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身体を語ることは不可能か?

0.身体を語ることをめぐる問題
 身体の運動、ないし身体表現は、批評することが困難な領域であるとしばしば言われる。小説などの様に一度創作されたら揺るがないテクストを持つ表現形式を読解する場合とは異なり、「イマココ」という特異な場での一回限りの体験だけが根拠となる様な言説が果たしてどれだけの正当性を持つのかという問いが、身体批評には常につきまとうのである。結局、俳優やダンサーの「身体」をめぐっては、感覚や印象、ないし嗜好に基づく言説のみが可能となっている。あるいは身体それ自体ではなく、それを取り巻くテクストやコンテクストの分析に終始するという批評がほとんどである。では身体それ自体を批評することは可能であろうか? あるいはまた、俳優の良し悪し、ダンサーの身体の強度を語る術は残されているのだろうか? どの様な仕方で?(現代演劇の一つの大きな理論を提示したハンス=ティース・レーマンは、身体表現を「ポストドラマ」的なもののうちの一つと考えていた。彼はアリストテレスに端を発する、偉大なる精神を醸成するための「ドラマ」概念に抗する試みの一つとして、身体の身体性を強調する表現が登場したと述べている。果たしてこの様なパースペクティヴは全面的に正しいだろうか。ここに疑問を呈することから始めて、身体について語っていくことにしよう。)

1.偶然のドラマティズム
 ドラマという言葉を聞いて、どの様なものを思い浮かべるだろうか。目立った変化のない日常を生きている人々に突然おとずれる出来事、そしてそれに端を発して展開される複雑な人間模様や心理の変化――多くの場合この様なものがドラマと呼ばれ、あるいはそれがドラマティックなどと形容されている。あるいはまた「筋書のないドラマ」という表現に見られる様に、ドラマは基本的に筋書=台本があるものとして理解されている。すなわち一般的には、ドラマは様々な変動が描写された物語であると考えられているということになる。
 さてここで「変動」とは、様々な程度のものが考えられる。「知らずに殺した男が実の父であったと、後々になってから知る」といった大きなものから、「廊下を歩いていたクラスメートがずっこける」といった小さなものまで、およそ全ての変化にドラマ性を見ることができる。より極端に言えば、ドラマにおける主役は人間とは限らない。例えばすなわち、放り投げたティッシュがごみ箱の縁に乗っかり、数秒の後にぽとんと外にこぼれるなどといった出来事を見た時、我々は「あーもう少しだったのに!」などと、そこにささやかなドラマ性を見ることになる。「この対象は次の瞬間この様に動くだろう」という予想が裏切られる時、人は動揺し、そこにドラマを見る。
 ただしマジックの様に人為的に企図された「裏切り」の場合、仕掛けた人物の意図が明確であるため、結果を知覚した直後に納得したり安心感を覚えたりすることになる。ここでは「裏切り」が即座に仕掛け人への「信頼」に回収されてしまうため、これは厳密に言えば裏切りに該当しない(確かに我々はマジシャンのパフォーマンスについて、それをドラマティックと形容することは全くない)。偶然の出来事によって初めて本来的な予想の裏切りが成立し、そこにより強いドラマ性を覚えることになる。先ほどのティッシュの例で言うなら、入る/外れるという二分法で考えていたティッシュが、偶然にもその間に着地し、「ごみを捨てる」ということの成否の予測が不可能な状態を数秒持続させ、観察者の期待と不安をあおりつつ、更には最終的な結果も偶然によって左右されるというこの一連の流れには、人が対象にドラマ性を感じる際の要素がつまっているのである。
 したがって「ドラマ」なるものにとって本質的な事柄とは、或る偶然的な対象の変化と、それを見ることによって引き起こされる我々の心理の変化なのである。ただし、或る人々にとって突飛な出来事と思われる事柄であっても、別の文化圏に生きる人にとっては全くドラマティックでないということも考え得る。狩猟が「食事」の一部になっている人々にとっては、「獲物の銃殺シーン」を映像で見ても何とも思わないかもしれない。しかし既に切り身になった肉しか食べたことのない人々にとっては、当の映像がそれ自体でドラマティックに感じられるだろう。ドラマのドラマ性は、対象それ自体に存しているのみではなく、むしろ様々な状況下に位置している我々の知覚の領域に大きく依拠しているのである。(この問題を、「結局人それぞれ」などという言葉でまとめてはならない。或る対象が確かに存在しているという事実をやはり無視してはならない。そうであるがゆえに、仮に権利上挫折する試みであるとしても、対象それ自体の分析を回避してはならないのである。)

