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電子書籍は「平等」か?

◆日本の出版文化

日本の出版業界を大きく方向づけている「再販制度」「委託販売制度」なるものをご存じだろうか。普通、市場に出回っている商品の値段は、各小売店が自由に決めて良いことになっている。消費者にはそれぞれの場所で売られている商品の値段を比べ、購入する場所を選択する権利が与えられているという訳だ。例えば或る家電をメーカーのホームページで検索すると「オープン価格」などと表示されており、実際の値段が分からなくなっている。各電気屋によって値段が違うので、消費者にはそれぞれの情報を調べる必要が生じることになる。一方でほとんど全ての書籍には裏表紙などに値段が印字されているだろう。書籍に関しては出版社が販売価格を設定しており、小売店がそれを勝手に変更することはできない。これが、「再販制度(再販売価格維持制度)」である。

もう一つの「委託販売」は、更に特殊なものであると言える。出版社は各書店に本の販売を委託している。極めて簡潔に言えば、出版社は書店の陳列棚を「借りて」、そこに自社の商品(書籍・雑誌)を置かせてもらっているという様なものである。この時当然のことながら、売れ残った商品は書店の在庫になるのではなく、出版社のもとに戻ることになる。ストレートに言えば書店はいくらでも返品をすることができるのである。出版社に返された商品は他に売れそうな場所を探して流れるか、再生紙として再利用されるなどといったことになる[1]

これらの制度については賛否どちらの意見も様々なものを見ることができる。とりわけ問題となっているのは、「自由競争」の可否と、電子書籍にまつわる諸事象である。前者については極めて単純な話なので、簡単に触れておこう。本の流通に関して日本の制度に準じるならば、各小売店が自由に値段を設定することができないので、大手書店であっても多くの顧客を獲得することができない。そしてまた書店は、本の販売を「委託されているだけ」で、売れなかったとしても商品を出版社に返せば良いだけとなる。したがって目の前の本を絶対に売らなければならないというリスクを負うことがなく、企業努力を怠ってしまう。結果として読書人口が減り、出版文化が疲弊することになる――というものである。しかしながらここへの反対意見もまた、容易に理解することができる。小売店同士で価格競争が始まり、かつ返品ができないということになれば、書店では他店より売れる、そして何より在庫が余らない様に絶対に売り切れるという確信のもてる、いわゆる「売れ線」の本しか店頭に置かなくなってしまうだろう。また出版、印刷業が関東に集中しているということもあり、再販制度によって本の値段が決まっていない場合、地方での書籍の値段は必然的に高騰することになる。

 

◆電子書籍の誕生まで――Amazonにおける「平等」の理念

ただしここでは、これらの制度の是非を問いたいのではない。日本に特異なものだと語られている再販制度も実は大なり小なり諸外国でも見ることができるものだ、という研究も近年登場しているが、その真偽も問題ではない。重要なことは、「電子書籍」なる新たなメディアの登場で、これらの制度が再考される様になったということなのである。

消費者目線で電子書籍の是非を問う時、そこでは「物質性」が問題となっていると言えるだろう。本棚に本が並んでいなければならない(本との偶然的な出会いこそが重要なのだ)、指で紙をパラパラとめくることができなければならない(必要としているページを探し当てる皮膚感覚が重要なのだ)、自由に書き込みができなければならない(本との「対話」は電子書籍には不可能なのだ)、等々。しかしながら本の物質性というのは、本の選択や読書の際にのみ関わってくる事柄ではない。流通の時点で、すなわちよりマクロなレベルで文化に関わる事柄なのである。

電子書籍の前に、まずは今や「アメリカ」の一つの象徴とも言える、Amazonの話からしなければならない。Amazonの前身であるCadabra.comは1994年に成立した「インターネット書店」である。アメリカで出版された本を手にとってみると、そのほとんどは裏表紙に値段が書かれていない。お分かりの通り、書籍の値段は各小売店がそれぞれに決めているのである。アメリカはその国土の広さもあって、国内の運送にもかなりの費用がかかる場合がある。また出版社は大量に注文をくれる書店に対してかなりのインセンティヴを与えている。この様な状況もあって、同じ本でも場所によって価格が2倍以上違うなどといった事態が生じているのである。Cadabraは、この様な事態に目をつけ実践的に改革を行った企業であった。自社の大きな倉庫と独自の配送システムを用い、全国どこにでも変わらない送料で書籍を流通させることに成功した。現在日本からアメリカのAmazonへ洋書を注文した場合でもさほど送料がかからないことを鑑みても、いかにその配送システムが革命的かが分かるだろう。

