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プロゲーマーという思想――「遊び続けること」について

本稿のタイトルは、特定のプロゲーマーの持つ思想や、プロゲーマーについての思想を言わんとしているのではない。ここでは「プロゲーマー」それ自体が一つの思想であると言いたいのだ。

しかしながらそもそも「プロゲーマー」なる語を聞き慣れない人も多いだろうから、少しだけ説明を入れておこう。ここで「ゲーム」とはまず、いわゆるテレビゲーム、PCゲーム、あるいはゲームセンターに設置される様なアーケードゲームなどのことを指している。現在では上述のゲームのうち、とりわけ競技性の高いものが「eスポーツ」――すなわちエレクトロニック・スポーツと呼ばれ、世界各地で大会が開かれている。FPS(ファースト・パーソン・シューティング)には『Call of Duty』シリーズ、格闘ゲームには『ストリートファイターⅣ』シリーズ、そして近年大流行しているジャンルであるRTS(リアルタイムストラテジー)には『League of Legends』などといったビックタイトルが存在し、それらの大会の優勝賞金は1000万から1億を超えるものまで、かなり大規模なものとなってきている。

ただしプロゲーマーというのは、必ずしもこの様な大会で賞金を稼ぐ人という意味ではない。少なくとも現在ではそうなっていない。例えばゲームの周辺機器(コントローラー、モニター、ヘッドフォンなど)のメーカーがスポンサーとなり、大なり小なりプレイヤーを金銭的に、あるいは環境的にサポートすることでプロゲーマーなる仕事が成立している。最近では大手飲料メーカーの「Red Bul GmbH」が日本人格闘ゲームプレイヤーのスポンサーとなるなど、業界の勢いは増すばかりである。ここまでeスポーツ業界が大きくなったのはここ数年のことで、今後どういった展開を見せるのかは定かではない。当然のことながらeスポーツはサッカーや野球などの一般的な意味でのスポーツや、チェス、将棋、囲碁などのボードゲームの様に歴史がある訳ではない。一つのタイトルの寿命はせいぜい数年であり、FPSにしろ格闘ゲームにしろ、プレイヤーは新作が発売されればその度に闘う土俵を変えなければならない。言ってみれば毎回0から出発しなければならないのであり、次またトップレベルで戦えるかどうかは全く分からないのだ。

それでもなお「プロゲーマー」という語は、われわれの世代にとっては極めて魅力的に響く。過去には「高橋名人」と呼ばれるハドソンの社員が子供たちのヒーローとして名をはせていたらしい(1987年生まれの私は若干世代がズレており、彼のことを良く知っているという訳ではない)が、「ゲーム」を「仕事」にできるなんて、なんて素晴らしいのだろう…と、ゲームにどっぷり浸かったことのある人なら誰もが一度は思ったはずだ。しかしここで問題なのは、ゲーム=遊びと仕事が果たして両立するのか、ということである。ここまで述べてきた様に、プロゲーマーとして活躍している人がいるのは事実だ。ただ、理念的な意味での「ゲーム」は、実はほとんど成立することが不可能である。こいつは一体何を言っているんだ!と思われたかもしれない。ここで少し、哲学の歴史においてゲーム=遊びが語られてきたのかにほんの少し触れておく必要があるだろう。

「人間は語の十分な意味で人間である場合にのみ遊ぶのであり、遊んでいる場合にのみ完全に人間である」と言ったのはドイツの哲学者、フリードリヒ・シラーであった。ホイジンガが「ホモ・ルーデンス(遊戯人)」という語で、「人間とは遊ぶ動物である」と規定するのを待つまでもなく、18世紀に既に人間の本質としての「遊戯」が哲学的議論の中心に見出されていた。その後もカイヨワが遊びについて語り、ヴィトゲンシュタインがゲームについて定義することになるのだが、子細な検討は省略することにしよう。それぞれの哲学者が様々な議論を展開し、遊びについて、ゲームについて異なる意義を見出してはいるが、ここでは哲学的な議論に踏み込もうというのではない。ただどの哲学者の場合でも、ゲームが、遊びが、日常的な空間から切り離された特殊な場であるということでは一致している、と指摘しておけば十分である。すなわちゲームとは様々な現実的苦痛と乖離した快楽の空間(ネガティヴな表現を用いれば「現実逃避」)なのであり、それを楽しむというまさにそのことが目的とされているのである。

哲学など持ち出さなくても、われわれはゲームをその様なものとして認識しているかもしれない。当たり前のことを難しそうに言っているだけだ、と思われるかもしれない。しかしながらこれは、繰り返し強調しておかなければならない極めて大事な事柄である。例えばゲームを介して、人間関係に序列が生まれたという経験はないだろうか。誰かに力を誇示したくてゲームに労力を割き、大いに疲れたという経験はないだろうか。ゲームとはそれ自体、楽しむという目的が果たせない時点で崩壊する極めてシビアな理念なのである。ましてやそれでお金を稼ごうなどと考えた時、ゲームの外の世界が多分に「楽」を侵蝕することになるだろう。先ほど「『ゲーム』は、実はほとんど成立することが不可能である」と言ったのは、まさにこの様な意味においてなのである。

