le Radeau du théâtre (Fusées 6, 2002).
松浦寿夫、岡崎乾二郎著『絵画の準備を!』(朝日出版社、2005年)。
佐々木正人『アート/表現する身体』(東京大学出版会、2006年)。
河野哲也『善悪は実在するか』(講談社選書メチエ、2007年)。
柴崎信三『絵筆のナショナリズム』(幻戯書房、2011年)。

文字数:4561

課題提出者一覧