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偶然的合目的的性/生(ひとつのベルクソニズム入門)

 ある事象が「偶然」に生起した――この言表は単に、あらゆる事象が運動しているというまさにその事実を示しているに過ぎない。

 

周知の通り、偶然の対義語は必然である。では、「必然的なこと」というのは世の中にどれほど存しているだろうか。こう問われると案外難しい。「毎日朝になれば必ず陽は昇る」であるとか、「物体を上へ放り投げれば地面へと落下する」であるとか? しかしながら厳密に言えば「陽が昇る」という事態は、数万年後か数億年後かは知らないが、地球か太陽が消滅してしまえば生じなくなる。あるいは上へ放り投げた物体は、飛んできた鳥がくわえていってしまえばそのまま落下することはない。屁理屈に聞こえるかもしれないが、事ほど左様に必然的なことなど存在しないのである。当然、「数億年の経過や、鳥の登場などという突飛な想定は無意味である」などといった反論が考えられるだろう。確かに今回挙げた例は極端なものであった。しかしながらこの様に反論をする人は当該の因 ― 果関係を成立させるための「純粋な」条件を仮定してしまっていることになる。すなわち乱雑に言ってしまえば、「○○は考慮に入れないものとする」という「自分ルール」を勝手に適用してしまっているのである。「これこれの条件下であれば原因Aから結果Bが確実に導き出せる」――この様な主張は、それ自体では決して間違ったものではない。しかしこの様な反論をする人の中では、「これこれの条件下であれば」という仮定がいつの間にか雲散霧消し、この因果が常に必ず適用されるかの様に振る舞ってしまうところに大きな問題が存している。「必然」を、常に「偶然」が妨げているということに注意を払わなければならない。すなわち全ての物質は常に運動を続けているのであって、その限りで必然などというものは現実的にはありえない、理念的なものでしかないということになる。

この様な話は物理現象に限ったことではない。「人間」をめぐる問題に際しても、同様の事態が生じる。少し別のアプローチをしてみよう。人間は度毎に、ある目的にそって行動していると言われるだろう。すなわち例えば、一般的に「家を出て仕事場へ向かう」という運動が考えられる時には、靴を履く、ドアを開ける、歩く、改札を通る、電車に乗る云々と、必要なプロセスをいくつか経て目的が達成されると言われる。そしてこの必要なプロセスが進行しえない時、その状況や状態は「異常」と呼ばれるだろう(病気になってしまい歩けない、電車が止まってしまい乗ることができない、等)。しかし本来、「靴を履く」という動作一つをとっても、極めて微細な運動の総体をもって初めて「靴を履く」は成立する。換言すれば、われわれはただその一連の動作に「靴を履く」という名称を与えているだけでしかない。当然のことながら、同じ「靴を履く」という動作であっても無数に違いがあり得る。すなわち目的が達成されるまでの諸運動のうちには、無数の偶然的な運動が内包されているのである。しかし「目的の達成」という目的を達成するためには、その様な偶然性に気を配っている余裕はない。それは非効率、不経済であるだろう。それゆえに言い表せないほど極めて複雑であるはずの事象を、表現可能なまでに簡略化して理解してしまうのである。ここでの最も大きな問題は先ほどと同様に、この「簡略化」という一つのシステムが、「自分ルール」に基づいて成立してしまっているというところにある。目的達成のためにどのプロセスが必要であり、またそうでないのか――これは判断する者によって異なるのである。通勤といった具体的なものであればさほど問題はないだろうが、「目的」の抽象度が高くなればなるほど、「自分ルール」の介入度合いは高くなる。「生活する」「家族を養う」「国を守る」「幸せに生きる」などといった場合、何が必要で何が必要でないのか。これを判断することは(ほとんど不可能であるほどに)極めて難解であるはずなのだが、われわれはあたかも答えが一律に決まっているかの様に振る舞ってしまうことが多いのである。それは恐らく「思い込み」や「信念」、「イデオロギー」(後者二つも思いこみの一種かもしれない)など様々な「原因」に基づいていると言えるだえろう。

私はここで、「目的の達成」というこのこと自体を廃絶されねばならないと言っているのでは決してない。大なり小なり、それぞれがそれぞれの目的の達成を目指すというこの振る舞いがなければ社会は成立しない――あるいはまた、合目的的に生きるというのは人間のみならず生物一般の習性であるため、廃絶できる様な類のものではない。しかしながら同時に、「合目的的」であるということは必ずしも本当に合目的的ではない、ということも主張しておかなければならない。これは単に「獲物を狙っていたら横から別の動物に食い殺された」といった様な「視野の狭さ」の話をしているのだが、この問題は極めて根が深い。2011年3月11日のことを思い出してみよう。この時、地震や津波の影響で多くの方が亡くなった。これは、「生きる」という目的のために、社会がもっと合目的的でなければならなかったという事例である。地震の時は高台に避難するなどということをもっと徹底しなければならなかった。他方、関東圏ではどうであっただろうか。あの日、震度5強前後の揺れに伴い、公共交通機関は軒並みストップし、多くの人々が立ち往生を食らうこととなった。仕事場に行くという目的が異常事態のため妨げられたという格好である。幸せに生きるために家族を養い、そのために仕事場へ向かう――という目的が阻害されたサラリーマンたちの表情はどうだっただろうか。「仕方なく」「偶然に」目的を妨げられた彼らは、普段よりはるかにリラックスした身体を伴って駅の周辺をさまよっていた(勿論、この状況が数時間継続した後は疲労などで苛立ちを見せる人も少なくなかったが)。仕事が滞るのは困るが、なるほど、合目的性に抗する事態がこんなにも自分を楽にしてくれるのか。一つの幸せのありようが、すなわち一つの大きな目的が、偶然的な事態によって初めて姿を現したのである。

偶然とはすなわち運動であり、それが全てである。目的の王国に抗うこの偶然性――これに気づくかどうかもまた偶然であるが――、ここに一つの生の目的があるのだ。

 

参考文献

アンリ・ベルクソン『思想と動くもの』河野与一訳、1998年、岩波文庫

アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』合田正人、平井靖史訳、2002年、ちくま学芸文庫

文字数:2688

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