この様な成功の背後にあるのは、「平等」という理念である。アメリカという国家はその成立からこれらの理念のもとに成立している。国のどこに住んでいようと平等に文化が享受できるようになるというCadabraの発想は、アメリカ国民のニーズ、ないし「国民性」に極めて良くマッチしたと言うことができるだろう。この様な成功を経たAmazonが、いち早く電子書籍の実用化に成功したというのは必然である。データ送信の速度は情報伝達に必要な「距離」をほとんど無化することに成功した。情報の享受に、もはや場所――地理的な条件は全く関係なくなる。少なくとも出版文化ということに関して言えば、理念的な意味での「平等」がほとんど達成されたのである(恐らく今後、そう遠くない未来にAmazonは電子書籍の無償化へと向かっていくだろう。制度的、経済的に困難はあれど、理念的な平等の極点は場所の無化、そして貨幣の無化にあるからだ)。

 

◆平等、均質、文化

平等、しかしながらこの理念それ自体がここで問題になる。「同じ条件で情報を享受することができる」ということが、必ずしも平等の条件とはならないからである。「物質的」なレベルで考えてみよう。インターネット社会論が語られる時に必ず最初に話題になることであるが、全ての情報に同じ距離感でアクセスすることが可能になった時、一体何が起こるのだろうか。情報はまさしく「無限」に存在するのであり、結局のところ何かしらの偏向がなければ「アクセス」は実際的なものとならない。Amazonのリコメンド機能やGoogle検索のシステムの例を出すまでもなく、良い/悪い、有用/不要の情報の区別は、最終的にはアクセスの多さを根拠とせざるを得なくなるということが理解されるだろう。皆が同じ情報に触れられる様になるということは、皆が同じ情報を欲する様になるということと並存するしかないのである。

ボードリヤールはアメリカ的な大衆消費社会を「日常生活の全面的な組織化、均質化」と呼んだが、まさしくここに情報と情報への欲望の均質化を見ることができるだろう。ただし、ここで均質化を「人間精神」などといった語に回収させてはならない。先ほどから見てきた様に、問題は地理的なレベル、物質的なレベルでの均質化に及んでいるからである。日本のリベラルが、保守的な体制(現行の出版業界に関わる一部の人間が、多大な利権を得ているというのは事実である)をとっている日本の出版文化を痛烈に批判するという様を時おり目にする。その様な出版保守のせいで、日本で電子書籍がメジャーにならないのだと。あるいは、電子書籍の登場こそが日本の特殊な出版業界に孔を空けるのだと。しかしながらその時念頭に置かれている電子書籍とは、アメリカ的、Amazon的な「平等」に基づくメディアである。その様な意味での電子書籍に必然的に付随する「場所の均質化」が、果たして必要だろうか? 地理的な困難があり出版と金という大問題を抱えたアメリカでは、その解消がかなりのアクチュアリティを持っていたと言えるだろう。しかし、日本というアメリカに比べれば相当に小さな島国ではどうだろうか?

読書が好きな人なら誰もが納得するところであるが、読書体験で最も重要なのは、自分と作者、作品との違和を感じるまさにその瞬間である。いわば均質的な空間が歪むところにあるのである。「文化」なるものが存するとすればそれは、この様な均質化への抵抗のもとで初めて可能となるだろう。出版文化について考えるのであれば、地方の小さな書店が、独自の偏向に基づく情報の流布を積極的に行える様に環境を整備することの方が重要ではないだろうか。

したがって平等のあり方は「私もあの人と同じものを」ではなく、「私もあの人と同程度に新たな違和を」にならなければならない。電子書籍というプラットフォームは、この問題を解決することなしに、「文化」として根付くことはないのではないだろうか。平等=均質化に基づくのではなく、違和と抵抗に基づく電子書籍――これもまた一つの理念でしかないだろうか。

[1]なお、この時出版社と書店とを仲介する役割として「取次」なるものの存在がある。日本ではトーハン(元:東京出版販売株式会社)日販(正式名:日本出版販売株式会社)という二大取次が存在し、数千の出版社と、一万にも及ぶ書店との仲介の大部分をこの二社が担っているのである。この取次をめぐる歴史も極めて根深いものがあるが、本論の主旨からは外れるので、今回は言及しないものとする。

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