では「プロゲーマー」とは完全に語義矛盾であり、全くもって無意味な概念、職業なのであろうか? そしてまたほとんど不可能な「ゲーム」という理念は、棄却されねばならないのだろうか? これが問題である。冒頭の宣言とは反する様に見えるかもしれないが、ここで日本一有名なプロゲーマー、梅原大吾(以下、ウメハラ)の言葉を少し引いてみることにしよう。彼の特異な言説は、プロゲーマという思想を明らかにする上で非常に良いモデルとなるからである。発売直後には数万部を売り上げ、電子書籍やAmazonの新書ランキングで上位に居続けた彼の『勝ち続ける意志力』(2012年、小学館101新書)は、まさしく理念的な意味での「ゲーマー」のあり方を良く顕している。彼は15歳で日本の公式大会に優勝、17歳の時に世界大会で優勝するなど、若い頃から極めて格闘ゲームが上手かった。それでも小学生の頃から感じていた「たかがゲーム」という世間の目についに耐えられなくなり、一度ゲームの世界から離れてしまう。後に新作ゲームで復活し、その活躍が認められてプロゲーマーとなるのであるが、「世間の目」を常にその身に感じてきたウメハラは、ゲームの外/内という境界に極めて敏感である。

  大会というのは、日々の練習を楽しんでいる人間、自分の成長を追求している人間が、遊びというか、お披露目の感覚で出るものではないだろうか。大会における勝利は目標のひとつとしてはいいかもしれないが、目的であってはいけない。

そのことに気づいてからようやく、勝つことより成長し続けることを目的と考えるようになった。ゲームを通して自分が成長し、ひいては人生を充実させる。(p.189-190)

大会で活躍している人を見る時、われわれはそこに「ヒーロー」を見出す。かっこいい、あんな風になりたい。ゲームに限らず、他のスポーツを見る時でもそうだろう。しかしながらウメハラは、この様な意識は強くなるためには邪魔であると一蹴する。大会の結果、人の評価、拍手喝采、この様なものをモチベーションにするのは、極めて危険であると言う。『勝ち続ける意志力』というこの本では、「勝ち続ける」ことよりも「楽しみ続ける」ことが賭けられている。そして逆説的に、楽しみ続けることが技術の向上につながり、勝ちにつながると語られている。「勝つことの秘訣は勝ちを目指さないこと」ということが主張されているのである。

 日々努力を重ねて、日々成長を感じる。そうすれば毎日が楽しい。いつか来る大きな幸せよりも、毎日が楽しい方が僕には遥かに幸せなことだ。(p.214)

本書はウメハラがプロゲーマーになって2年後の2012年に著されている。2015年現在、彼がどこまでこの時の思いを継続させているかということは定かではない。彼自身、繰り返し「継続のためには変化が必要」と述べており、実際には大きく考え方を変えている可能性もある。実際、近年は様々なメディア(TV、ラジオ、漫画etc.)への露出、講演会、ゲームの宣伝など、大きく外に開いた活動をしている。しかしながらそれは、ゲームという楽しむための空間を拡張するために行っていることである。ウメハラもまた繰り返し強調していることだが、遊ぶということのためには、まず物理的な条件が整わなければならない。良く食べ、良く運動し、良く寝ることができなければ良く遊ぶことは難しい。当然のことながら良く(ある程度)稼ぐことも必要になるだろう。彼は今や、自らが遊ぶためだけではなく、多くの人々が遊ぶための環境づくりに励んでいると言うことができる(しかしながら同時に、環境が整備されたからといって安易にプロゲーマーなどというものを目指してはいけないと釘を刺してもいるのだが)。

繰り返しになるが、ゲームというのはその外部に目的を求めない特異な空間である。勝った負けたという事柄が人間関係に(悪)影響を与えてはならないし、ましてや政治利用されるなどというのはもっての他である。それでもなお、ゲームはやはり人生の中核を占めることになるだろう。先にシラーの言葉を引用したが、哲学的にどうこうと言うまでもなく、人生においては遊び、楽しむことが重要であるということについては殆ど誰も反対しないだろう。「努力せよ」と精神と身体の緊縛を強いる人も、その先の快楽を見据えているだろう。現実的に考えれば、純然たる遊びというのは極めて難しい。どうしても利害関係や人の目の問題があって、遊びは常に妨げられてしまう。ましてやそれを継続しようなどというのはほとんど不可能である。しかしながら、人生が本来楽しむことを目的としているのだとすれば、この「現実」の方がおかしいのではないだろうか。「現実」を転倒させて遊びにしてしまうこと、あるいはゲームの空間を最大限まで拡張して「現実」を覆い尽くすこと。現実的にはこれもかなわぬ理念であると言われるだろうが、ほとんど不可能なはずの「遊び」を可能にするというゲームが、少なくとも多くの場所で開催される必要があるだろう(あるいは芸術、あるいは言説、あるいはeスポーツ!目指せ一億総「プロゲーマー」)。

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