2.身体とはドラマである
 この様に考えるのであれば、ドラマが「物語」であると言う必要は全くない。「筋書のないドラマ」は、何も特殊な事柄を言い表してはいない。ドラマという概念はそもそもの初めから筋書を必要としていないのである。言葉を介することなく、あるいは筋書の登場を待つまでもなく、あらゆる「物質」それ自体が既に、潜在的にドラマである。非人間的な物質ですらそうなのだから、人間の身体は言わずもがなであろう。ここに身体を語ることの一つの可能性が存している。すなわち、今目の前で運動している身体が、どの様な意味で、どの程度ドラマティックなのか――この分析に取りかかってみよう。
 まず二枚の写真を見ていただこう。

AB

 AとBの写真に写っているこの人物は次の瞬間、どの様な態勢をとっているだろうか。Aは「歩こうとしている人」であると見て取ることができる。右脚をあげ左腕を前へ振り出しているこの人物は、「自然な」運動法則にのっとることで前方への推進力を得ている。恐らく次の瞬間には、A-1の様に歩を進めていると一般に想定されるだろう。しかしながらAの人物はこの態勢から、A-2やA-3の様な運動を行うこともできる。必然的にそうなるであろうと予想されうる「歩く」という一般的な観念に抵抗すること、ここに一つのドラマが生じることになる。

A-123

 Bに関してはやや事情が異なる。ここで写真の人物は「倒れそうになっている人」である。一般的な人間の筋量ではこの「倒れる」という運動自体には抵抗することができない。彼は重力に従ってただ倒れるだけである。しかしこの運動が単に必然的なものでしかなく、それゆえ非ドラマ的である――かと言えば、必ずしもそうではない。Bの人物は、気を失っていない限り(あるいは直立のまま倒れるのだという極めて強い意志を持っていない限り)、B-1の様に手を突き出し膝を曲げ、地面との激突の衝撃を和らげようとするだろう。換言すれば、彼は必然的に訪れる「衝撃」という未来への抵抗を行っているのである。この運動は多分に無意識的なものであると言うことができる。別の言葉を用いれば「反射」運動である。

B1

 反射も単に機械的な生理反応でしかなく、したがってやはりドラマからは遠い――と断ずることもまた幾分早計である。というのも、我々の身体とその運動はかなりの部分がこの無意識的な反射に基づいて成立しているからである。身体の構造の元を辿れば、感覚された刺激を脳や脊髄という「反射中枢」が受け取り、そこから発されたシグナルに基づいて何らかの反応、運動が引き起こされるという風になっている。更に言うなら、物質を構成している原子たちは互いにぶつかりあいながら絶えず運動を続けている。そこまでミクロなレベルを考えずとも、自らが意図して動かそうとしているこの身体が、筋肉や骨の反射に大きく依拠していると言えば十分であろうか。意識による身体の統御は、実は身体にとっては副次的な事柄に過ぎない。身体とは多分に機械的であること、このこと明快に呈示してくれるという意味で、すなわち意識に対する無意識の抵抗を呈示してくれるという意味で、Bの運動もまたドラマティックなのである。(この章で抵抗という言葉を強調したのは、それが運動のドラマ性をよりよく喚起するものだからである。例えば地球上に住む我々には、常に重力がかかっている。したがってこれは同時にまた、重力に抵抗する我々の身体があるということなのである。運動があるということと、力が働くということと、身体が抵抗しているということは殆ど同義である。)

3.身体批評の一つの端緒
 身体それ自体の批評をめぐる問いから始めた本稿であるが、それでもなお「呈示」、これが一つの問題となる。AとBの人物、この被写体は筆者であるが、撮影に際して公園の通り道を使ったため、道行く人やベンチで休憩しているカップルなどから奇異な目で見られることとなった。彼らにとって、日常へのこの奇異な対象の登場は一つのドラマとして機能した訳である。しかしながら即座に、この対象は理解の範疇に落とし込まれることとなる。「明確な理由は分からないが、作品制作か何かで歩いている写真を撮っているのだな」などと判断された時点で、私の身体からドラマは消失することとなり、彼らは普段の日常へと(唯一、急に前のめりになって倒れた瞬間には驚いている人もいた)。先ほど述べた様に、同じ対象を知覚しても、その知覚者が属している文化や状況によってドラマが生起するか否かは異なる。すなわち、無意識のレベルでも常に運動を続けているあらゆる身体=物質はそれ自体でドラマであると言い得るが、そのドラマは人々の知覚によって初めて顕在化するということなのである。
 残る問題、そして最大の問題は、何が身体の良し/悪しを決定づけているのか、何が身体のドラマ性を担保しているのかということである。一つのアプローチとして、「何がドラマを妨げているか」を考えてみることにする。まず、いわゆるドラマの時代のドラマについて言及してみよう。ドラマ時代のドラマ、すなわち例えば「リアリズム演劇」という理念は、あたかも舞台の外が存在しないかの様に振る舞うことで「偶然性」の領域を担保していた。観客が舞台上の出来事について、実際にその場でリアルタイムに起こっているのだと錯覚した場合、彼らは偶然の衝撃を無批判に感得することとなるのであった。しかしながらこの時、俳優の身体それ自体が舞台という奇異な場に載せられているというこのドラマ性が欠如してしまう。すなわち俳優の身体という現実性が無化されてしまうことになるのである。また同時に、この舞台 – 外の無化という理念は、完全には達成され得ない。結局のところ観客はこの劇を、本来的には自分とは関係ない別世界の物語として受け取ってしまう。この時ドラマのドラマ性は極めて小さなものとなってしまうのである。
 クラシック・バレエは、その本質として「重力への抵抗」ないし「重力からの解放」という理念を抱えている。絶えず我々の身体にのしかかっている重力を問題にするという意味で、この理念自体は極めてドラマティックである。しかしながら、その具体的な運動を形式に強く押し込めるという仕方で、バレエは身体からドラマを取り除いてしまった。次第にバレエはそのドラマ性を、戯曲などといった外部のテクストに求めていく様になる。最終的にバレエは、「ここまで形式に則した身体やチームワークを作り上げるなんて、素晴らしい!」という制作過程のドラマ性を垣間見せるにとどまることとなったのである(これはこれで極めて重要なファクターではあるが)。
 指摘しておかねばならないことだが、ここで「リアリズム劇」「バレエ」は、偶然的な出来事を完全に排除している。その排除こそが自らのドラマ性を成立させるための条件なのだから当然のことである。しかしながら「日常的にも必然的に生じているはずの運動、抵抗、ドラマ性」の顕在化を目的とするのであれば、上述した二つの理念的な形式に依拠していてはならない。勿論、一切の形式を排除するということは不可能である。潜在的には身体は絶えざるドラマであると言い得るのだとしても、このドラマの知覚はやはり出来事として生起するのみであり、形式の切断面に生じるということになる。先のA、B二枚の写真も、批評の導入のために「単に歩行という習慣に抗っただけ」「単に重力と抵抗を示しただけ」でしかない。すなわち全面的、絶対的にドラマ的であると言われる様な身体は存在し得ない。結局のところ、或る身体の何がドラマ的で何がドラマ的でないか、この批判的な検討が批評であるということになるだろう。この時、身体と観客との関係、舞台装置や音楽、演出家の存在という身体の外部などなどといった、身体をドラマたらしめ、身体からドラマを抜き取るこれらの諸力の関係に目を向けなければならないだろう。(あるいは身体の考古学…)

 

 

 

 

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